殿下の帰還
殿下は、二週間の予定でベルン離宮へと旅立った。
私は同行できないということだったので、準備は念入りに、念の上に念を三つくらい入れて行った。同行する侍従さんには、紙十枚くらいの注意事項を託す。
「殿下、私がいないからって徹夜はだめですよ。むしろ早起きして散歩した方が、仕事は捗るんですからね」
「分かっているよ」
口うるさく注意されてるのに、嬉しそうな殿下。私の髪を触ってる場合じゃないでしょう。真面目に聞いてるんですか。
そして、殿下を見守る女官の皆さんは、両頬に手のひらを当ててホウッとため息。意味が分からない。
殿下のいない奥宮は、はっきり言って暇。
南宮で仕事を手伝おうと思ったら、元上司である南宮の女官長に、こめかみを拳でグリグリされた。
痛い痛い痛い! 地味に痛いです!
仮にも王子殿下の部屋付きなのたから、空いた時間は自分を高めるために使えと、財務局に放り込まれた。
財務局で何をしろと?
首をかしげていると、見慣れたおじ様が手招きをしていた。
財務長官様だ!
長官室にて、お茶とお菓子付きでお話し相手を勤めた。長官様のお仕事の話を聞くだけ。楽勝だね。
次の日から、内務局、外務局、教育局と、各長官室を転々としてお話を聞く日々――自分を高めるって、こういうこと? うん。お茶とお菓子が美味しいです。
最後に軍事局の総司令官室に行ったなら、相手はロベルト殿下だった。
「留守番っ子が来たか」
ふん。自分だって留守番組のくせに。
ロベルト殿下は、ちまちました話より、騎士たちの訓練でも見た方が面白いだろうと言って、私に飴入りの袋をくれた。
これを食べながら見学しろと? あ、美味しい。イチゴ味だ。
ロベルト殿下の解説で、剣術の練習を見学した。意外にも、ロベルト殿下は理論派だった。てっきり『気合いで乗り切れ』というタイプだと思ったのに、人を見かけで判断してはダメだな。
「お話中、失礼します」
伝令らしき騎士様が、ロベルト殿下の耳に何かをささやく。
殿下の顔が曇った。
悪い知らせか?
「エルフィーネ、リックが伝令の早馬と共に帰城したそうだ」
早すぎる。交渉は決裂? それとも殿下に何かあった?
私はすっくと立ち上がった。
「場所はどこです?」
「東門側の前庭――って、おい!」
私はドレスの裾をたくし上げて、全速力で走り出した。
行き交う人たちが驚いたように振り返る。
止めるな。
誰もわたしを止めるな。
東の前庭に着いた私は、目の前の光景に息を飲んだ。
馬が三頭繋がれていて、少し離れた所で誰かが地面に横になっていた。
介抱している人たち。心配そうに見守っている国王陛下と、王妃様――
「殿下! ロデリック様!」
駆け寄って側に跪くと、殿下は閉じていた目蓋を開いた。
アクアマリンのような瞳が、私を見て嬉しそうに笑った。
よかった。息は荒いけれど、意識ははっきりしているようだ。
不意に殿下の姿が涙でぼやけた。喉の奥が痛い。
「エルフィーネ、ただいま」
「お、お、おがえりなざいまぜ」
鼻が詰まって、上手く喋れない。
「交渉は成功だ。やったよ。やったんだ」
「お、お、おめでどうございまず」
「皆、よくやってくれた。後で事務官達を誉めてやって」
殿下は右手を伸ばして、私の頬を撫でた。
「僕にはご褒美をちょうだいね」
コクコク頷くと、殿下は幸せそうに目を閉じて――私の頬に当てられていた手がスルッと落ちた。
ひっ!
青くなった私の横で、宮廷医が苦笑した。
「ご心配召されるな。気絶されただけです。気が緩まれたのでしょう」
殿下の……殿下の……
バカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!