三十四話 まおうさま いしきをうしなう
「はあ、エイベル様にもう一度会いたい……」
私は、まるで乞うように甘えた声を上げるティニーから目を反らし、ため息をついた。
……恐ろしいことに、いつものどもり癖が消えている。
すぐに目を反らしたのだが、彼女の瞳はいつぞやのアンナと同じ――恐らく恋する乙女のものだった。
彼女は十五歳。ドワーフにしては若い部類。
十年前といえば五歳である。そのとき、一目惚れしたのだろうか……。
――私の家に波風が立っても困るため、お父さんのことは黙っておく。
「それで、その『英雄』の活躍でレギオニアの被害は殆どなかった……ということか?」
私はティニーを無視し、リリアに問いかける。
とっとと話題を変える。これが重要だ。
「まあ、そうなるわね。だから今のレギオニアがあるの。とはいえ、無傷ってわけにはいかなくて、当時の姫や治癒術師に薬師、騎士団長たちが亡くなった……って聞いてるわ」
「ふぅん……」
このあたりは私に関係のない話のようだ。
残念なことに、『英雄』の聖痕についてはリリアとティニーに訊いてもよくわからなかった。
……あれは世の中に複数存在する方がおかしい代物なのだが。
なので私は二人との会話をいったん打ち切った。
下手に口が滑るとティニー相手に面倒なことになりそうだし。
◆
その後、ミミーナやウィンディにも『英雄』とやらについて問いかけてみた。
二名の回答は全く分からないとのこと。
とりあえず、この件については王都に着いてから調べることにしよう……。
もう一度自分なりに情報を整理してみるか。
そう考えた私は立ち上がり――猛烈な眩暈に襲われた。
身体から力が抜け、視界が歪む。
どちらが上か下かもわからない。
曲がりくねった床の上では、真っ直ぐ立つことすら叶わず、足から力が抜けていく。
えらくフラフラと揺れる。
そんなに波が激しいのだろうか――と考え、揺れているのが自分なのだとようやく気付いた。
――あ、これは不味い。
意外なことに、私はこの状況でも平静さは保てていた。
伊達に長年生きてきた――そして死んだ――甲斐はあるということだろうか。
だが、胃から込み上げる酸っぱい感覚は別。
失われた平衡感覚が、まるで私を押しつぶすかのように圧迫してくる。
ついには、完全に体勢が崩れ――だというのに、何故か私には一秒が何十、何百秒のように感じられた――私は前に向けて倒れ込む。
受け身なんて取る余裕はない。
それどころか、指一本すら動かせそうにないのだ。
――このまま、顔を打ち付けたら痛いだろうか?
私はまるで他人事のようにそう思った。
ここまで体の感覚が無くなれば、現実感もなくなってしまうようだ。
◆
――が、いつまで経っても私と床とが挨拶をすることはなかった。
一秒が無限大に変化しているわけではない。
それどころか、いつの間にか感覚も正常化している。
……ただし、身体を包む倦怠感は変わることはなかったが。
「大丈夫!?」
私を支えながら、紫の髪を振り乱しながら彼女は叫ぶ。
ミミーナであった。
彼女は、長い尻尾を器用に使い私が倒れるのを防いだのだ。
……今の私は、まるで物干し竿に吊られる洗濯物。
そのままミミーナは私を引き寄せ、腕の中で抱きしめる。
彼女と視線が合うと、瞳は揺れていた。
「ア、アリシア、どうしたの!?」
尾によって視界は遮られていたのだが、声と共にどたどたという足音がして、他の少女たちも何事かと駆けつけてくるのがわかった。
私は顔を上げ、彼女たちに笑いかける。
「なんともない」
「なんともないわけないでしょ!」
リリアががなると、頭に響く。
私が顔をしかめたのがわかると、彼女はごめんと小さく謝った。
「痛いところはない!?」
「……少し鱗が食い込んで痛い」
血相を変えて叫ぶミミーナに、安心させようとおどけるようにして返してやる。
残念ながら思ったような効果は得られなかったが……。
「どうしたら……」
普段奔放なウィンディまでおろおろしだしたので、恐らく私の顔色はかなり悪いのだと察した。
「すまない、少し寝る。夕飯になったら起こしてくれ……」
結局、私を中心に円を囲むようになってしまった。
気恥ずかしいので、私は言伝を頼み、意識を手放すことにする。
◆
頬をぺちぺちと叩かれる感覚。
あまり力は入っていないのだが、それでも眠りを妨げられるのは鬱陶しい。
「起きて、アリシアちゃん」
「ん……」
「夕ご飯の時間よ。食欲、ある?」
ミミーナはまるであやすかのように私に訊く。
私が口を開くまでもなく、ぐ~と別の個所が答えを返した。
「……大丈夫みたいね。風邪かしら?」
安心したのか、ふふふ、と彼女は微笑む。少しだけ、彼女の仕草はお母さんに似ていると思った。
そして私の額へと手を重ねる。
「熱はないみたいだけど……」
部屋に目をやれば、リゼルグとピトーの二人が台車と共にいた。
二人が今日の配膳当番らしい。
……理由はわからないが、いつもリゼルグはいる気がするな。
監視のためだろうか。
「はい、お皿、持ってきたよ」
私たちの会話を聞いていたのか、ウィンディが差し出した。
手を伸ばし受け取ろうとした矢先――ミミーナが受け取ってしまった。
「む……?」
困惑する私を無視し、彼女はスプーンを突きつけてくる。
「あーん」
「……?」
「お口、開けて?」
まさか、食べさせようというのか?
確かに強い空腹感があるのだが、それは、ちょっと……。
「自分で食べられる」
「駄目よ。病気のときは、誰かに食べさせてもらうものなの」
「そういうものなのか……?」
私は一度も風邪を引いたことがない。
前世ではそういう概念がなかったし、アリシアになってからは健康そのもの。
だから、嘘かまことか皆目見当がつかない。
そもそも、これは病気なのだろうか……?
この倦怠感と眩暈。
それに反した食欲の増加。島を離れてから徐々に頻度が上がりつつあるこの症状。
どちらかといえばこれは――。
「と、芋か?」
甘い匂いが私の鼻孔を擽った。
そのまま視線をやれば、焼いた芋が皿の上にある。
赤い皮に、ずいぶん黄色い実と、残念ながら、私が慣れ親しんでいる品種ではないようだったが。
「うん。今日は魚はなしだってさ。天気悪いから仕方ないね。……これからずっとこんな調子だろうけど」
ウィンディは残念そうに言う。
彼女の予測では、これから一週間ほど天候は荒れるらしい。船室の中だというのに、彼女は寸分の互いなく予測を立てる。
……そう、彼女には天恵がある。
ヒト以外の希少な種族を商品とするゴルトー商会に彼女が捕まった原因がこれだ。
本人いわく、天気がわかる力。
農村の生まれだったが、大金を目の当たりにした両親に売られ、今ここにいるのだという。