外伝 とある吸血鬼の安寧
前回のお話とは時系列が前後します。
彼は、窓から差し込む日光の眩しさで目を覚ました。
毛布の上に寝かせられているのか、柔らかな感覚が彼を包む。
――俺は、一体。
寝ぼけた頭では、事態の把握が難しい。
まずはとりあえず、顔を洗おうと思い起き上がり――
自身の腕が骨ばった皮膜と化していることに気づいた。
慌てて自分の顔に手を触れると、頭上には巨大な耳の感触がある。
――そうだ。俺は――。
ようやく彼は昨晩の出来事思い出した。
彼――ドミニクは、策謀を実行に移し――敗北した。
結果がこの様である。
人の姿を失うどころか、言語すら発せない。
彼は今、哀れな一匹の蝙蝠でしかなかった。
『――助けてくれっ!』
魔王を装うため、威厳を醸し出そうとしていた演技を忘れ、ドミニクは叫んだ。
返事はない。
口から洩れるのはきぃきぃという鳴き声だけだった。
焦燥に呑みこまれそうになりながら、ドミニクは助けを求めることは止めなかった。
――うるさいぞ。
すると、脳裏に言語が響いた。
彼が聞いたこともない、地の底から響くような声。ドミニクには耳をふさぐことすら出来ない。音声自体が脳に直接流し込まれる様な感覚。
『誰だ、お前は!』
――私か?
声に、嘲笑が含まれた。
一拍おいて声が告げる。
――お前の飼い主だよ。
ドミニクは抗えない圧迫感に襲われ、恐慌に陥ると、そのまま意識を失った。
◆
「あ、目覚めたみたい!」
ドミニクが再び意識を取り戻すと、眼前にいたのは巨大な少女であった。
――否。
少女が巨大なのではない。
ドミニクが小さいのだ。
――もし、この子が俺を殺そうとすれば――。
一瞬想像し、ドミニクは恐怖に震えた。
変形させられたばかりの四肢は貧弱であり、ドミニクは自分の意思で動けない。
もし、この場で襲われればあっけなくドミニクは生涯を終えるだろう。
――そうだ。この子は俺が吹き飛ばしたヒトのうちの一匹だ。
ドミニクは、目の前の少女に心当たりがあった。
昨晩の戦闘で、彼の放った大魔法に巻き込まれた一人。
「大丈夫? 痛いところはない?」
だというのに、ドミニクに向けられたものは慈愛に満ちた眼差しであった。
頭を撫でつけられ、ついドミニクは目を細めた。
――美しい。
少女の銀髪が日光を反射し、煌めく。
今まで、陰に這いつくばって生きてきたドミニクには、彼女が美の化身のように思えた。
「それにしても、魔物に襲われて死にそうになるなんて、助けてもらってよかったね」
少女の言葉に、疑問符が浮かんだ。
ドミニクには、何の話かわからない。
しかし、彼の反応などお構いなしに少女は続ける。
そもそも、彼女は目の前の蝙蝠が人語を解するなど思いもしない。
「あたしも、冒険者さんに助けてもらわなきゃどうなってたか……ね、アリシア」
「うん、お姉ちゃんも気をつけないと。何かあってからじゃ遅いんだから」
「も~、わかってるよ~!」
もう一人、少女より幾分小さいヒトが現れる。
アリシアと呼ばれた黒髪の少女は、姉の言葉に答えたあと――
――美しいだと? 次に指一本でも触れてみろ。縊り殺すぞ。
口を動かさず、ドミニクに語りかけた。
姉とのお喋りで使われた鈴なりのような声とはまるで違う。
ドミニクの脳に響いたそれは、先ほど彼を恐慌に追い込んだものであった。
◆
それから少し時間が経過し、太陽は真上に上り昼を告げていた。
少女たちが昼食の芋を頬張る傍らで、ドミニクは山羊の乳を啜る。
銀髪の少女――シンシアが魔法によって温めたものだ。
「お父さんたち、まだ帰ってこないのかなぁ」
シンシアが心配そうに呟く。
「随分遠くの方に大量のブラッドオーガを配置したみたいだから。危険はないけど、時間だけはかかってるみたい」
アリシアがまるで見てきたかのように言う。
彼女は、ドミニクの肉体を作り変える際、ついでとばかりに記憶を覗き込んでいた。
ドミニクはオーガを単に配置するだけでなく、可能な限り撤退して時間を稼ぐようにと指示を出していたのだ。
「……アリシア、なんでそんなこと知ってるの?」
何も知らない姉からすれば当然の疑問である。
「えーっと。……天恵。そう、天恵の力だよ」
どこか投げやりにアリシア。
「そ、そういうものなんだ」
「うん、そういうもの。あ、冒険者さんたち、お父さんたちに会いたがってたからそれまで滞在するみたい」
「本当!? あたし、もっとお話ししたかったから嬉しい! お父さんたちにも、お礼してもらわなきゃ」
そして、下手に突っ込まれては敵わないと思い、強引に話題を変えていく。
「あ、ドミニクのお皿、空になってるね」
「ほんとだ。よっぽどお腹が空いてたんだね。……って、ドミニクって?」
ドミニクは意識しないうちに乳を飲み干してしまっていた。少女たちの会話に聞き耳を立てるのに集中していたのだ。
「この子の名前。私がつけたんだ」
『――何のつもりなんだ? 俺を、殺すなら殺せばいいだろう!』
アリシアの注意がこちらを向いたので、ドミニクが叫んだ。
蚊帳の外のシンシアからすれば、いきなりきぃきぃと何やら鳴いているようにしか見えないのだが。
「お礼を言ってるみたいだよ」
「アリシア、この子の言葉がわかるの!?」
「うん。ねー、ドミニク」
シンシアは、その翻訳が改竄されたものだと気づくことはない。
そんな彼女を横目に、アリシアが答える。
――殺すつもりなら、こんな姿にする必要はないだろう? これから、貴様には片腕として働いてもらうぞ。なぁに、その分の報酬は用意してやるさ。
にこやかな笑みとは裏腹に、ぞっとするような、冷たい響きだった。
◆
彼がこの姿になってから、一月が経とうとしていた。
彼は、家主たちに暖かく迎え入れられ、家族の一員となった。
簡易的な寝床で日の出とともに目覚め、森の魔物から少量の魔力を吸い帰還する。
家主たちと同じ時間に、一日三度山羊の乳を与えられ、子供たちの遊び相手を務める。
そして、魔力を指定された魔石に注ぎ込んで眠りにつく。
そんなサイクル。
時折、恐るべき支配者にからかうように語りかけられることを除けば、このような快適な生活は初めてである。
――この村にいる限り、彼を貶めようとする悪意は存在しなかった。
――この村にいる限り、彼に空腹という概念は存在しなかった。
――この村に、彼を討ち果たさんとする者は存在しなかった。
不可思議なことに、彼を包むのは安寧であった。
虐げられ、支配者を目指した彼は、逆に支配されることで一時の平穏を得たのである。