秋季の牢獄
秋季の牢獄 聖天 三月
「はぁ。もういい。」
枯れ草がカサカサと音をたてると、何かが腐敗した臭いがした。
秋季がこの牢獄に来てから約二年目になる。もう大分家に帰っていないし、(帰れていない)家族もそろそろ気持ちの限界というものになっているのかもしれない。だって仕方ないと思う。今更戻ろうなんて思う方がおかしい。
「秋季。ここにいたんだ?」
―正直、この世界もあまり悪くない。
「李空。」
私にとって大切な人。ただ一緒にいられるなら、それでいい。李空は土や灰で汚れた私の手をとって、はたいた。
「俺も何度も試したけど、無理だったよ。アキ、これ以上はよせ。ケガする。」
「うん。」
茶黒くなった手を李空はためらうことなくとって歩き出した。
そのまま歩き続けていると、欧米の洋館を思い出す赤煉瓦が見えた。そこは秋だというのに青く伸びる芝生が、まるで無作為に何者かが手入れをしたかのようだった。地面の広さはどれくらいあるのか分からない。しかし、誰かが通った跡のある先を向くと、話し声が聞こえた。
パッと見、黒髪だがよく見るとこげ茶色した女の子・秋季。秋季と手を繋いだまま、きょとんとした顔をしている透けるような淡い茶の髪色をした男の子・李空。
話し声の主はあとの二人だ。
秋季と李空の傍ら、すぐ横で笑顔を輝かせるロング丈の黒髪をした女の子・葉鳥。木の丸太に腰かけながら、穏やかに話す黒髪に黒眼鏡をかけた男の子・豊。
いつからだろう。お互いを避けるようになったのは。決して見つかってはならないと、隠れるように逃れるために避けて生きるようになったのは。
それはいつからここにいるのかということと似ている。
だってこの箱庭――。まるでこの牢獄には現実世界で必要としてきた衣食住が全て存在しなかった。それすらこの世界にとい。疑問をもつことさえ遊び疲れた子どものように飽きてしまった私達だけれど。
秋季は土で汚れた指先を見つめながら、木の下で一休みしていた。すると李空が何やら気分の良い表情でトコトコやってきた。
「手をかして。」
そう言われたので、「ん?」と戸惑いながら李空へ差し出した。李空は手のひらより小さい葉っぱを取り出して、秋季の指先をこすり始めた。
「なっ!」
秋季は少しむずがゆい感覚をもった。ただ手に触れている葉の部分がくすぐったいと感じる部分に、こすられているせいかもしれないが。頭の中で認知しながらも李空の行為を拒む隙が見つからず、ただ見守っていた。しかし、すぐに恥ずかしくなり、李空に話しかけようとするも、なかなか適した言葉が見つからなかった。考えた末、口にした言葉はこれだった。
「李空、鼻毛が出てる…。」
「えっ!」
李空はさっと素早く鼻をこすった。非常に恥ずかしそうにしていたので、彼の耳元で「後でどうにかしよう」とつぶやいた。
秋季はどうしていいのか分からなくなると、つい相手に冗談を言ってからかったり、落ち着きがなくなって話題を変える癖がある。自分の中では、そのことが至って普通の出来事だった。決して誰かを陥れようとしたり、傷つけようと思ってやったことではない。悪気はこれっぽっちも無かった。
少し前まで、秋季と葉鳥は互いに親友以上に慕っていた。葉鳥は秋季より三つ年上の同級生だった。同じ学校に入学した四月から、どこへ遊びに行くにも、たいていの授業にもいつも一緒だったし、昼休みも笑いの絶えない仲だった。
一年前の初夏、秋季と葉鳥は友人の紹介で李空と豊という男の子と会うことになった。その日は、少し遠出してショッピングモールでぶらぶらして、夜まで遊んだ。当時の私達は、ある一人の知人のことで悩み、頭をかかえていた。気がつくと、秋季は初対面の李空に悩みを相談し始めていた。話し始めて自分がどれだけ相手のことを心配していたかに気づいた。いつの間にか李空は、秋季が話している間ずっと黙って話を聞いていてくれた。遠くの方で、葉鳥や豊も何か話をしているかのようだった。瞬間、仲に割って入りたくなるような雰囲気を目が捉えた。席を放れようとしたが、すぐ隣に李空の瞳があった。ふと、ギュッと心が捉まれた気分になった。
少し日が伸びて、パッと夜になった気がした。優しい夜の中の静かな瞬きにうっとりしながら夏の香りを感じた。(もっと話を聞かせて)と言わんばかりの李空のまなざしに、少し戸惑いながら話し続けた。
秋季と葉鳥は休みがあれば、学校であろうと何であろうとたいてい会っていた。放課後、葉鳥の家で過ごすこともあれば、楽しみすぎて夜までいたり、夕食を共にしたり、お泊まりもする仲だった。
この四人で会うようになってから、何回目かの二年目の夏が経った。ある日のこと。何故こうなってしまったのか、誰に訊かれてもはっきり言ってよく分からない。恐らく秋季と同じように、葉鳥もまた秋季のことを想っていただろう。
ドクダミの葉で手を処置してもらった秋季は、廃屋になっていると思われる赤煉瓦の洋館にいた。洋館の二階から外の様子を眺めているようだった。秋季はたそがれていた。箱庭とは思えない位、自分の育った場所にもどこか探せば見つかりそうな程、幻想と思い違えてしまう位、素敵な風景だった。
(今はいつの何月何日なのだろう。)
箱庭――。この世界に時計はない、カレンダーはない、テレビもない。
洋館の窓から見えるところに二人の姿があった。葉鳥と豊だ。木の丸太に腰かけていた二人は手をつないで木の陰に隠れて見えなくなってしまった。
しかし、一体ここはどこなのだろう。秋季は箱庭だと思って言い聞かせているが、どのようにしてこちらに来たのかあまり覚えていない。
その日は朝から四人で有名なテーマパークへ出かけた。豊の運転でお喋りをしながら向かった。秋季達の住む世界では知らない人などいない、有名なそのテーマパークは連日子どもから大人まで多くの人々に愛され、とても賑わっていた。男女のデートスポットとはこういう所を言うのかも知れない。葉鳥は当時よく豊と遊びに来ていた。思えば、秋季も昔は両親や幼馴染と遊びに来たし、李空も知人と来たそうだ。
ズキッと胸の奥に痛みを感じた。これを一体何と呼ぶか分らない。そう、葉鳥と少しずつズレていったのはきっとこの頃なのかもしれない。
葉鳥と一緒にいて、笑顔の葉鳥を見られるのならそれだけで良かったのに。秋季は少し豊に嫉妬した。葉鳥も豊もどこか穏やかで冷静で優しい。最近、ほんの少しだけ葉鳥が豊と長く過ごすようになって、ほんの少しだけ秋季と葉鳥が共に過ごす時間が減ったのだ。それは『嬉しい変化』なのだから喜ぶべきなのだ、と秋季はずっと心の中で唱えるように言い聞かせていた。
葉鳥もその日を楽しみにしていたに違いない。みんなで楽しめたらそれでいいと思っていただろう、ただ純粋に。秋季はそれほどムードメーカーではないけれど、それでもみんなのことを想う葉鳥・豊・李空に同意するようにどうしたらみんなが楽しい一日を過ごせるか考えていた。四人でなら、どんな所でもやり過ごせると信じていたし、信じたかった。
なんとなくぎこちない四人の雰囲気に、秋季は無言になったりいていた。テーマパークには様々な見世物があるので、楽しみ方だって色々あると思う。もともと四人でテーマパークに行きたいと言い出したのも秋季だった。本当なら葉鳥や豊の楽しみを共有したいと思ったのだが、これは避け方が良かったのだろうか。ましてや、優しい豊の心遣いに甘えて車に同乗するなど控えるべきだった。だが、四人はとても優しい上に楽しかった。秋季は同世代の友人とどこか出かけたり遊んだりすることが少なく、尚更新鮮だった。親友の葉鳥達と来れたことが大いに喜びであり、念願だったのだ。
葉鳥と豊が別々に行動しようか、と提案してきた。その後、秋季達が買い物をする代わりに夕食のお店も先に行き、順番待ちをしていてくれた。そういう心配りは嬉しかった。秋季は自分を責める気持ちを必死に堪えながらも、一日中みんながどう楽しむべきか考えた末、結局相手に気を遣わせてしまったのだった。
お礼とお詫びに色の違うお揃いの箱を、秋季はプレゼントした。それで良かった。葉鳥は秋季から箱をもらい、驚きながらも嬉しそうにしていた。帰りの座席で秋季はふと眼にしてしまった。葉鳥の顔がまるで遊びに行った者の顔立ちをしていなかったのだ。秋季は葉鳥から目が離せなかった。葉鳥の横顔は――、何かにとても不快に思い、物言いたそうな表情をしていた。 夜の薄暗さの中、かすかな明かりに照らされた彼女を秋季は見逃さなかった。
「何しているのー?」赤煉瓦洋館の部屋の中に、李空が入ってきた。いつも李空は気付いて欲しい時に見つけてくれないことの方が多いが、こう秋季がふらりとどこか姿を消すと探して見つけてくれる。
「葉鳥は、何しているんだろう。」
李空のそういう所が好きだ。秋季は錆びたパイプ席に体育ずわりをして、窓に向って言った。
「風に当たりに行こうか。」
李空は秋季を誘ったが、外に出てもし葉鳥と出会ってしまったら、と思うと急に怖くなって首を振った。「いいから。」と李空は秋季の手をとって連れ出した。ふわっと暖かな風が秋季の髪と頬をなでた。手を引かれながら、宙を舞う蝶を見ていた。
「秋季、話があるんだ。」
その日は楽しかったのに。葉鳥が楽しそうにしていなければ、伝染したように秋季も楽しくない。
「楽しかったよ、ありがとう。」帰り際、秋季は葉鳥にやっとの思いで感謝の言葉を伝えた。秋季の心の中で不安と理由のない後悔が時間を増すごとに重くなって、ポッカリ穴が空いた気分だった。
(どうすべきだったのだろう。)葉鳥の表情の理由も分からないまま繰り返し繰り返し考えていた。この時から、秋季と葉鳥の歯車は狂ってしまったのだろうか。
秋季は後日、葉鳥の口からではなく、李空の口からあの日の表情の訳を聞くこととなった。
「何で葉鳥のこと気付いてあげられないの?」
気付けなかったんだ。秋季の行動や態度が葉鳥だけでなく豊までも傷つけてしまったのだということを。何故こういうことになってしまったのか、秋季自身に問いかけてみても分からなかった。心の中にジーンと熱いものが込み上げてきた。秋季は李空の質問に答えることが出来なかった。葉鳥に対しての無念さと葉鳥にしてしまったことへの秋季自身への怒りからくるものだった。とても苦い味がした。涙の塩気と汗の塩気、鼻水と混じって雨で濡れてしまった窓ガラスのように李空の顔も見えなくなった。李空はいつもは優しいけれど、こういう時だけは秋季に厳しかった。
秋季は李空を責めた。あの時、李空も傍にいて、秋季でなく先にもし、李空が葉鳥の様子に気づいて秋季のことを止めていたら良かった、と。秋季もみんなのことを考えて行動していた、と。葉鳥が、豊のことを思いやって不快を表情に出すまでの関係だとは思っていなかったし、秋季と李空の行動を疑われているということを知ってしまった以上、秋季自身もこれまで通りにはいけなかった。そして秋季自身、分かったことがあった。秋季と葉鳥の間にそれほどの信頼関係はなかった。
葉鳥は秋季を信頼していなかった。秋季は葉鳥のことが大好きだった。それでも李空は秋季の味方になって秋季のことを支えた。秋季は憎いほど葉鳥も李空も大好きだった。
青い芝が茂った小さな広場があった。小さくて可愛らしい花々があった。いつかどこかで好んだ白いタンポポのような花も秋季や李空の訪れを迎え入れた。
「話って何なの?」と言えず、のどかな日和を楽しんでいると、李空が芝の上に寝そべって、隣に来てと合図した。李空は膝の上に頭をのせて、甘ちゃんな様子だった。
「秋季は今日が何年の何月何日か分かる?」李空がいたずらっぽく笑いながら、秋季の顔に猫じゃらしをやった。
「さぁ…。」
「俺、もうすぐ俺らが出会った頃なんだと思う。」
秋季は。李空ともうどれ位一緒にいるか分からなかった。はじめからもう何年も一緒にいるような気がしたし、まだこれ位しかいないんだ、とも思うのだ。正確な時間も分からないこの世界で、秋季は李空と出会ってから四年目が過ぎようとしていた。
秋季は李空の口から葉鳥の不快に感じた大体の理由を聞いて、一度話し合いたいと頼んだが、受け入れてはもらえなかった。
『秋季と話し合うことは出来ない。』
『秋季がみんなを巻き込んで、迷惑をかけていることは秋季が一番分かっていることでしょう?』
はっきり葉鳥に言われたが、秋季はやっぱり何故そういう風になってしまうのか分からなかった。だから、ますます秋季にとって葉鳥は大きな存在になっていった。それなのに、秋季が謝っても向き合おうとしても葉鳥の心は開くことはなかった。時間が増すにつれ、ようやく事の大きさに気づき始めたのだった。
李空と話すのが嫌だった。でも、李空は秋季の知らないことに、葉鳥や豊と度々会っていた。秋季が葉鳥だけでなく、豊にさえ受け入れてもらえなくなってから、二人の気持ちや様子を知るには李空から聞くしかなかった。
―聞いて何になるのだろう。分らない。でも、葉鳥の気持ちを知って理解したかった。全く悪意はなかったのだから。
李空は秋季に時に厳しいことも言った。初めは本音がみえなかった。でも前向きなところだけは分った。李空の話を聞いていて、秋季ばかりでなく、李空も同じ境遇にいたのに、秋季に対して厳しい口調になったり強いまなざしを向けた。それはいつもの優しい李空の表情とは全く異なっていた。李空に秋季はその都度泣かされた。強い口調が秋季の心を次々に崩していった。見栄やプライドを全てはぎ取るように、秋季の心に李空の言葉が鋭く、でも優しい夏の雨のようだった。
「もう葉鳥に近づくな。」あとからあとから降り注ぐ雨の中、聞こえたのはその言葉だった。
「俺、もう秋季が傷ついて泣いているところを見たくないし、秋季のいないところで秋季が責められるのを黙って見ていられない。」
秋季は胸が苦しくなった。自分の言動や態度が大切な親友・葉鳥、葉鳥の大切な恋人・豊、豊の親友であり葉鳥の友人である李空…、秋季にとって大切な人々をも苦しめて傷つけてしまっていたのだ、と。ここにきて少し葉鳥の言葉の意味が分った気がした。しかし、もう戻れない。秋季自身の中では葉鳥との一件は終止符を打ったも同然だった。秋季は葉鳥に悪いことをしたと思う。でも悪気は全くなかった。葉鳥のことを心から信頼していたから甘えてしまったことも原因だろうが、謝って反省した。だから、それでいい。だって、すごくすごく葉鳥のことを慕っていたと今になって気付いたのは本人だから。
秋季はその後、みんなのことを巻き込んだことに悪意を感じて、一切の関係を絶つことに決めた。
いつもどんな時でも一緒だった葉鳥。もう秋季の隣にはいない。秋季の声は葉鳥には届かない。術もなくどうにかなれと強く願ったりもした。今はもうどうにも秋季にはすべきことはなくなっていた。今まで通り、ずっとずっと秋季の傍にいたその人の眼差しを精一杯受け止めることしかできなかった
それは、あまりにも秋季にとってとても悲しい辛いものだった。
李空は葉鳥に受け入れられている様子だった。箱庭に来てから度々李空の姿が見えなくなることがあった。秋季は何もすることがないながらも、心の中では自然と李空の姿を目で探してしまっていた。
思えば、李空と知り合ってみんなで出かけたあの日からまるで秋季の心の中にすっぽり住みついて入り込んでしまったかのように李空は傍にいた。
彼がいないだけでこんなにも喪失感を抱くものか。どんなに綺麗な景色も、どんなに胸が踊るような話も一緒に感じることができる人がなければ、それはそれで無かったことみたいに自分の中で消えてなくなる。
ふと前にも似たような感じ方をしたことがあったと秋季は思った。すぐ分った。葉鳥が離れてからも、李空と同じように思うことがあった。少なくとも秋季にとっては葉鳥も李空も親しく、なお且つ大切な存在だった。いつかは自分もすぐ近くにいたことがあった、と思った。しかし、今は遠い。こんなにも傍にいるのに、自分だけが交わることができない。何をして、何の話をするのだろう。葉鳥、豊。秋季があの日、あなた達を傷つけてしまったことに変わりはない。だから、どうか秋季がそのことをずっとずっと忘れないためにも、このままの方が良いのかもしれない。
秋季は古びた赤煉瓦の洋館から三人の姿を見つめながら思った。
(どうか、自分のことを許さないで)と。
後々、秋季は李空から葉鳥のことを聞くようになった。心から悪気はなかったものの、葉鳥の秋季から受けたものは体調を左右する程だったそうだ。秋季は葉鳥の事情も知らず、葉鳥と会う約束や連絡先なども正直言って知らない方が良かった。秋季自身
葉鳥から「もう秋季とは話すことはない。」と言われていたし、李空からも「もう葉鳥に近づくな。」とも言われていたからだ。知っていても良かったのだろうか。このような状況で許されるはずがない、秋季が自分のことを許したくなかった。だんだん申し訳ないという気持ちばかりが積っていった。後で誰に何と非難されても仕方ないだろう。秋季は秋季のやり方でしかできないのだから。これが今の秋季の中の精一杯の葉鳥への思いやりを表したつもりだった。
逃げる、とはどういう意味なのだろうか。
人が口にする天国、とは本当に安泰の地なのだろか。そこに私たちが求める(幸福)は存在するのだろうか。
誰が想像しただろう、天国という楽園は今秋季がいる箱庭だ、と。
秋季は急に逃げ出してしまいたくなった。でも、逃げるとは?どうしていいのか分らなかった。これまで沢山泣いてきた。李空に葉鳥に涙を流してきた。大切な人、李空や葉鳥がいるのに、幸せなはずなのに、秋季は素直に笑ったり、楽しむことが少なかった。それは本当の幸せとは言わないんじゃないか、と涙の出ない瞳のまま思った。
別れて欲しい、少し距離を置こうと思ったのは、それからすぐ後だ。李空や葉鳥は大好きだ。でも、もう一緒にいてはいけないのだと秋季は悟った。少し時間をおけば、今までのことや二人のことも忘れて思い出になって、やがて、「あぁ、こんなこともあったね。」って笑えるようになるかな、と思った。これからまた色々な人たちとの出逢いがあって、色々な人を知って、また大切な人ができるだろうと思った。
人を傷つけない離れ方を頭の中で何度も何度も考えた。でも考えただけで秋季の胸は熱い思いが込み上げて、瞳を涙で一杯にしながら一人きりで嗚咽していた。人は美味しいものを美味しい、楽しい時に楽しいと言う。それが何でもない幸福だと秋季は考えていた。辛い時に辛いと言えないことは、とても苦しくて何て虚しいのだろうと息を荒げながら思った。
何故、人は互いに想い合っているのに離れなければならないのだろうと、涙をこらえながら思った。
「秋季はそれで本当にいいの?」
嫌に決まっている。でも愛しているからこそ離れる道もあっていいんじゃないのかと思った。むしろ、秋季の心はそれを望んでいた。
ふと、秋季は李空と出会った頃の気持ちに戻って考えた。その三日後、秋季は李空の元に戻った。過去はどうでもいい。未来なんて分らない、誰でも。でも今こうして私たち、共にいられることに感謝している。
その日、彼は秋季に言った。
「別れよう。」
頭の中が真っ白になった。秋季はどうにか、つばを飲み込んで理由を聞いた。今も彼が言ったことをはっきり覚えている訳ではないが、葉鳥や豊と何かあったようだ。葉鳥の体調もあまり優れないようで、豊と李空の仲、もしくは李空と秋季との仲…。葉鳥は豊との仲を自ら断とうとするつもりだったらしい。豊の考えで前者の二つのどちらかを李空に判断するようゆだねて。結果、李空は悩んだ末、秋季にこれらの葉鳥とのことを打ち明けてくれた
という訳だったのだ。
秋季はまだ固まっていた。葉鳥はもう体が優れなくても秋季には何も言って来ない。心配をかけたくない、少しでもの思いやりだろうか。今回が初めてではなく、これまでずっと秋季と会っていた時から小さな見えない優しさがあったのかもしれない。でも、今までずっと秋季にはその優しさがまるで映ってなかったに等しい。秋季には気付くことができなかった。
「秋季は、別れてもいいの?」
「俺は嫌だよ。」
それからというもの私たちはこの箱庭、まるで牢獄のようなこの場所に辿り着いてしまったのだ。一度は身を引こうとした秋季だったが、それに比べていつも前向きな李空には元気づけられた。
あれから秋季は二人には会っていないし、李空と一緒にいるところも見せていない。もう同じことを繰り返したくない、と強く思う。だから、これまで以上に支えあわなければ、と思う。秋季は心の中で葉鳥に造った。
箱庭は誰かが創った幻だ。秋季の心境とは反対に、いつも春みたいな陽気をさせて、夜には冬空みたいな満天の星々がいっせいに瞬き出す。そして暑くもなければ寒くもない。
「…泣いているの?」
葉鳥や豊と一緒にいたのだろうか、李空が秋季のところに戻ってきたらポツンと秋季の姿を見つけて少し心配している様子だった。(どうしたのか話してごらん)と言いたそうな眼をして李空は秋季の顔を覗き込んだ。人間は同時に二つのことをやり過ごすことは出来ない。葉鳥にも李空にも愛し愛されることを望んだことが過ちだったのだろうか。
多分だが、今秋季と葉鳥が同じ境遇ならば、何もかも置いて自分の身の確保を選ぶかもしれない。大昔、人間の過ちによって神がその罪を償ったが、今秋季はものすごく誰かに秋季と李空のことを許されたい気持ちになった。それは、葉鳥との別れから李空を選んだことへの賛美だ。ただ誰かから祝福されたかった。しかし、秋季はもし誰かが自分たちのことを称え、応援してくれたとしても、秋季は自分自身のことを許す気にはなれないだろう。何故なら、秋季の元に葉鳥が戻って、また前みたいに仲睦まじくやり過ごせるかどうか考えると何とも言い難い。
秋季と李空と一度距離を置こうと思った時も、これで離れても李空とまたもし生きる機会があるのなら、その時また向き合えばいいと必死に心の中で言い聞かせていた。むしろ秋季は李空に感謝している。前に比べて李空は頼もしく勇気があって勢いがある。秋季の想いより、李空の想いが何より強いことを秋季自身とてもよく知っていた。
「もう離さないから離れるなよ。」と李空に言われた。「二度目はないからな。」と念を押された。秋季は李空の愛情にとても喜び気持ちになるが、時々、恐れを感じる。信じることがこんなに大変なんだと思うと自分は大丈夫かと心配になって押しつぶされそうになる。しかし、李空は言う、「互いに互いのことを守れるように強くなろう。」と。李空は震える秋季の手をそっと握った。
秋季はこの人の傍らで素直に笑って、楽しいことも楽しいと言いたいと思った。もっと強い女性になって李空のことを守れるようになりたいと思った。
「いつか、ここ(箱庭)から出られるのかな?」
二人は満天の星空の下、風を感じた。李空はふっと笑った。
「いつかここ(箱庭)から出られるよ。まだ先は長いからね。」
李空の見つめる先には、どんな未来が見えているのだろう。
秋季は思った。どんなに辛く悲しいことがあっても、李空がいれば大丈夫。相手が葉鳥だろうが豊だろうが、出逢えたことに感謝したい。いつか貴方の言っていたことが知識となって繰り返さないことを強く強く願った。ただ、心から葉鳥を慕っていたことは事実なのだから。
(終)