第246章 開催前夜
競技会の開催まで、残り二日となった。
ユウは仕事を終えると、帰宅する前に競技会場の周辺を確認しに行った。
事前に公開されている案内図には、集合場所、受付、競技開始地点、緊急時の集合場所が記載されていた。会場のすべてを自由に歩けるわけではないが、参加者が立ち入れる範囲については、現地で確認することができた。
彼は案内図を見ながら、集合場所から受付までの経路を歩いた。
途中にある分岐点では、案内表示の位置を確かめた。緊急時の集合場所へ向かう経路も確認したが、競技区域内には入らなかった。
確認を終えるころ、受付の準備をしていた係員が声をかけてきた。
「参加者の方ですか」
「はい。事前に確認できる範囲を見ておこうと思いまして」
「ありがとうございます。ただ、競技区域内の設備は、まだ準備中です。当日の説明を受けてから確認してください」
「分かりました。立ち入り可能な範囲だけ確認しました」
係員はうなずき、作業に戻った。
ユウは会場を離れた。
現地を見たことで、案内図だけでは分からなかった距離感はつかめた。しかし、競技中に使用される設備や経路の詳細までは分からない。
それらは、当日の説明を受けてから確認するしかなかった。
帰宅後、彼は事前資料を開き、現地で確認した内容を簡単に記録した。
そのとき、競技会の連絡網に新しい通知が届いた。
当日の受付時間が十五分早まるという。
理由は、参加者が増えたことによる受付手順の調整だった。競技内容や開始時刻に変更はない。
ユウは通知を確認し、翌日の予定を修正した。
小さな変更だったが、確認せずに当日を迎えれば、余計な時間を取られる可能性があった。
彼は、連絡網に返信した。
《確認しました。当日は変更後の時間に集合します》
同じ通知は、レイヴンにも届いていた。
彼はすでに競技会への参加を辞退していたため、当日の受付に関する通知を受け取る必要はなかったはずだった。
しかし、参加者向けの連絡網とは別に、過去の候補者へも案内が送られていた。
レイヴンは、通知の送信先を確認した。
推薦枠の候補者に対する案内だったらしい。参加を辞退した者も、候補者一覧から完全に削除されるまでは、関連する通知の対象に含まれていた。
彼は事務局に連絡し、今後の案内が不要であることを伝えた。
数分後、受付担当者から返信が届いた。
登録情報は更新され、今後の参加者向け通知は停止されるという。
レイヴンは、それで手続きを終えた。
特別な問題ではなかった。
単に、参加者の登録情報と、推薦候補者の管理情報が別々に扱われていたために起きたことだった。
それでも、彼は今回の経験から、何かを辞退する場合には、辞退の意思を伝えるだけでなく、関連する登録がどのように扱われるのかも確認しておいたほうがよいと考えた。
その夜、主人公は仕事から戻る途中で、以前から世話になっている中年の指導者に呼び止められた。
「右手はどうだ」
「少しずつ良くなっています。まだ強く握ると違和感がありますが」
「なら、無理に使うな。痛みが減ったことと、元どおり使えることは違う」
「分かっています」
指導者は、主人公の手元を確認するように視線を落とした。
「最近は、走るときの動きも少し変わったな」
「右手をかばうようになったからだと思います」
「それだけじゃない。前よりも、周囲を見る時間が増えた」
主人公は返事をせず、少し考えた。
走るとき、以前は目の前の経路と目的地を優先していた。今は、曲がり角の先に何があるか、周囲の人がどの方向へ動いているか、途中で進路を変える余地があるかも確認するようになっていた。
「急いで進むことだけを考えなくなったのかもしれません」
「それなら、悪い変化とは限らないな」
指導者はそう言って、次の練習について短く説明した。
翌朝は、長い距離を走るのではなく、複数の経路を使って移動する練習を行う。途中で経路を変更する場合もあるが、速度を競うものではないという。
主人公は了承した。
練習が終わると、指導者はいつもどおり、特別な評価を口にすることなく帰っていった。
主人公も、練習の結果を大きく考えすぎることはしなかった。
以前より動けるようになった部分はある。しかし、右手の回復には時間が必要であり、身についた動作がどの状況でも役立つとは限らない。
できることが増えたからといって、できないことまで忘れるわけにはいかなかった。
翌日、女主は競技会の開催前確認に関する報告を受け取った。
安全管理部門は、会場設備と緊急時の連絡手順を再確認していた。現時点で、開催を延期すべき重大な問題は報告されていない。
前回の大会については、引き続き調査中だった。
女主は報告を確認し、開催前の準備と、前回の調査を分けて進めるよう指示した。
「今回の会場について問題がないことと、前回の件が解決したことは別です。報告書でも、その点を混同しないようにしてください」
担当者は了承した。
彼女は、そのあと届いた別の業務報告に目を通した。
競技会の準備は進んでいる。
しかし、参加者全員が同じ理由で参加するわけではない。実績を残したい者もいれば、経験を積みたい者もいる。仕事上の評価につなげたい者もいれば、単純に競技そのものを楽しみたい者もいる。
その違いを、一つの目的にまとめる必要はなかった。
開催前日の夕方、ユウは装備の最終確認を終えた。
必要な物はそろっている。
集合時間も確認した。
緊急時の連絡先と、競技を中断する場合の手順も、すぐに見られるようにしてある。
彼は、準備した物を一つずつ片づけた。
競技の内容は、まだすべて明らかになっていない。
当日になって初めて示される条件もある。
それを不安に感じないわけではなかったが、事前に確認できることは確認した。残りは、当日の説明を聞いて判断するつもりだった。
その夜、レイヴンは主人公にメッセージを送った。
《明日から競技会だ。今回は参加しないけれど、結果は確認するつもり》
主人公は、少しして返信した。
《参加しなくても、確認できることはある。ただ、公開される結果だけでは分からないこともあるだろうね》
《そうだね。だから、結果を見てから考えるよ》
レイヴンは端末を閉じた。
自分が参加しない競技会を、外から見守ることにしたのは、今回が初めてではなかった。
ただ、以前と違うのは、参加しなかったことを、失敗とも成功とも決めつけていないことだった。
翌朝、競技会場では、受付の準備が始まった。
参加者の名簿が用意され、案内表示が設置され、運営担当者が最終確認を進めていた。
前回の大会に関する調査は、まだ終わっていない。
今回の競技会で何が起きるのかも、まだ分からない。
それでも、参加者たちはそれぞれの理由を持って会場へ向かい始めていた。
準備を終えた者もいれば、最後まで迷った末に参加を決めた者もいる。
彼らが同じ場所に集まるのは、同じ考えを持っているからではなかった。
それぞれが、自分の理由で、その場を選んだのだった。




