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階段

作者: 大二
掲載日:2026/05/13

高所恐怖症

感情と観念の分離・抑制が完全に行われずに一部が意識に侵入してきたときに発生する。(フロイト)


<彼>は何もなくただ青い純色が支配する空間を歩いていた。<彼>の歩く地面も同系色に属していて、遙か彼方に見える筈の地平線も空と完全に同化していた。<彼>はそんな場所を無意識の状態で歩いていた。<彼>の頭の中は、全くの透明だった。目の前に広がる不条理な空間にさえ、何の不信感を抱かなかった。<彼>はこの時点で<彼>なのであり、その<彼>は物理的な存在でしかなかった。よって<彼>は、自分自身歩いているという意思はなく、まして、生きているという自覚すら頭の片隅にもなかった。

そんな<彼>に無論目的地などある筈がない。<彼>は足があり、運動可能だから歩く。そういった単純な理由から、<彼>はある意味での旅をしていた。

暫く歩き続けていると、濃い霧が周囲の空間を閉ざした。今までの青い不条理な空間もそれに閉ざされた。しかし<彼>は一向に気に掛けなかった。障害物らしきものはここにない。<彼>は黙々と歩いた。

やがて<彼>は何かしらの物に足をとられ、転びそうになった。そして同時に、何故かしら身体中に悪寒が走るのを感じた。<彼>がこの空間ではじめて味わった感覚だった。しかし、その感覚も現れた時と同じようにすぐに消えた。<彼>は体勢を整えた。

今度は注意深く前進しようとした。再度<彼>の足に触れるものがあった。<彼>はそれを跨ごうとして、足を高く上げた。けれども、障害物を跨ぐことが不可能だったので、<彼>はその上に立った。

ほんの一瞬。

<彼>は言葉を吐き出したい衝動に駆られた。それは<彼>の内部から急速に沸き上がってきた。<彼>は「産声」を上げた。


「ウパニシャットの目的は、ブラフマンとアートマンの同一なることを認知することである」


<彼>は更に一歩進もうとした。すると、そこにも同じような障害物があり、<彼>はそれを跨ごうと再び足を高く上げた。にもかかわらず、先程と同じようにそれを跨ぐことができなかった。<彼>はその上に立った。


「ウパニシャットの主題は、アートマンの自覚にある」


<彼>は再三前進しようとして再三障害物にあった。ようやく<彼>はそこが<階段>になっていることに気付いた。そうと分かって、<彼>はスムーズに前進をはじめた。平地を歩いていた時との相違は、<彼>が考え、言葉を喋ることだった。<彼>はなかば暗示に掛けられたように<階段>を昇った。


「哲学的原理に基づいて自然の包括的な考察や説明を目指す。ミレトス派、ピタゴラス派、一なる神観批判、無為自然、仁、万物は流る、無数の種子、人間尺度論、不変あるもの、元素―地水火空気、兼愛説、時間的空間的における無限の有、原子と空虚、汝みずから知れ、ブッタ、原子と空虚との運動、感覚的快、イデア論…………」


<彼>の周囲は依然と変わらず濃い霧に閉ざされていた。だが<彼>はそこに<階段>があることを疑わず前進した。<彼>はもはや物理的存在のみならず、精神的存在にも変化しつつあった。


「形相と質料、性善説、万物一元論、エポケー、アタラクシア、アパテイア、性悪説、キリスト教的愛、般若空間、不合理故に我信ず、一者、予定説、不二一元論、スコラ哲学、流出論、観相念仏、アラビア哲学、実念論、唯名論、普遍的理性、理先気後の理気二元論、専修仏念、心即理、悪人正機、他力回向……………」


<彼>の頭は次第に冴えていった。何故かは分からなかった。分からなかったが、そんなことはどうでもいいと思った。「俺は階段を昇ればいいのだ」と<彼>はそう心の中で呟いた。

<彼>は<階段>の行方を見定めた。しかし、一向に先は見えず、一歩手前すらも確認できなかった。<彼>はそれでも<階段>を昇った。現在の<彼>にできる唯一のことだった。


「只管打座、修証一如、神秘主義的理想、南無法蓮華経、無としての神、反対者の一致、類比、ユートピア、キリスト教の自由、君主論、モラリスト、キリスト教綱要、能産的自然、知は力なり、無底としての神秘、機械論的自然観、感覚論、我思う故に我あり、宗教哲学、神即自然、感覚と反省、神においてみる、予定調和論、理神論…………」


<彼>の目前の濃い霧はいくらか明るくなり、数メートル先がようやく見える程度まで視野が広がった。見える限りでは<階段>は何処までも続いているようだった。行く手が見えはじめたことに安心してか、<彼>は力強い前進をはじめた。


「一気進退、印象と観念、自然と感情、条理玄、汝の意思の格率が常に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ、かむながら、もののあはれ、ユニテリアン、最大多数の最大幸福、イデオロジー、自我、事行、非我、観念弁証法、総体観念論、連想心理学の体系、客観的観念論、概念の修正、命題自体、生への意志、三状態の法則、下からの美学、人間学、帰納法、ヘーゲル左派、実存、主体性……………」


視野は更に広がった。

<彼>は周囲を眺め、今更ながら自分が危険な場所にいることを悟った。<階段>の幅があまりにも曖昧なのだ。<彼>のいる場所の<階段>の幅は十数メートルあるのに、その先は五メートル程しかないのである。それを知った<彼>は、注意深く、一歩一歩<階段>を昇った。が、そんな<彼>の行為を嘲笑うかのように、周囲の霧が再び濃くなりはじめた。


「象徴、出来事、単独者、一般的実体、史的唯物論、進化と解体、解釈学、自我実現説、志向的内在、世界要素、プラグマティズム、権力意志、永劫回帰、超人、自然法則の偶然性、内面的関係の理論、感情移入、存在から自由な純粋対象、社会進化論、母胎、発現、エラン・ヴィータル、個性化的方法、理念型、タイプ理論、記述の理論、対応説、限界状況、包括者、世界的存在、問題と神秘、在ると持つ…………」


今まで見えていたものが見えなくなるということが、<彼>に異常なまでの不安を抱かす結果となった。<階段>の幅が不規則だということも、<彼>の抱く不安に一層の拍車をかけた。<彼>の<階段>を昇る速度は自然に遅くなっていった。


「意味論、帰納論理学、確率論、心身二元論批判、即自、対自、対他、反二元論、身体、両義性、検証理論…………」


周囲の霧はますます濃くなっていった。またそればかりでなく、周囲は次第に暗くなっていった。薄暗くなり………暗くなり………遂には暗闇に…………<彼>はとうとうそれ以上前進できなくなった。<彼>はその場に座り込んだ。そうして、進むべき道程を見極めようとした。だが暗闇の中でそれは叶わぬ願いだった。<彼>は途方に暮れて、その場での身動きすらもできなくなった。そうなってはじめて、<彼>は自己の存在について考えてみた。この長い<階段>が何処まで続いているのか考えてみた。


「俺は…………………」


不明確。あまりにも不明確だった。<彼>の存在理由。何処に向かって進んでいるのか。何故に………………。<彼>のまわりを包む空間、そして<彼>自身が無意味な、それでいて虚無的な存在に思われた。<彼>は虚ろな瞳を暗い空に向けた。

と、そんな<彼>の傍らを何かが走り去った。<彼>にはそれが何か確かめることができない。<彼>は変わらぬ虚ろな瞳をその走り去った方向に向けた。間もなく、その走り去った「もの」が眼の前に現れた。いや、厳密に言えば、何かがそこにいる気配を<彼>は感じた。<彼>は焦点のあわない眼で、無感動にその場を見た。


“驚いた………”


気配が感じられるところからつぶやくような声が聞こえた。


“ここまできた有機生命体をはじめて見た。普通なら苦しい<階段>を昇るわけはないんだが………”


声は言葉を続けた。


“ここまで来るには、相当な意志が必要だ。しかし現在こうしている男には、そんな意志はないと思われる。では、何がその代用をしたのだ。何が……………”


突然<彼>の頭の中を何かが走り抜けた。それはほんのわずかな時間だった。そして再び声が聞こえはじめた。


“………そうか、この<階段>を昇る前に一度転びかけたのか。一度転びかけて、必然的にその危機から逃れようとした。その最短コースが昇ることだった。では何故そのように短期間のうちに危機から逃れようとしたのか………これはわからんな。人一倍強迫観念が強かったのかも知れん”


<彼>は呆然とその場に座り込んだままだった。


“一歩進んでからは速かった。この男の持つ好奇心は莫大なものだ。より精神を発達させるために、ただ好奇心を充足させるために<階段>を昇った。が、強い好奇心のみの充足を目的とした理解では完全な精神の発達・理解にはならず、目覚ましい好奇心と精神の跛行を繰り返しながら不安に追い込まれ、動けなくなり、そして心を閉ざして前進することをやめた”


声はひとつ大きな嘆息を漏らした。


“さて、この男のために闇を消してやるべきか。それも考えものだ。視界はこれからもどんどん広がってくる。悪ければこの男、直ぐに<階段>から落ちかねん。かと言ってこのまま放っておくこともできんしな。<階段>を昇るのはこの男だけではない。まぁどうしようもあるまい。そこまで考えてやる必要もないか”


<彼>の目前から何者かの気配が消えた。<彼>は我に返って周辺を見渡した。暗闇は消えていた。それどころか霧も何時の間にか晴れていた。<彼>は青い空に果てしなく伸びる<階段>を見た。それは不規則な形を<彼>に見せた。最後に<彼>は現在の位置から見える下界に眼を移した。

<彼>の身体が大きく傾いだ。<彼>のいる場所の<階段>の幅はわずか50㎝にも満たない。その上、この場所は地表から数百mの高さにある。<彼>の両足はガクガクと震えた。身体中から冷や汗が流れる。喉が渇き、大きく鳴った。

にもかかわらず、<彼>はその場に立ち上がろうとした。震える足をふんばり、やっとの思いで立ち上がり、恐怖を振り払うように小さく頭を振った。

そうして、非常にゆっくりと<彼>は<階段>を昇りはじめた。


※注「 E!俺 完全( 俺 ):∀( 俺 )∀( 他人 )( 完全 俺 A 完全 他人)⊃( 俺〓他人 ):完全 」


<彼>は震える足を機械的に動かしながら、進行方向を見て不敵な笑みを浮かべた。けれどもその笑みは多少引きつっていた。

高所恐怖症だったから。


※注 完全なる俺が少なくとも一人存在し、かつすべての俺と他人とについて、俺も他人もともに完全であるならば、俺と他人は同一人物である。

(=完全なる俺がただ一人存在する)


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