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後編『午睡の夢』

 誰かの声がするのは分かっていた。妻の声がすることに、すぐ気付いた。


「ねえ、ねえって!」

 強く肩を揺さぶられて、僕は目を覚ます。ぼやける視界には見慣れた女性の顔。


 揺さぶられた振動でひどく体が痛み、思わず唸り声が出た。

 どうしてこんなに痛んでいるのに、今まで自分は平気で眠っていられたんだと思うくらいに、体の節々が痛む。


「ねえ、ねえ?! あなた、大丈夫? もう少しで救急車、来るっていうから!」

 妻の妙な慌てっぷりに、僕は改めて身体に意識を向ける。だけれど痛みがあるだけで、動かない部位も無さそうだ。勿論、血なども出ていない。


 だけれど、妻はひどく慌てていて、彼女はいつも大げさだな、と少しだけ笑みがこぼれた。

「さっきあなた、眠っている時に私の名前を呼んだの。ねえ、私のこと、分かる?」

「分かるさそりゃ……変なこと言うね。」


 徐々に意識が覚醒してくる、視界が開けるといやに眩しくて、妻の顔がはっきりと見えた。

 よく見るとその顔はクシャクシャで、随分と赤い目をしていた、目元には涙すら見える。流石にそうまでされると、僕としても気まずくなって、彼女の頬にでも手を伸ばそうとするが、痛みに邪魔をされて、行為を言葉に変える。

「僕は、大丈夫だよ。身体が妙に痛むけれど、酷く寝違えたかな」

「そう、そうね。きっとそう……」

 彼女の言葉に小さく頷き、そのまま首を回すと、自分が寝ている場所は見覚えのある自宅では無かった。しかし、病院のようにも見えない。


 やっとのことで部屋を見回すと、やけに生活感のある部屋に自分は寝かされているようだった。

意識ははっきりしてきたが、どうにも記憶はあやふやだ。

「家……じゃないね? 僕は、怪我でもしたんだったかな?」

 痛みに堪え左手をやっとのことで上げてみると、その手を妻が握った。

「ここは、私達の新しい家で。あなたは、昼寝をしていたのよ」

「新しい家……? なんだか思い出せないな。」

 彼女の反応と、違和感から、何かがあったことは分かる。だけれどそれが何なのかは、全く分からない。奇妙な違和感だった。それは身体の痛みよりもずっと、心を痛ませるような感覚。


「いいの、いいのよ。きっと、きっと大丈夫。あなたは、私のことをさっき、呼んでくれたの」

 妻の声がとうとう震えて、頬に涙が伝う。

 もういい歳だっていうのにとも思ったが、どうしてか強く愛おしくも思った。

「そう、そうだ、お前の夢を見ていたんだ。だから名前を呼んだんじゃないかな。ほら、少し前、一緒に珍しく朝から散歩に出た日があっただろ?」

「ええ、あった、あったわ。確かにあったわ、忘れもしない。五年前の春の日」

「五年?そんな訳ないだろう。あれはほんの少し前の。いや、何かおかしいな」

 僕の手を握る妻の手の力が少し強まる、左手に走るキシキシとした痛みと一緒に、散らばっていた記憶が少しずつ元通りになっていく。


「そうか、そうだな、そうだったよ。そりゃ、泣くよなあ」

 僕が夢に見た五年前の春の日。その散歩中に、自分が事故にあって頭を強く打ったことを思い出す。

 それから言われたこと、言ったこと、色んなことを忘れていく過程が、断片的に頭に戻ってくる。


 思い出すというよりかは、追体験したかのように思えた。

 僕は忘れながらも、確かにその時間が存在していたことを知っている。


「なあ、僕はどうして、思い出せたんだろう」

「午睡の夢は幸せな夢だって、昔あなたが教えてくれたの、覚えてる?」

 若い頃は、知ったかぶって、よくそんな事を話した。今じゃ少しだけ、恥ずかしくも思う。


「そう、そうだった、華胥(かしょ)の夢。でもあれは、昼寝の時の夢の話じゃなくて『昼寝をしている夢を見た』って話だ」

「でも、夢のお陰で幸せになったお話でしょう? 今の私達とおんなじ。ねえ、もう一度私の名前を呼んでくれる?」

 そのたびに、彼女はなんとなしに、笑ってくれていたことも、覚えている。


「ああ、いいよ。けれどその前に、いくら僕が忘れていたからって、君だけ結婚指輪をつけているのはずるいよ。僕にもそれ、つけてくれないか?」


 左手に指輪の冷たさと、妻の体温を感じながら、僕は優しく妻の名前を呼ぶ。


 すると目の前がボヤケて、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。誰かが、肩を揺すっている。

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