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前編『老幼介護』

 ギィ、という立て付けの悪い扉を開ける。彼の、その音に驚いている顔も、もう見慣れた。

 看護師の顔も、担当医師の疲れた顔も、私は忘れる事がない。


「しかし、何処も異常が無いのに入院だなんて、大げさだなあ」

 彼――私の旦那が苦笑いしながらボヤく。その仕草は、本当に異常が無い人のそれだ。

「仕方ないじゃない。検査入院だって、頭を打ったんだから、あなたはまだ疲れてるのよ」

 いつものように、私は平気で、嘘を吐く。


――彼が自動車に追突されて、この病院に入院してもう二年になる。


 頭を強く打った。理由はそれだけ。

 だけれど、人の脳をおかしくするには、その衝撃だけで十分事足りるのだろうと、痛い程思い知った。

 彼の病は、一向に治る兆しが無い。


 医者の言うところによれば、旦那の今の状態は全世界に症例が少ないものであり、外因的ショックで脳の機能が負傷し記憶や精神が逆行していっている状態だという。

 一時的にその状態が止まるのならば、治療方針や病名も確定するにせよ。夫にはその兆しもまた、無かった。


 つまりは、彼の脳には覚えるという機能がもう無い。それどころか、過去の記憶にズルズルと引きずられて記憶が逆行していくというのだ。事実、新しい記憶は定着せずすぐに消えていく。

 私が見慣れた医者の、疲れた顔。その理由も、分かる。毎回『はじめまして』なのだから。

 それに、立て付けの悪いドアの音に驚くのも、分かる。最初は私も驚いたから。


 彼は、まず事故の数日後に、事故自体を忘れていた。


 それからしばらくは何度も繰り返される「何故俺はここにいるんだ!」という問答の対策を、医者や看護師と練った。

 元は大学病院にいたけれど、方針が決まって、家の近くの古い緩和ケア病院に移された。特別な事があれば、教えて欲しいという話は聞かなかった事にしている。


 一年目に、旦那は、私達の娘の事を忘れた。

 まだ二十歳を過ぎたばかりの娘からすれば、衝撃的な事だったのだろう。忘れられるまでは献身的に顔を出してくれていたけれど、忘れられてから、娘は一度も見舞いにやってこなくなった。


 記憶の逆行の速度は早く、例外は無く、2年目には結婚をした事すら、忘れた。


 不思議そうに左手の薬指を撫でている彼を見たその日、私は涙を堪えて、眠っている間に彼の指輪を静かに抜き取った。自分の指輪と一緒に、今は自宅で眠っている。



 本来ならば、今年で結婚して二十三年目だった。少し結婚が遅かった私達は、いわば老夫婦に片一方の足を踏み込んでいるのだけれど、旦那の心はもう、私達が交際していた二十代の頃まで若返っている。

「どこも痛まないと言っても、やっぱりあなたのこと、心配だから」

 彼の病は、まるで痛みを振りまく病だ。彼自身に、痛みは存在しない。あっても認知出来ない。

 だけれど娘も、私も、ただひたすらに痛い。それでも、愛している事には変わりがない。娘だって、そう思っていてほしい。

 

「それよりもさ、そのマスクどうしたの? メガネも、そんなのずっとつけてなかっただろ?」

 今の彼は、老いてしまった私の顔を知らない。声は歳を取っていても、誤魔化しが効くから、助かっていた。

「……風邪を、ひいちゃってね。あなたに移すと悪いから――大丈夫、愛してるわ、あなた」

「なんだよ『愛してる』だなんて。お前、そんなこと今まで言ったこともない癖に。なんだ? 俺ってもしかしてそんなにヤバい病気なの?」

 そうだ、そういえばずっと昔の私は意固地で、頑なに愛の言葉を囁かない時期があった。


――今はこんなにも、言葉に出来るようになったのに。


 彼は私の初めての『愛してる』すら、忘れていた。


 彼の記憶の逆行は止まらない。口調や言動にも若さを感じるようになった。


 私達が初めて出会ったのは中学一年生の春だ。

 記憶の逆行は一年あたり十五年から、悪くて二十年程。


――ならきっと、もうすぐ。


「いいえ大丈夫、大丈夫よ。もうすぐ帰れるって言ってたわ。大丈夫、愛してる。大丈夫」

 私は毎日のように、自分と、彼に言い聞かせるように、続く日々を、大事に言葉にしている。


 そうして三年目の春に、彼は私を忘れた。

 それから私は、看護師に扮して一日に一度、体温を測るという名目で面会することを病院に頼んでいる。看護師と呼ばれて久しい世の中でも、彼の記憶の中には看護婦という言葉しかない。


「ねえ看護婦さん。僕どこも痛くないのに、そうして家に帰れないの?」

「大丈夫よ。この調子だと――もう少しで退院かも、しれないね」

 私は、私に、言い聞かせている。事実、もう病院にいる必要も、無くなっていた。

 匙が投げられたという事だ。記憶がこのまま逆行し続けたなら、そのうち彼は、空っぽになるのだろうと。私は考えていた。


「そっかぁ……手に持ってるそれは何?」

「体温計ですよ。熱を測らなきゃ」

 私は皺のある顔で、屈託のない子供のようなの表情をした皺のある顔の彼を見つめて、微笑む。


 彼が何もかもを忘れる日までそう遠くない。それからどうなるかは医者も分からないという。

「この前、ママが教えてくれたんだけれど、僕は体温が高いんだって。だから風邪だって勘違いしないでね?」

「大丈夫……知ってますよ。37度1分……平熱ですね」

「看護婦さんすごいね! 他の人はいつも驚くんだ。看護婦は今日初めてなのに、すごいね」

「えぇ、君の事ならちゃんと分かってるのよ?」


 彼が私を忘れてしまってから、私は結婚指輪を付け直した。


 それを撫でて、不思議そうに私を見つめる彼を見つめて、心の中で呟く。


 大丈夫、私は今も、彼を愛している。

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