第58話 悪役貴族、失敗する ②
穏やかな風が、小麦色の髪を揺らす。
「決闘をしたのは浅はかでしたし、強さを誇示するような戦い方も悪手でした」
そこまで言って、一度言葉を切る。
「――でも」
彼女は俯いたまま、マルスの手にそっと両手を添えた。
「嬉しかった」
「……エリシア」
「はじめてなんです。私のために、こんなに怒ってくれた人」
傷ついた時、怖い思いをした時。両親はいつも見て見ぬふりをした。姉達は慰めてくれたが、守ってはくれなかった。
だからだろうか。幼い頃からずっと、エリシアは潜在的な孤独を感じていた。
家族とは、人間とは、そういうものだと思い込んでいた。
けれどマルスは違う。嫌になるくらい馴れ馴れしく、無遠慮に距離を縮めてくる。
最初は苛立たしく、腹が立ちもした。けれど、突然送られた辺境の不安の中で、彼の能天気さに救われていたのもまた事実だった。
エリシアは、手を握ったままそっと視線を上げる。
「だから……ありがとう。私のために怒ってくれて。私のために、戦ってくれて」
「……うん」
マルスは胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
あんなにも塩対応だったエリシアが、まっすぐ感謝の念を伝えてくれている。
「エリシア。俺さ」
言葉が喉まで来て、それ以上が出てこない。本当はもっといろいろ言いたいのに、胸がぎゅっと締まる。
代わりに、エリシアがそっと言葉を紡いだ。
「あなたはいつも無茶苦茶で、いい加減で、考えなしに突っ走って。見ていて本当に危なっかしい人です」
「耳が痛いな」
「でしょうね」
エリシアは小さく笑みを溢すと、勇気を振り絞るように言った。
「あなたが強いことは十分わかりました。それでも、強さは無茶をしていい理由にはなりません。私の為を思うなら、もう無茶はしないで」
「……善処します」
「善処ではなく、約束してください」
手を握る力がほんの少し強くなる。
「約束はできないよ。キミのためなら、俺はたぶん……きっと、また無茶をする」
今ばかりは、マルスも冗談を言わない。
エリシアにとって、その答えは予想できたものだった。
「じゃあ、代わりに一つ教えてください」
「ああ。なんでも」
「どうしてあなたは、こんなにも私を気にかけるんですか?」
問いかけた声は淡々としているようで、わずかに湿り気を帯びていた。
マルスは少しだけ目を丸くし、それから視線を外す。真正面から答えを投げ返すには、少し気恥ずかしい距離感。
「どうしてって……そりゃあ、ねぇ?」
エリシアは視線を切らない。ごまかしを許さない眼差しだ。
「いやさ。俺達って、一つ屋根の下に暮らす仲じゃんか。もちろんキミが嫌々きてくれたってことはわかってるけど……どうせなら仲良くしたいんだよ、俺は」
「身を挺して私を庇ったのも、リサ様との決闘に臨んだのも、それが理由ですか?」
「そういうこと」
「本当にそれだけですか?」
ほんの少し、エリシアの声色が強くなる。
「え、だめだった?」
怒っているわけではない。だが間違いなく、彼女の中である種の感情が大きくなっているのは確かだった。
「あなたはいつも、肝心なところを言いませんね」
「ええ?」
エリシアは何か言いたげだったが、握っていた手をするりと離して背を向ける。
「酔狂な人。こんな……可愛げのない女に」
その呟きはマルスの耳に届いていたが、返答していいものかと迷った。彼女が何を考えているのか、マルスには見当もつかない。
マルスは頬をかきながら、小さな背中を見つめた。
(自覚がないってのも、考えものだな)
結局なにも言えないまま、ふたりの間に冷たい風がひとつ通り抜けた。
「……戻りましょう。今後のことは騎士団長様と相談するしかありません」
返事を待たず、エリシアは歩き出す。
その背中に、マルスは声をかけることができなかった。
それからの道のりは、先ほどまでとは違う沈黙が流れる。重苦しいわけではない。言葉にできない何かが、胸のあたりでくすぶっている感覚。
マルスも、エリシアも、お互いに似た想いを内に秘めていたが、その感情にまだ名前をつけられずにいる。
やがてぼろ屋が見えてくると、エリシアはぽつりと口を開く。
「おなか、すいたでしょう?」
「うん」
「なにか作ります、大したものではありませんが」
「ありがと。楽しみだよ」
扉を開くと、屋内の涼しい空気が流れ出てくる。
無表情を保つエリシアの、しかし熱を帯びた頬には、それがちょうどいい冷たさだった。




