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第30話 悪役貴族、負傷する

「しっかりしてくださいっ」


 エリシアの心臓が跳ね上がる。

 呼びかけても返事はない。だが次の瞬間、マルスは小さく呻き、片目を細めてエリシアを見上げた。


「エリシアぁ。もし俺が死にそうになったらさ」

「なんですか……?」

「名前呼んでチューしてくれたら……きっと治ると思うんだよね」

「は?」


 エリシアは思わず絶句した。


《ここで告白ムーブは薬草生える》

《ドラマチック展開きたww》

《血だらけで言うセリフじゃないでしょ》


 コメント欄は湧いていたが、エリシアにとっては面白くもなんともなかった。


「この期に及んで、ふざけないでください」


 エリシアは不安と苛立ちで声を震わせた。


「いやこれが実はふざけてないんだな。俺の知ってる古い童話に、愛する人のキスで蘇るっていう展開があってだね」

「陳腐ですね」


 エリシアの溜息。


「そんなに口が回るなら、手当は必要ないですか」

「うそうそ。めちゃ痛いから、なんとかしてー」

「ぜんぜん平気そうですけど」


 言いながらも、エリシアの指は迷いなく腰のポーチを探っていた。取り出されたのは緑の液体の入ったビンと小型の鉗子。


「動かないでください。今すぐ処置します」

「え、チューは?」

「黙って」


 ぴしゃりと切り捨て、うつ伏せになったマルスの服をナイフで裂いていく。露わになった背中には、いくつもの金属片が突き刺さり、血がじわりと溢れていた。


《グロ注意》

《破片抜くの? 大丈夫?》

《ポーションあるならいけるか?》


 リスナーも不安げな様子だ。


「深く刺さっていないものから抜いていきます。痛むと思いますが、耐えてください」


 エリシアは小さく息を整え、処置に移る。破片を一つ抜くたびにマルスが呻き声を漏らすが、決して手は止めなかった。

 あらかた破片を抜いたところで、ポーションを含ませた布を傷口に押し当てる。血がじわりと布に染まっても、彼女は眉一つ動かさない。


「つめたっ。それなに?」

「ポーションです。消毒と鎮痛、止血と治癒促進の効果があります」

「そんなの持ってたんだ」

「伯爵が用意してくださった荷物に、一瓶だけ」

「ありがてぇ。お父様サイコー」


 いつもの軽口にも力がない。


「あの……すみませんでした」


 処置を続けながら、エリシアはふと眉を下げた。


「え、どしたの急に?」

「私を庇ったせいで、負う必要のないケガをさせてしまいましたから」

「なに言ってんの。どう考えても名誉の負傷だろ。むしろエリシアを庇わせてくれてありがとうございますってカンジ。あ、これマジのやつね」


 エリシアは唇をきゅっと結ぶ。手元は止まらない。止血用の布を広げ、手際よくマルスの背に巻き付けていく。


「手慣れてるね」

「勉強しましたから」

「怪我の手当て?」

「いろいろ、です」


 姉達へのコンプレックスから学んだとは言いたくなかった。

 マルスは何かを察したが、それ以上聞かず、深く息を吐いた。


「なんか、こういうのいいよなぁ。エリシアの温もりを感じるっていうか」

「冗談を言う余裕はあると」

「余裕ない。だからこれは本心」

「さっきは楽勝って言ってませんでしたか?」


 処置を終え、道具を仕舞うエリシア。


「ここまでにしましょう。残りは帰ってから抜きます」

「うい。だそうだ諸君。残念だが今夜はお別れだな」


 マルスはうつ伏せのまま、目の前のフォローカムに目線を送る。


《え、ここで配信終了? 心配なんですけど》

《もっとガンバれよwww》

《カッコよかったぞ少年。ゆっくり休みなさい》


「はいはい、みんな心配ありがとねー。俺は大丈夫。ちょっと血ぃ出てるだけだから。また明日の配信でお会いしましょうぜ」


《明日やんのかよwww》

《休めっつってんだろww》

《バカすぎポーション漏れる》


 リスナーの歓声がさらにヒートアップする。

 マルスは満足そうに笑い、フォローカムへ顔を近づけた。


「よし、じゃあ今日はここまで! 危険指定種のスティール・ウルフ、撃破できたんで大満足っしょ? 俺達はちょっとおやすみするんで、明日の配信をお楽しみにー」


《おつかれ!》

《絶対無理すんなよ!》

《無事に帰れることを女神レガリアに祈っています》


 マルスの活躍を労うように、エールフレアが一斉に弾け、画面が光に包まれる。

 それが、配信終了の合図だった。


 アルヴェリス第二層の通路に残るのは、鋼の残骸と焦げた匂い、そして二人の呼吸だけ。

 ようやく訪れた静寂の中で、エリシアはそっと、起き上がったマルスの肩を支えた。


「もう行くんですか? しばらく休んだ方がいいんじゃ?」

「問題ないよ。今モンスターと出くわす方が怖いし」


 マルスは、すぐそばにエリシアの心配そうな顔があることに気付く。


「エリシアに心配してもらえるなら、怪我すんのも悪くないなぁ」

「まだ言いますか。そういうこと」


 呆れを滲ませながらも、エリシアの手はしっかりと彼を支えていた。

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