第92章 ― タニアの敗北
「この物語は歴史と普遍的な神話に基づいたファンタジーです。」
アナはすぐに振り返り、タニアの姿を探した。
数メートル先で、プニキアの女神は完全に静止して立っていた。
「……タニア?」
アナは赤髪の女神へ歩み寄り、呼びかけた。
タニアは全身を震わせ、冷汗に濡れていた。
眼は見開かれ、焦点が合っていない。
肌は血の気を失って蒼白だった。
「放して! 近寄らないで! 知らなかったのよ!」
彼女は、ショック状態のまま叫び続けた。
「タニア、どうしたの? しっかりして!」
アナは驚愕し、彼女の肩を掴んで正気に戻そうと揺さぶった。
そのとき、遠くから男の声が響いた。
「無駄だ、モリガン。
彼女は俺の悪夢の中に閉じ込められている」
次にアナが目にした光景に、彼女は凍りついた。
そこに立っていたのは、
血に濡れた雄牛の皮を纏った、背の高い男だった。
肋骨と内臓が、異様な牛皮の外套から露出している。
その怪物の顔は、なおも影に隠れていた。
「マフレムは、お前には敵わなかったようだな。
残念だが、俺はお前と戦う気はない。
俺の任務は――侵入者の中で最も危険な神、タニトを止めることだけだ」
怪物は淡々と言った。
「誰なの!? 名乗りなさい!」
アナは怒りに叫び、聖剣ディルンウィンを召喚して構えた。
「グルジル。
アレス配下、ケレス第二位。
ベルベルの戦神だ」
男は続ける。
「この娘は幼い頃から知っている。
弱点もな。
今、彼女は自分自身のトラウマと向き合っている――
乗り越えられるとは思えん」
そう言い残し、アナに背を向けて歩き出した。
「元に戻しなさい! さもないと殺す!」
アナは叫び、剣を振るった。
暗黒の衝撃波が地を裂き、怪物を直撃した――
しかし、一切の傷も与えなかった。
「また会うこともあるだろう、モリガン。
――生き残れたなら、な」
グルジルはそう言って消えた。
「……くそっ!」
アナは吐き捨て、タニアの元へ駆け戻る。
「タニア! 起きて!
あなたは、こんなことで折れる人じゃない! 起きて!」
だが、タニアは変わらない。
青白く、冷汗に濡れたまま。
「ごめんなさい……私じゃない……!」
恐怖に満ちた叫びは、刻一刻と激しさを増した。
やがてタニアは膝をつき、力を解放し始めた。
火星全体が揺れ始める。
激しい炎が彼女の身体から噴き上がり、
アナは跳び退いて回避せざるを得なかった。
「やめて、タニア!
これ以上力を上げたら、時間が加速する!
この次元は私たちの神力の平均で動くのよ――
今のあなたは強すぎる!」
だが、タニアには届かなかった。
火星の空は真紅に染まり、
間欠泉のように炎の柱が大地から噴き出す。
「安心なさい、モリガン。
あなたたち二人とも、ここで終わらせてあげる」
背後から、女の声がした。
アナが振り向くと、
二人の女と、多数のマラクが立っていた。
一人目の女は、浅黒い肌に桃色の瞳、栗色の髪。
角状の突起を持つ王冠を戴き、
胸元をほとんど覆わない官能的な鎧。
深いスリットの入った赤いスカート。
白い翼を持ち、鎌状の剣を構えている。
二人目の女も浅黒い肌だが、金髪で美しい緑の瞳。
角はより小さく、雄牛のような形をしていた。
左肩の細い紐で留められた、足元まで届く青いドレス。
布は身体に密着し、右胸が露わになりそうだった。
「私の名はニンシュブル」
金髪の女が腕を掲げ、もう一方の手を胸に当てて宣言する。
「天の女王、冥界の征服者、山を砕く者、
明けの明星、ウルクの女王、メの守護者――
偉大にして崇高なるイナンナ、
またの名をイシュタル様の、慎ましき僕。
偉大なるアレス配下、ケレス第六位!」
彼女は誇らしげに、隣の女を示した。
その女――イシュタルは、
砕けた獅子像の上に足を乗せ、
剣を地に突き立て、翼を大きく広げて満面の笑みを浮かべた。
「そう! この私よ! 偉大なるイシュタル!
拍手をありがとう、歓声をありがとう!」
マラクたちは熱狂的に拍手し、喝采を上げる。
(……この女、頭おかしいの?)
アナは内心で思った。
「モリガン、私と戦えるなんて光栄でしょう?」
イシュタルが続ける。
「悪いけど、あなた誰?」
アナは率直に答えた。
イシュタル、ニンシュブル、マラクたちは一斉に沈黙し、
顔を歪めた。
「偉大なるウルクの女王、古代シュメールの支配者を知らぬだと!?
無教養な野蛮人め!」
ニンシュブルが激昂した。
「私は五百年ちょっとしか生きてないの。
二千年以上前のメソポタミアの神なんて、知らないわ、おばあちゃん」
アナは淡々と返す。
「……おばあちゃん……この私が……?」
イシュタルの苛立ちは爆発寸前だった。
彼女はマラクたちに向き直る。
「者ども。
あの冒涜者の首を持って来なさい。
あの炎で癇癪を起こしている娘は放っておけ――
力を上げるほど、時間は速く進む。
悪夢の中に閉じ込めておけ!」
命令に、全員が頷いた。
マラクたちはアナへ突進する。
彼女は剣を構え、迎え撃つ。
「タニア、今すぐ目を覚ましなさい。
でないと、アンピエルが死ぬ。
それは、あなたの魂に打ち込まれる、
また一つの釘になる」
アナは、届くことを願って、そう語りかけた。
「ここまで読んでいただきありがとうございます!次回もぜひお楽しみに。」
「翻訳に間違いがありましたら、お知らせください。」
「とても感謝しています。」




