第35章 — 北海の再会
「この物語は歴史と神話をもとにしたファンタジーです。」
夜明けとともに、一行を乗せた船はユトランドへ向けて出航した。
この北の果てまで航行するのは、長いノルマン商船だけ。
快適さやプライバシーとはほど遠い旅だった。
船体は細長く巨大で、甲板の中央には貨物が山のように積まれ、
船尾の高台に船長と二人の漕ぎ手が座っている。
乗客たちは船首側の狭い木の台に押し込まれ、
その窮屈さにエポナは早々に悪態をついた。
船団は通常、数隻で編成されるが、今回はわずか二隻。
デンマークは内乱の真っただ中であり、
商人たちはその危険な海を避けていた。
目的地は本来アロスだったが、
戦の影響で港は閉鎖され、代わりに近くのホーセンスへ上陸する予定となっていた。
出航して間もなく、ロドリゴは船酔いで青ざめた。
生まれて初めて長期間の航海を経験し、
北海の荒波は容赦なく彼を襲った。
「もう、だから言ったのよ。田舎者を船に乗せるとこうなるの」
タニアはため息をつきながら、
再び胃袋と戦うロドリゴを冷ややかに見ていた。
夜になっても、彼は嘔吐を繰り返していた。
タニアとエポナは船長の側で、
雨風を避けるために配られた毛布にくるまり眠っていた。
この北の海では、風も雨も絶えることがなかった。
船首では、アンナがロドリゴの背をさすりながら寄り添っていた。
もう吐くものは残っていないのに、
体はまだ波に合わせて痙攣していた。
そのとき――暗い海の向こうから、
聞き覚えのある神の言葉が風に乗って届いた。
「ふふっ……世間は狭いわねぇ」
アンナは振り返り、息をのんだ。
隣の船の船首に腰かけているのは――アテナ先輩。
夜の風に髪をなびかせながら、彼女は微笑んでいた。
船は夜間、帆を下ろし風まかせに漂っていたため、
互いの声は十分に届く距離にあった。
「な、何してるのよ!?」
アンナが叫ぶ。
「何って? 私だってユトランドへ行く用事があるのよ。
いけない理由でも?」
アテナ先輩は悪戯っぽく笑いながら言った。
軽く跳ねるように身を起こすと、
彼女はひと飛びでアンナたちの船に降り立ち、
船首に腰を下ろした。
「私たちをつけてたんでしょ!」
アンナが身構える。
「で、マラクからトーテマは届いたの?」
アテナ先輩は質問を無視して穏やかに言った。
アンナは黙り込む。
ロドリゴは再び波に煽られ、船べりに手をつく。
アテナ先輩は夜空を見上げた。
「ねぇ、あの星座が見える? ペルセウスよ。
あの子がゴルゴンを討てるよう、私が導いたの。
そんな私が――どうしてあなたを傷つけたいと思うの?」
アンナは唇をかみしめた。
「あなたは裏切り者よ。神界の恥晒し……」
それでもアテナ先輩は微笑んだまま、優しい声で言った。
「たとえ考え方が違っても、アンナちゃん。
あなたはもう弟子じゃない――友達よ。
私は、あなたを死なせたりしない」
その言葉に、アンナの肩の力がわずかに抜けた。
「この任務のことは、ずっと影で動いて助けてたの。
誰にも話してないわ」
彼女は静かに付け加えた。
ロドリゴは再びうめき声を上げ、身を乗り出す。
「はい、これを」
アテナ先輩は小さな桃を放った。
アンナがキャッチする。
「船酔いの薬よ。私も船は苦手なの」
くすりと笑った。
アンナはためらったが、
ロドリゴは限界で、そのままかぶりついた。
「ルイ、だめ――!」
と制止する間もなく、彼の表情が変わった。
吐き気が消え、呼吸が落ち着く。
「……もう平気?」
「はい……本当に楽になりました。ありがとうございます」
ロドリゴが頭を下げると、アテナ先輩は軽く手を振って立ち上がった。
「困ったときは、私の名を呼びなさい」
アンナの瞳が潤む。
「アテナ先輩……感謝しています。
でも、私は自分の人生を自分で正したいんです。
レルの信頼を取り戻して、人間を信じたい。
人間は愚かでも、まだ希望がある。
あなたのようにはなれません」
アテナ先輩は黙って聞いていた。
「私、出会ったんです。
不器用で、臆病で、でも誰かのために必死になれる人。
彼を見て、昔の自分を思い出しました。
その人と出会って、もう一度――人を守りたいって思えたんです」
アンナは深く頭を下げ、そっとロドリゴの手を握った。
ロドリゴは真っ赤になりながらも握り返した。
「……まぁ、素敵じゃない!」
アテナ先輩は一気に笑顔になり、ロドリゴを上から下まで眺めた。
「アンナちゃん、いい子見つけたじゃない! 結婚式には呼んでよ?」
ロドリゴは固まった。
まさか女神に「結婚式」と言われるとは思ってもみなかった。
「そ、そんな意味じゃないですっ!
このエッチな女神!」
アンナが真っ赤になって叫ぶ。
「まぁまぁ、アテナの都では師と弟子が――」
「もう黙ってぇぇっ!」
船上に響く二人のやり取りに、ロドリゴはただ苦笑するしかなかった。
アテナ先輩は穏やかにアンナの肩に手を置いた。
「……あなたが笑えるようになって、本当に嬉しい」
「ありがとう……アテナ先輩」
アンナは小さく答えた。
ロドリゴは悟った。
アンナはずっと、師であり母のような彼女に
もう一度会いたかったのだ。
「たとえ道が分かれても、
いつか敵として相まみえたとしても――
私はあなたのために命を賭ける。
あなたは光なのよ、アンナちゃん。
“死の女神”なんかじゃない」
アテナ先輩はそう言って二人を抱き寄せた。
アンナの涙が頬を伝う。
その目尻に、一粒の光――アテナ先輩の涙も輝いていた。
彼女は名残惜しそうに身を離し、微笑む。
「そろそろ姿を消すわ。タニトに気づかれる前にね」
「このこと、誰にも言いません」
アンナが静かに答える。
「そうして。
それと、忘れないで――
あなたが私を呼べば、いつでも現れるわ」
アテナ先輩は軽やかに跳び上がり、隣の船に戻った。
白いトーガが風に翻り、夜の海に溶けていく。
アンナはロドリゴの方を見て、穏やかに笑った。
「……このこと、タニアたちには内緒よ?」
「もちろんです」
ロドリゴが微笑み返す。
二人は静かに戻り、
眠るタニアとエポナのそばに腰を下ろした。
幸い――誰も目を覚まさなかった。
「ここまで読んでいただきありがとうございます!次回もぜひお楽しみに。」
「翻訳に間違いがありましたら、お知らせください。」
「とても感謝しています。」




