第29章 — 青い月の酒場
「この物語は歴史と神話をもとにしたファンタジーです。」
その夜。
酒場の中は賑わいに包まれていた。
アンナとエポナはすっかり酔いつぶれ、客たちと一緒に歌い、笑い、踊っていた。
広いホールには楽士たちが並び、大きなリュートをかき鳴らしながら、
偉大なるシャルルマーニュ王の英雄譚を歌っている。
客たちはジョッキを掲げ、手拍子を鳴らした。
「さあ、ブリタニアとアイルランドの女たち! そっちの飲みっぷりを見せてくれ!」
男たちが叫ぶ。
アンナには何を言っているのか分からなかったが、
エポナが訳してやると、二人はすぐに飲み比べに参加した。
結果は――エポナの完敗だった。
見事なまでに吐き散らし、宿の主人を激怒させた。
「友の無礼をお許しください」
タニアはため息をつき、宿主に数枚の銀貨を渡した。
「これで掃除をお願いします」
宴は続いた。
タニア、アンピエル、ロドリゴの三人は、その様子を呆れ顔で見ていた。
「飲まないのか?」
ロドリゴが尋ねた。
「彼女たちみたいに醜態を晒すのは御免よ」
タニアが冷たく答える。
「でも、あの二人にとってはいい気晴らしでしょう」
アンピエルが笑った。
「今日の……あの女は誰だったんです?」
ロドリゴが声を落として問う。
「アテナだ」
アンピエルの声が急に重くなった。
「神界最大の反逆者。エル様に逆らう革命組織の指導者だ」
「アンナがいつも話していた、彼女の師匠でもあるの」
タニアが付け加えた。
「じゃあ……いい人だったんですか?」
ロドリゴの問いに、タニアは静かに頷いた。
「昔の彼女はね。
アテナは、神々の誰もが憧れる存在だった。
美しく、勇敢で、強くて――
父であるギリシャのアヌンナキ神が、いずれ彼女に王座を譲るだろうとまで言われていた。
でも、ある日突然、自ら神界を離れ、放浪者になったの」
「その頃、アンナと出会った。
当時のアテナは、まだレルの敵じゃなかった。
深く傷ついていたアンナを見つけ、癒してくれたの」
ロドリゴは、その“傷”について聞くのをやめた。
「でもある日、アテナはアンナを誘ったの――“レルに逆らおう”と。
それで二人は袂を分かった。
以来、アテナは神界でも最も危険な逃亡者の一人になったの」
タニアは淡々と語った。
「トーテマって言葉、よく出てきますけど……何なんです?」
ロドリゴが尋ねた。
タニアは少し微笑んだ。
「昔、人間たちが神々を崇拝していた頃、像や印、聖印を通して私たちに“形”を与えていたの。
信仰と祈りが、神の力を宿す器――それが“トーテマ”。」
アンピエルが続けた。
「つまり、信仰の磁石のようなものです。
崇拝が強いほど、トーテマの力も増すのです」
天使は懐から小さな彫像を取り出した。
二頭の馬のそばに座る女性の像だった。
「これはエポナのトーテマです。
必要になれば、私が彼女に届けます」
「じゃあ、タニアのは?」
ロドリゴが尋ねると、タニアは少し視線を逸らした。
「説明しておくべきね」
珍しく声が震えていた。
「アンナと私は……レルではあまり良い評判じゃないの。
だからこそ、任務の監督としてマラキムが同行しているの。
私たちはまだトーテマの使用を許されていない。
――レルの上に保管されたままなの」
「事態が緊急になれば、私が取りに戻ります」
アンピエルが補足した。
ロドリゴはそれ以上何も聞けなかった。
タニアがここまで話すこと自体、異例だった。
「今回の任務は異常です」
アンピエルが呟く。
「通常、神を討つ任務にはトーテマの許可が下りる。ロキの件のように」
タニアは黙り込んだ。
やがて小さく言った。
「アンナもエポナも、きっと同じことを感じてる。
――アテナは、嘘をついてなかったと思う」
ロドリゴの心臓が跳ねた。
アンピエルがそれを報告するのでは、と不安が過った。
だが天使は穏やかに言った。
「報告はしません。
ロドリゴ様、知らなかったでしょうが、
タニア殿はかつて、我らを幾度も救ってくれた恩人です。
これはアナトの企みに違いありません」
「……私は、あれほど尽くしてきたのに」
タニアの拳が震えた。
「任務を完璧にこなしても、未だにレルに戻れない。
トーテマも返してもらえない。
それどころか、今度は私の命まで狙うなんて……!
アナクソの女狐!」
叫びとともに、頬を伝う涙が一筋。
「お飲みになりますか、タニア様?」
アンピエルがそっと声をかけたが、
彼女は首を横に振り、テーブルにうつ伏せた。
肩が震え、小さなすすり泣きが漏れた。
ロドリゴも、アンピエルも、何も言えなかった。
ただ、炎の女神の静かな嗚咽を聞くしかなかった。
やがて、タニアは立ち上がった。
「もう休むわ。
でも――明日、アテナに会う。
アンナが嫌がっても、話をする」
彼女は銀貨を数枚置き、背を向けて去っていった。
「では、私も失礼します。二日間眠っておりませんので」
アンピエルが礼をして立ち去る。
ロドリゴは視線を酒場に戻した。
アンナとエポナは、まだ踊り狂っている。
「ルイ! 一緒に踊ろう!」
アンナが笑いながら駆け寄ってきた。
腕を掴み、強引に引っ張る――が、
足がもつれてそのままロドリゴの胸に倒れ込んだ。
「もう寝よう、アンナ」
ロドリゴが優しく言う。
「置いていかないで、ルイ……」
彼女の声は甘く、眠たげだった。
ロドリゴは彼女の腕を肩にかけ、階段を上がった。
後ろでは、エポナがまだ大声で笑っていた。
アンナをベッドに寝かせると、彼女はすぐに眠りに落ちた。
同じ部屋にはタニアもいた。
すでに眠っており、背を向けている。
ロドリゴはベッドの端に腰掛け、靴を脱いだ。
その時だった。
「やめて! やめて! お願い……知らなかったの!」
タニアが悲鳴を上げた。
眠ったまま、苦しげに叫んでいる。
ロドリゴは戸惑いながらも、彼女の手を取った。
すると、次第に呼吸が落ち着き、震えが止まった。
月明かりが窓から差し込む。
ロドリゴはそっと呟いた。
――神々の世界も、人間の世界と同じなんだな。
「この任務……もしかして、死地への旅なのか?」
彼はそう思いながら、月を見上げた。
そして心の中で誓った。
――何があっても、彼女たちを守る。
「ここまで読んでいただきありがとうございます!次回もぜひお楽しみに。」
「翻訳に間違いがありましたら、お知らせください。」
「とても感謝しています。」




