第26章 — アンドラの峠
「この物語は歴史と神話をもとにしたファンタジーです。」
「お許しください、私たちはバルセロナから来た巡礼者です。
聖マルティンの聖遺物を拝むため、トゥールへ向かう途中なのです」
タニアは穏やかに、門番の兵士へカタルーニャ語で答えた。
もう一人の兵士が馬車の中を調べていたが、すぐに声を上げた。
「問題なしだ!」
「だが、お嬢さん。フランクの領地は危険だぞ。山賊も多い。
護衛もなしで旅をするなど、どういうつもりだ? 普通は商隊か巡礼団に加わるものだろう」
兵士の問いに、タニアは静かに微笑み、胸の十字架をそっと指先で撫でた。
「旅路は、主イエス・キリストと聖母マリアが守ってくださいます」
十字架が陽光を受けてきらりと光る。
兵士は少し驚いたようにうなずいた。
「……なるほど。ようこそ、アンドラ・ラ・ベリャへ」
門が開き、彼らは馬車を進めた。
バルセロナを出発して一日。
ついに一行は、アンドラの街外れ――フランク王国のキリスト教圏に足を踏み入れた。
アンドラは、かつてムーア人の進軍を食い止めた勇敢な兵士たちが建てた町だった。
彼らは報償としてこの土地を与えられ、いまではバルセロナ、コルドバ、そしてフランクの諸王国の間に立つ緩衝地帯となっている。
「寒いな……」
ロドリゴがマントを胸に寄せた。
「当然よ。これからピレネー山脈に入るんだから」
タニアが答え、馬車の座席に身を預けた。
御者台ではアンピエルが淡々と手綱を操っている。
「道は険しくなるけれど、運が良ければ日暮れまでにトゥールーズに着けるわ」
赤髪の女神が地図を見ながら言った。
「ちょっと休んでいかないの? この馬車、最悪なんだけど。
羽毛のベッドが恋しいわ~」
エポナがうんざりした顔で言った。
「急がなきゃならないの、エポナ。無駄な時間は取れない。
今夜トゥールーズに着けば、そこで眠れるわ」
タニアがきっぱりと言い切った。
「ご安心を、まだ眠くはありません」
アンピエルが穏やかに答え、馬を進める。
やがてアンドラの町が遠ざかり、
馬車は細く曲がりくねった山道を登っていった。
眼下に広がる景色は壮大だった。
緑の峰が連なり、薄青い空の下で霞んでいる。
斜面には小さな家々が点在し、空気は冷たく澄んで、松の香りを運んでいた。
鹿の群れが草原を駆け抜け、
はるか上空では鷲が鋭い声で鳴きながら旋回していた。
「昔ね、フェニキアの将軍が象の軍を連れてこの山を越えたって話、知ってる?」
エポナがロドリゴに声をかけた。彼は身を乗り出して山々を眺めていた。
「そりゃすごい。まるで物語みたいですね、エポナ様」
「ふふっ、あの赤髪の女神に聞いてみなさいよ。
あんたの言う“物語”に、本人がいたんだから」
エポナはニヤリと笑い、前方のタニアを指差した。
「じゃあ、この道を知ってるのはその時の経験なんですね?」
「その頃はアンドラもトゥールーズも存在してなかったわ」
タニアはそっけなく答え、それ以上話す気はなかった。
ロドリゴは察して黙り込んだ。
アンナは半分眠っており、頭をタニアの肩に預けている。
タニア自身も少し瞼を閉じかけていた。
その時、エポナがまた口を開いた。
「ねえ、どうやって自分がネフィルだって気づいたの?
ある日突然、この女神たちが現れて“神の子よ”とか言い出したの? 頭おかしくなったと思ったでしょ?」
彼女がこめかみに指をくるくる回しながらからかうと、
ロドリゴは苦笑しながら経緯を語った。
タニアとの出会い、そしてアンナと共に歩むようになったこと――。
「へえ、タニアが奴隷を助けたなんて知らなかったわ」
エポナが意外そうに言った。
「あの女、いつも冷たくて無感情に見えるけど……ちゃんと心あるじゃない」
ロドリゴの胸が不意に高鳴った。
エポナは眩しいほど美しかった。
確かにアンナの方が優しく、タニアの体は神々しく整っている。
だがエポナには言葉にできない魅力があった――
その自信と、挑発的な笑みが心をざわつかせる。
「もしかして、顔赤くなってる?」
エポナが悪戯っぽく微笑む。
「い、いえ! そ、そんなことは……ないです、エポナ様!」
ロドリゴは慌てて顔を背けた。
「“様”なんてつけないで。エポナでいいのよ。
いや、“エプ”でもいいわ」
彼女はクスリと笑った。
「ねえ、正直に言いなさい。あたしのこと、惹かれてるでしょ?」
金色の髪を揺らしながら、彼女はいたずらな光を瞳に宿した。
「出会ったときから、あたしをずっと見てたじゃない。
やっぱり金髪の女が好み?」
「そ、そんな……! もし失礼だったなら謝ります、エポナ様!」
ロドリゴは真っ赤になって言った。
エポナは腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 冗談よ、そんなに慌てないで。
見つめられるの、嫌いじゃないし」
「……それで、なんでアンナとそんなにケンカばかりしてるんです?」
話題を変えようと、ロドリゴが尋ねた。
エポナは寝息を立てるアンナをちらりと見た。
「昔ね、あの子とは敵同士だったの。
アイルランドとブリタニアのローマ軍が戦ってた頃。
やがてアイルランドがキリスト教を受け入れて、仲直りしたけど……
まあ、癖はなかなか抜けないわね」
エポナの声は、さっきまでの軽口とは違い、どこか柔らかかった。
ロドリゴはまた見惚れてしまった。
――本当に、美しい。
けれど同時に、胸の奥に罪悪感も芽生える。
自分はアンナにも惹かれている。
「彼女たちは神なんだ。
僕なんか、ただの虫に見えるだろうに」
ロドリゴがそんなことを考えていると、
エポナがまた笑い出した。
「そんなに見るなら、料金取ろうかしら?」
彼女はウインクして、そっとロドリゴの膝に手を置いた。
「もし誓いがなかったら――あたし、あなたと寝てたかもね。
顔、悪くないわよ?」
囁くように言い、唇に艶やかな笑みを浮かべた。
「や、やめてください、エポナ様……!」
ロドリゴは慌てて身を引いた。
「ははっ! 本当、からかい甲斐あるわね!」
エポナは楽しそうに笑い、手を離した。
「……もう見ません、エポナ様」
ロドリゴがぼそりと呟くと、
「だから“様”はやめなってば。エポナでいいの。
もしくは――エプ」
「……わかったよ、エプちゃん。気をつける」
ロドリゴは少し照れながら言った。
「ふふっ。ほんと真面目ね。
女にからかわれたこと、今まで一度もないんでしょ?
もうちょっと肩の力抜きなさいよ!
美しい女神様三人と旅してるのよ? 硬くなりすぎ!」
ロドリゴは思わず吹き出した。
「はは……努力してみるよ、エプちゃん」
「それでいいの! そう、その顔。
そうでなくちゃ、退屈で死んじゃうわ」
エポナは陽光のような笑みを浮かべた。
「ここまで読んでいただきありがとうございます!次回もぜひお楽しみに。」
「翻訳に間違いがありましたら、お知らせください。」
「とても感謝しています。」




