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20世紀少年  MLBの天才児トニー・コニグリアロ

作者: 滝 城太郎

一九九〇年にメジャーリーグに制定されたトニー・コニグリアロ賞というのをご存知だろうか。これは難病や怪我による逆境を乗り越えた選手を称える賞で、同年に亡くなった元メジャーリーガー、トニー・コニグリアロにちなんだものである。


 一九七三年にリリースされたT・レックスの大ヒットチューン『20th Century Boy』は平成二十年に公開された日本映画『20世紀少年』の主題歌として再び陽の目を浴びたこともあって、比較的若い世代にもよく知られている。

 歌詞は散文的で明確さは欠くものの、「自分は最高の男で、まさに20世紀のおもちゃ(人々にエンターテインメントを提供する男という意味か?)だ」というようなことを連呼しているところから、楽曲のタイトルが意味するところは、一般に「20世紀最高の少年」と解釈されている。

 十代でそれなりの知名度を獲得できるとすれば、ショービジネスの世界かスポーツの世界が最も可能性としては高いが、ジャスティン・ビーバーがオリンピックに出場したり、イアン・ソープがグラミー賞を受賞するような奇跡は起こらない。

 しかし、この全く接点がない二つの世界で同時期に存在感を示した少年が現実にいたのだ。一九六四年に十九歳でメジャーリーガーとなり、東京オリンピック直前のアメリカを沸かせたトニー・コニグリアロこそ『20th Century Boy』を地でゆく最高にクールな少年だった。


 マサチューセッツ州リビア出身のコニグリアロは、セントメリー高校時代から投打二刀流の逸材としてほとんどのメジャー球団のスカウトから注目されていた。一九六二年の夏に自宅を訪れた十四番目の球団レッドソックスと四万五千ドルで契約を交わした時はまだ高校在学中だったが、スポーツカー好きの彼は、この契約金で早速シボレー・コルベットを購入している。

 四万五千ドルは当時の日本円で一六二〇万円に相当するが、これは日本球界トップの金田正一(国鉄)の年俸を遙かにしのぐ高額である。

 秋に教育リーグに送り込まれた時には、打撃の方は結果を残せなかった代わりに曲がりの鋭いカーブが評価され、ゆくゆくはメジャーのマウンドに立つつもりでいたが、一九六三年の春先に地元の少年との喧嘩が原因で右手親指を骨折したことで、投手は断念するはめになり、外野手に転向させられている。

 一九六三年は1Aからのスタートだったが、さすがにスケールが違っていたようで、本来なら現役の高校三年生の年齢でありながら三割六分三厘、二四本塁打でマイナーの新人王、MVPをダブル受賞している。


 コニグリアロはエネルギッシュな選手ではあったが、熱血野球少年というタイプとは程遠く、夜な夜な同僚の新人選手たちを引き連れて酒場に入り浸り、試合でヒットを打てなければ、女の子をヒットしに行くというちょっと軽薄な軟派野郎だった。こういった現代っ子気質が仇となってベテラン選手からは敬遠されていたが、本人はいたって能天気で、むしろ記者連中からのウケは良かった。

 一足飛びのメジャー昇格はほぼ確実視されており、その決定打となったのが三月二十二日のインディアンスとのオープン戦で放った特大の一発だった。当時のスコッツデール球場の中堅は一二〇メートルと深く、十メートルの高さのフェンスがそびえていたが、それを飛び越える打球を打ったのはレッドソックス大先輩であるテッド・ウィリアムズ以来と評判になった。

 メジャー未経験のティーンエイジャーであるにもかかわらず、開幕前から地元誌で「Dream comes true」の見出しで特集号が編まれるほどの注目を浴びたのは、ボストンのカリスマだったジョン・F・ケネディ(ボストンは出生地であり、父方、母方の祖父ともにボストン政界の有力者であった)が前年に暗殺されて以来、暗いムードに包まれていたボストン市がニューヒーローの誕生を切望していたことも大きな要因の一つだったが、少しでも地元を盛り上げようと厚盛りの記事を書いた記者も、それがほどなく実現しようとは夢にも思わなかっただろう。

 四月十六日、開幕のヤンキース戦でスタメン七番(中堅)に座ったコニグリアロは、初打席こそベテランエース、ホワイティ・フォードの手玉に取られ、ゲッツーに仕留められたが、二打席目でメジャー初ヒットを放っている。

 ここまではまだ序章に過ぎない。ボストン市民が待ちわびていたのは、翌十七日に本拠地フェンウェイパークで開催されたホワイトソックス戦の方だった。球団にとって実質的な開幕戦に相当するこの試合には、亡きJFKの弟であるロバート・ケネディが観戦に訪れ、兄を偲ぶセレモニーが行われることになっていた。JFKの魂を弔うためにも、レッドソックスにとっては絶対に負けられない一戦だった。

 これほどのプレッシャーの中で二回裏、フェンウェイパーク初打席に立ったコニグリアロは、ジョー・ホーレンが投じた高めの初球を一閃。打球はあっという間に左翼のグリーンモンスターを飛び越え場外に消えていった。この一打が決勝打となってレッドソックスは記念すべき試合をものにしたが、ボストンのファンにとってはニューヒーローの誕生こそが最高のプレゼントだった。

 三日後に二号を打ったコニグリアロは、開幕二十試合で五本塁打、八打点ととても十代の選手とは思えぬパワフルな打撃で、レッドソックスファンを魅了した。

 一九〇センチの長身ながら、インコースも身体にバットを巻き込むようなスイングでスタンドに運ぶ技術を備えているうえ、ビーンボールにも動じないため、デッドボールが多く、メジャー一年目だけでも腕やつま先など三箇所もの骨折を経験している。

 年度を通じて主に二番を打ったが、五月下旬には三番に昇格しており、七月上旬までは四番のディック・スチュワートとチームトップの本塁打数を分かち合っていた。七月二十六日には十代の選手としては史上初となる二〇本の大台に乗せながら、同日のダブルヘッダー二試合目に受けたデッドボールで右手首を骨折し、一ヶ月半もの間グラウンドから遠ざかるはめになったのは痛かった。六、七月にそれぞれ七本ずつ本塁打を打っているペースからすれば、三〇本越えは間違いなかっただろう。

 この年は三年目の新人トニー・オリバ(ツインズ)が三割二分三厘(首位打者)、三二本塁打というぶっちぎりの成績でア・リーグ新人王を獲得したが、好不調の波が少なく終盤まで三割をキープしていたコニグリアロも、二割九分〇厘、二四本塁打、五十二打点と十代の選手としては出色の出来だった。

 シーズン3分の1を棒に振りながら、メル・オットが持っていた十代での本塁打記録十九本(二年間の合計)を三十四年ぶりに塗り替えた打撃技術は、かのテッド・ウィリアムズが「このままで十分いける」と太鼓判を押したほど完成されていた。自信家で気難し屋の“打撃の神様”が認めたほどの天才児の記録は、未だにアンタッチャブルレコードのままである。 

 

 若くでクールな強打者はクラブハウスに週に数百通ものラブレターが届くほどモテまくり、ロマンスの噂にも事欠かなかったが、有名になってからは、一般大衆の目に付くところは好まず、もっぱら内輪で集まっての馬鹿騒ぎがお気に入りだった。

 そんな彼にはもう一つの顔があった。本業である野球に勝るとも劣らないほどの音楽好きだったコニグリアロは、しばしばアマチュアステージに立つほど入れ込んでおり、そのうち玄人はだしのボーカリストという評判を聞きつけたペン・トーンという地元のマイナーレコード会社と契約を結ぶまでになった。

 一九六五年五月発売のセカンドシングル『Playing the Field』というロック調の曲は、地元でマイナーヒットした後、業界大手のビクターから再リリースされた。十代の若者らしくロックが好きだったコニグリアロは、専属のロックバンドを引き連れ、シーズンオフには歌番組にも出演していた。

 日本でもかつてはシーズンオフにプロ野球選手によるのど自慢大会が催されており、王や長嶋などのスターがレコードを吹き込むこともあったが、所詮は知名度を生かした便乗商法だったのに対し、コニグリアロの方は本格的な歌手としての扱いだったため、球団側がプロ野球選手から足を洗って歌手に転身してしまうのではないかとひやひやしていたという。

 こういう副業はチームメイトからは受け入れ難かったようで、新譜のシングル『Little Red Scooter』を全選手のロッカーに入れておいたところ、一枚残らず自分のロッカーに突き返されていたそうだ。

 この曲はコニグリアロが好きな一九五〇年代風のロカビリーソングで、結構乗りもいいのだが、少し時代遅れだったようで、評判はそれほど芳しいものではなかった。もっとも、歌の方でもビルボードチャートを賑わすほどの全国区になっていたら、野球から足を洗っていた可能性もあり、ファンにとっては痛し痒しというところか。

 自身は「クルーカットのビートルズ」を自認していた自信家だけに、チームメイトからの変人扱いもなんのその。常に自分の欲望には忠実で、思ったことは躊躇なく行動に移した。

 一九六五年度ミスマサチューセッツに選出されたエリザベス・キャロルに一目惚れするや、猛然とアタックを開始し、いつの間にかマスコミやファン公然の仲になっていたのもその一例である。

 その後も次から次へとモデルや女優の卵たちと浮名を流したが、「一生同じパートナーと過ごすなど考えられない」とうそぶき、生涯独身を貫いた。


 初めて規定打席に達した二年目のシーズンも、コニグリアロはデッドボールで骨折して戦線離脱を余技なくされるなど、相変わらず厳しい内角攻めに悩まされていたが、出場した一三八試合で三二本の本塁打を放ち、史上最年少で本塁打王のタイトルを獲得した。

 メジャーリーグ史上、二十歳で主要打撃タイトルを獲得した選手は、彼の他にはアル・ケーライン(首位打者)、タイ・カッブ(首位打者・打点王)の二人しかいないが、誕生日が最も遅いコニグリアロが、主要打撃タイトルホルダーとしても史上最年少ということになる。

 一九六七年にはメル・オットに次ぐ史上二番目の若さで一〇〇本塁打を達成し、オールスターにも五番右翼手として初出場を果たした。

 まさに20世紀少年が20世紀青年へと順調に成長し、近い将来テッド・ウィリアムズの域にまで達する期待が高まってきた矢先の八月二十六日、左頬を直撃するデッドボールを喰らったコニグリアロは、狙撃された兵士のように打席に崩れ落ち、人事不省のまま病院に搬送された。

 左頬骨を骨折し、内出血により左目周辺がどす黒く腫れ上がった姿は、後に『スポーツイラストレイテッド』誌の表紙を飾るほど有名になったが、退院後も後遺症から視力が回復せず、一九六八年のシーズン開幕前の四月四日に引退を発表した。

 奇しくもこの日には公民権運動の立役者の一人だったマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されており、野球ファンのみならずアメリカ全体が暗い雰囲気に包まれた。


 ユニフォームを脱いで故郷に戻ったコニグリアロはまだ二十三歳の若さであり、投手としての才能も見込まれていたことから、片目の投手としてフロリダの教育リーグで投げる一方で、歌手活動にも本腰を入れ始めた。ところがのんびりと野球をやっているうちにぼやけていた左目の視界が回復してきたため、メジャーへのカムバックを決意する。

 コニグリアロの奇跡的な回復をもろ手を挙げて歓迎したレッドソックスが、一九六九年四月八日の開幕戦にすでに一年半以上のブランクがある元本塁打王を五番スタメンで起用するという粋な計らいを見せると、その期待に応えるかのように、コニグリアロは延長戦十回に勝ち越し二ラン、十五回には四球で出塁した後、犠飛で決勝のホームを踏み、ファンの熱狂的な喝采を浴びた。

 JFKの暗殺後にボストンのヒーローになった男が、ロバート・ケネディの暗殺後(一九六八年六月六日)に再びヒーローとなって帰ってきたのだ。


 強心臓のコニグリアロも、復帰後初打席では恐怖心が先立ってベースに近づけず、一死二、三塁のチャンスにあえなく三振に倒れていたが、これで目が覚めたか二打席目には勇気を出していつものベースに覆いかぶさるようなスタンスに戻している。三打席目のセンター前へのクリーンヒットと四打席目のレフトフライで手応えをつかんだ後の五打席目はフルスイングで左中間スタンドに運び、ようやく忌まわしい事故以来、引きずっていたトラウマから解放された。

 同年二割五分五厘、二〇本塁打、八二打点でスポーティングニュース社選出のカムバック賞を受賞すると、翌一九七〇年は三六本塁打、一一六打点とキャリアハイの数字を残し、25歳の若き天才の前にはもはや何の障害物も存在していないかのように思われた。


 兵役によるブランクから復帰後に再びチームの主力とした活躍した例こそあれ、野球が出来なくなって一度引退した選手が、復帰前を越える成績を挙げたのはコニグリアロしかいない。まるでシナリオのあるドラマのような奇跡的な復活だった。

 復活年のシーズン終了後には、歌番組への出演も相次ぐなど、野球と芸能という変則二刀流の男は、再び若者たちのアイコンとして人生の表街道を疾駆し始めた。

 ところが好事魔多しというべきか、一九七一年にエンゼルスにトレードされてからというもの、眼疾が再発し、バットにボールを当てることさえ困難な状態にまで悪化した。

 ロサンジェルスに転居してしばらくの間は、住み慣れた古巣を離れた寂しさなど全く感じられないほど、カリフォルニアガールズとのデートに夢中だったが、打撃不振に陥るやボストンでの生活が懐かしくなり、シーズン途中で引退を決意した。


 シーズンオフには再びユニフォームを脱いだが、コニグリアロはまだ諦めてはいなかった。最初の事故で脳が損傷していたにもかかわらず、あれだけ本塁打を量産できたこと自体が奇跡だったのだが、よほど野球の才能には自信があったのだろう。動体視力以外は何も問題のない二十六歳の若者はまたしても苦難を克服し、一九七五年にレッドソックス傘下の3Aとの再契約にまで漕ぎ着けたのである。

 3Aでは二割そこそこしか打てなかったにもかかわらず、シーズン終盤にメジャーに引き上げられたのは、球団側の好意あるいは客寄せパンダ的な意味合いがあってのことだろう。

 まだ三十歳とはいえ、もはやプロの球に対応できなくなったことを痛感したコニグリアロは、ここでようやく選手としての人生に見切りをつけ、今度は指導者としての道を歩み始めた。

 幸いタレント性があったので、スポーツキャスターとして重宝されていたが、一九八二年の夏、父親の運転する自動車で空港に向かっている最中に、突然の心筋梗塞に見舞われ、危篤状態に陥った。

 その後、意識は回復したものの、身体機能は麻痺し、寝たきりになったため、実家に戻って親族からの介護を受けながらリハビリに励んでいたが、八年後に腎不全により四十五歳の若さで亡くなった。


 全盛期のコニグリアロは「欲しいものは全て手に入れられる才能を持った男」とまで謳われながら、なぜか「運」だけは手に入れることができなかった。

 五度もの死球による骨折にもめげず、ためらいなきフルスイングが野球人としての彼の真骨頂であり、生き様だった。


現在のMLBは選手が打席に立つたびに一種のテーマ曲を流すのが習わしだが、トニーCの時代もそうだったら、自身の曲を歌いながら登場し、一部の観客からはキワモノ扱いされながらも、コアなファンの間でカルト的な人気を博していたかもしれない。


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