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王子妃にはなれない

作者: 名紗すいか

※5/7あとがきにその後を追加しております。


公の場→わたくし

私的な場→わたし

使いわけてます



 魅了の術を使い、王族を手玉に取り国を混乱に陥れようとしていた男爵令嬢が断罪された。


 舞踏会の最中に突然はじまった断罪劇。先ほどまで状況を飲み込めずに固唾を呑んで見守っていた貴族たちは、今、溢れんばかりの拍手と歓声に沸いていた。


 キラキラと輝くシャンデリアの下にいるのは、この国の王太子と、その婚約者のレティシア。


 もう二度と離さないとばかりに、互いに涙を流しながらきつく抱き合っている。

 

 王太子は悪しき男爵令嬢を捕らえるため、そして、大切な婚約者の身を守るためにレティシアを遠ざけた。なにも知らされず、敵を騙すためとはいえ突然冷遇された彼女は、それでも、彼を信じて待ち続ける――。言葉を交わすことも触れ合うこともできない形だけの婚約者となっても、ふたりの心はとうとうすれ違うことはなかった。


 そして三年の月日が流れ――今日。


 魅了の術を封じる方法が発見され、件の男爵令嬢の悪事が白日の元に晒されるとともに断罪されたことで、王太子はようやく愛する人をその手に取り戻した。


 まるで物語の幸せな結末。


 誰も彼もが彼らの純愛を寿いでいる。


 その中でひとりだけ――クロエだけは、複雑な心境のまま、ふたりを一歩引いた位置から眺めていた。


 レティシアはクロエの親友だ。その想いが報われたことは素直に喜ばしい。


 王太子がこれからレティシアを大切に慈しんでいくことも想像がつくし、腐らず王太子を信じて愛し続けたレティシアならばきっと幸せになれるだろう。


 けれど。


 クロエは長いまつ毛を伏せた。その下にある焔色の瞳は今、苛烈な怒りによって支配され、揺らめいている。


 なにもかもが気に入らない。


 理由があってのことならば、なにをしても許されるのだろうか。


 きみのためだった、と言われたら、すべてを水に流して受け入れなければならないのだろうか。


 口先で謝ったことで、果たしてそれが贖罪となるのだろうか。


 慈悲深いレティシアはすべてを許して受け入れるという。


 だがクロエは許せなかった。


 当然のように愛する人をその手に取り戻した王太子も、手のひらを返したような周囲の反応も、すべてがクロエの気に障った。


 彼らはみな、忘れているのだろうか。


 自分たちがこれまで、なにをしてきたのかを。


 彼女がどんな思いでその涙を流しているのか、きっとかけらほども理解していないに違いない。


 それがどれだけレティシアを――そしてクロエを、傷つけ侮ったのか、一切わかろうともせずに。


 だから。


 こつり、と。クロエは靴音を鳴らして踏み出した。


 そこにいるのは王太子によく似た顔立ちの美丈夫、第二王子ギルフレッド。


 彼は……クロエの婚約者だった。


 クロエが彼の前へと立つと、周囲から一切の音が消えた。みなクロエの一挙手一投足を息を呑み見守っている。


 もうひとつの幸せな結末を期待しながら。


 ギルフレッドは自分の前に優雅に躍り出たクロエを見ると嬉しそうに破顔した。その笑顔を懐かしいと思うくらいの距離がふたりを隔てていることに、気づかない彼が滑稽だった。


「クロエ!」


 抱きしめられてうやむやにされる前に、クロエは朗々とした声ではっきりと告げた。


「殿下、婚約を解消してください」


「…………え?」


 ざわ、と貴族たちの間にざわめきが走る。誰も彼もが、先ほどの王太子とレティシアのような感動の再会が行われると信じて疑わなかったのだろう。


 周囲の人々同様、理解できなかったらしいギルフレッドが言葉を失っている。それでも構わずクロエは続けた。


「お忘れでございますか? わたくしの顔も見たくないと遠ざけ冷遇し続けたのは、ほかならぬ、あなた様ではございませんか」


 そう。冷遇されていたのはレティシアだけではない。クロエもだった。


 クロエがくすりと嘲笑すると、彼の顔からすっと笑みが引いた。


「それは! 兄上が先ほどおっしゃったように、あの女を騙すためで――」


「その結果どうなるか、聡いあなた方はきちんとお考えになったでしょう。社交界で爪弾きにされたわたくしたちがどんな目に遭うか、当然考えなかったはずがございません。その結果わたくしたちがどれだけ傷つこうが、それは瑣末なことと判断されたのでは? 百歩譲ってあの男爵令嬢を騙すためだったということは理解いたしました。国を守るために必要だったと言われたら、臣下としてうなずくほかありません」


「だったら……」


 ですが、と、クロエはきつい口調で遮った。


「このままあなたと結婚することは到底受け入れ難く存じます」


 クロエはことの成り行きを見守っていた人たちをぐるりと見渡して、うっそりと、憎悪を昇華させるように美しく笑った。


「わたくし、すべて覚えておりますよ? 殿下たちに便乗し、わたくしたちに悪意を持って嘲笑し蔑んだ者たち。あなた方の言葉は一言一句脳に焼きつけております。わたくしたちの身の周りの物に害を加えた方々、証拠ごと握っておりますよ。婚約者に相手にされないからいいだろうと手篭めにされかけたこともございましたね?」


 ふふ、と意味深にそれぞれの顔へと笑みを向けていくと、覚えのある者たちが順に青ざめていく。


 もちろん、目の前のギルフレッドや、さっきまで幸せそうにレティシアを抱きしめていた王太子までもが、驚きに目を見張った。


「襲われたというのは本当なのか、シア!」


「そ、それは……」


 レティシアは言い淀む。クロエの言ったことになにひとつ嘘はないからこそ、否定できないのだ。


(本当に優しい子。だからこそ、わたしは許せないのだけれど)


 自分ひとりならば、こんな場で婚約解消を願ったりしていない。あとで王家と話し合いをすればいいだけの話なのだから。


 だけどそれではだめなのだ。レティシアは決して言おうとしないだろう。知らしめなくてはいけない。どんな思いをして耐えてきたのかなんて、誰も知ろうとしないのだから。


 その結果、王子妃になれなくなったのだとしても――クロエは糾弾する。


 もう後戻りはできない。


「クロエ……本当に? だがきみたちには護衛を」


「きちんと報告されていると? おめでたい頭ですね、殿下。王家に忠誠を誓った騎士たちが、婚約者とは名ばかりの王族に見捨てられた娘を、命をかけて守るとでも?」


 ひゅ、と息を呑んだのは誰なのか。ギルフレッドなのか、王太子なのか、それとも杜撰な体制の近衛騎士たちなのか。


「悪しきは件の男爵令嬢だけだとでも? 悪意なんてものは、いくらでもそこらに散らばっているものなのですよ。主人の真意を汲み取れぬ愚昧な近衛騎士よりも、レティシア様のご生家であらせられる侯爵家の騎士たちの方がよほど優秀でしたわ」


 王太子とギルフレッドのそばに控えていた近衛たちがクロエの侮辱に顔を歪めたが、反論できないので悔しげに俯くしかない。彼ら自身がクロエたちの護衛業務を故意に怠ったわけではないが、統制が取れていなかったのは事実だ。


 そのせいでクロエたちは死んでいたかもしれないし、死んだ方がましと思える目に遭ったかもしれない。


 もしクロエが死んでいたら、今目の前で怒りと混乱で震えているギルフレッドは、どう思ったのだろうか。クロエの死を泣いてくれただろうか。


(……だけどね。死んでから泣いても、遅いのよ)


 そう。


 もう、なにもかも、手遅れなのだ。


「王子妃になることはもはや、わたくしには難しいことなのです」


「もしや……なにかされたのか!」


 詰め寄ってきたギルフレッドの動揺した声に重ねるように、レティシアが悲鳴のような否定をした。


「クロエ様は無事でした! それは間違いありません!」


 確かにふたりでいるところを襲撃されたが、そのときに怪我はなかった。


 安堵するギルフレッドに失笑する。すべては自分が招いたことではないか、と。


 クロエは殊更あまい声で皮肉を響かせた。


「本当に、羨ましいです。幸せなご家庭に育ったのですね、ギルフレッド様は」


 ギル、と愛称で呼ばなかったことに、彼は傷ついた表情をしたが、クロエは無視して自分の瞳と同じ炎のような色のドレスのスカートの裾を軽く持ち上げた。ギルフレッドをはじめ、周囲が晒された素足に驚愕したのは、未婚の娘が足を晒したことをはしたなく思ったからではなかった。


「その、あざは……一体」


 日に当たることなく白いはずの足は、ところどころ紫や緑に変色していた。打撲の跡であるのは誰の目にも明らかだった。


「わかりませんか? 躾と称して殴られたり蹴られたりするのです。王族に捨てられ、下級貴族にさえ侮られる恥晒しの娘などいらない、と。ねぇ、お父様?」


 うっそりと微笑んで父に目を向けると、みなの視線がそちらへと注がれた。父は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、さすがと言うべきか動揺はしていなかった。


「どういうことだ、公爵!」


 ギルフレッドが激昂して父の胸ぐらを掴む。その間にレティシアがクロエのスカートを下ろさせて、ごめんなさい、気づいてあげられなかったと涙を流した。


 気づいてほしいと思っていなかったのだから、レティシアが謝ることではない。この三年、彼女だけが、クロエの希望であり、救いだった。


「どうもこうも、あなたに倣っただけですが?」


「……倣った、だと」


「娘が目の前で悪意に晒されてようと見て見ぬふりをし、その結果下位の貴族どもを増長させ、公爵家の娘という価値を損なわせた。そうさせたのは私ではなく、ほかでもない、あなたではありませんか」


 なにも言い返せず、ギルフレッドは苦しげにうめいた。父の胸ぐらを突き放し、片手で自分の顔を覆う。


「俺は、クロエを……まさかこんなことに……」


 断罪が終わり、すべてが元に戻ると信じていたのだろうか。


(……愚かな人)


 すべてを包み隠さず話して協力を求められていたのなら、クロエも彼を信じて待つことができただろう。あの日々を耐えることができただろう。どれだけ時間がかかっても、ひたむきに待ち続けただろう、レティシアのように。


 ざわめきすらもない息を詰めたように重たい空気に満ちた会場。


 断罪劇のあとに断罪劇がはじまるなど、誰も予想していなかったに違いない。


 だけどこれで終わりではない。


 最後までこの独壇場を続けさせてもらう。


「そうそう、わたくしの次の嫁ぎ先ですが、すでに決まっているそうですよ。ねぇ、伯爵様?」


 クロエはその中年の伯爵へと流し目を送る。王子に捨てられた娘を引き取るのだからと多額の持参金を要求した、好色で加虐趣味があるとの噂を持つ伯爵は、焦りなのか脂汗をにじませて蒼白となっている。


「いいいいいえ、私は善意からそう申し出を!」


「貴様ッ……! 俺との婚約がまだ続いていると知っていながら、よくも……!!」


 ギルフレッドの怒声に怯んだ伯爵が滅相もないと、ぶんぶんと首を横に振り続ける。そのまま首が取れてしまうのではないかと思いながら、クロエはギルフレッドに向けて冷笑した。


「紙の上での婚約が続いていようが、はたから見ればわたくしたちの関係は破綻していたことは自明のこと。あなたが、そうしたのです。――あなたが!!」


 ギルフレッドが憤慨するのはお門違いもいいところだった。


 一番の加害者は、ほかでもない、彼だというのに。


 感情が乱れたことを恥じるように、クロエは小さくかぶりを振ってから、まっすぐ目線を上げた。


 傷ついたような顔をして瞳を揺らすギルフレッドに、もう、なんの感情もあげなかった。


「少しでもわたくしに情があるのなら、婚約の解消を。それ以外、あなたに望むものなどなにひとつございません」


「俺は……クロエのために」


「いいえ。それはわたくしではなく、国のため。ならばそれを最後まで貫けばよろしい」


 クロエはレティシアのように強くはなかった。


(わたしは王子妃にはふさわしくなかっただけのこと)


 その座にふさわしい女性を、もう一度選び直せばいい。


(あなたの夢をともに叶えてくれる女性(ひと)を)


「さようなら。あなたの顔など、もう二度と見たくありません」


 最初にクロエを傷つけたのと同じ言葉を、同じ冷たさで、つき返した。


「今後の話し合いは父を通してお願いします」


 クロエは誰に引き止められることもなく、堂々と会場を後にした。


 振り返ることはなかった。




「やってくれたな、クロエ。これからどうするつもりなんだ」


 王族との話し合いは終わったのか、疲れた様子で帰ってきた父に、クロエは髪を乾かしながら鏡越しに対応した。


「この家を、ということかしら? お父様の勝手にすればよろしいのでは? これまでずっとそうしてきたではありませんか。まさか、今さらわたしの意見を聞きたいなどとは、おっしゃいませんよね?」


 王族にどんなことを言われたのか知らないが、にべもなく突き放した。父に対して親子の情など残っていない。


「わたしは明日にでも出て行きます。使い道のない娘をこのまま養い続けるほど、お父様は慈悲深い方ではないのでしょう?」


 使用人にも侮られるような家、こちらから願い下げだ。本当はもっと早くに出て行きたかったが、まだ家にいる方が外に出るよりも安全だったため、易々と出て行けなかっただけのこと。


 一度地に落ちた公爵令嬢の肩書きに執着などない。ようやくしがらみから解放されて、思いのままに行動できると思うと清々しい気分だった。


「行き先は城にしなさい」


「なぜ」


「レティシア様がおまえを侍女にと望んだ」


「…………そう。本当にお優しい方」


 クロエを家から遠ざけるために話を通してくれたのだろう。想定内の打診だったので驚きはなかった。


「拝命いたしますとお返事ください。準備が整い次第向かいますと」


「遣いを出そう。それと、ギルフレッド殿下との婚約解消の件は……保留となった」


「諦めの悪い方々ですこと」


 ギルフレッドも父も。そのほかも。当のクロエはとっくに諦めてしまったというのに。


 もとよりすんなりと婚約が解消されるとは思っていなかった。


 保留となったところで、これまでとなにか変わるわけでもない。


(……みんな諦めてしまえば楽なのに)


 期待するから苦しむと知った。


 だから幼い恋心を手放した。


 そのおかげで心だけは傷つかなくなった。それが間違っていたとは思わない。後悔も、ない。


 いつしか恋心を失ったその場所には、ちゃっかり憎しみが住み着いていた。


 自分が傷つけられた分、傷つけた人たちが同等の痛みを負えばいいとすら思う。


 そんなところが、善良なレティシアとは違う。


 信じ続けて許しを与えた友人。


 信じきれず許せなかった自分。


 王太子妃となるレティシア。


 そして王子妃にはなれなかったクロエ。


 鏡にうつる自分の顔は、悲しいまでに父によく似ていた。



 なにを間違えたのだろう。


 ギルフレッドは自らが断罪し、断罪されたあの夜会から、ずっと同じことを反芻している。


 国を脅かす異分子を討ち取ることは、王族として生まれた以上必要なことだった。それは王子として為さねばならないことだった。拒否権ははじめからなかった。


 油断させるために魅了にかかったふりをした。それも、仕方のないことだった。あの女はとても狡猾で強かだったから。


 クロエに想いを残していると知られたら、クロエの命が危なかった。


 だから徹底的にクロエを遠ざけた。


 彼女を守っているつもりだった。


 ずっとそう思っていた。


 あの日までは――。


 目先のことばかりに囚われて、クロエの境遇にまで目を向ける余裕がなかったのが悪かったのだろうか。


 それとも、待っていてくれると信じて疑わなかった自分があまりに愚かだったのか。


 ふたりの間にあった誤解と障害は取り除かれたはずなのに、ずっとこの日が来るのを心待ちに耐えてきたのに、離れていたときの方が希望を持てていた分、ずっと幸せでいられた気がするのだ。


 やっと……やっと、彼女をこの腕に取り戻せる。そう歓喜して、だけど次の瞬間には、彼女自身によって粉々に砕かれて。


 好きでもない女に媚を売って、屈辱に耐え続けたのは国のためではあったが、なにより、クロエとの未来のためだった。


 その結果が、これとは。


 一番大切なものだけを、取りこぼして。


 一番大切なものだけを、失った。


 だったら自分は、どうすればよかったのだろう。


 どれだけ考えても、その答えだけが見つからなかった。




 数日が経ち、ギルフレッドは王太子である兄から、近々クロエがレティシアの侍女として登城するという話を聞かされた。


「クロエが……?」


「会いたいのなら、機会を作るが」


「…………いえ、大丈夫、です」


 クロエは自分になど会いたくないだろう。二度と顔を見たくないと言われたとき、その場に縫いとめられたように動けなかったことを思い出した。


 本当は追い縋りたかった。


 だけどできなかった。


 それこそが彼女の望みなのだと、その目を見て気づいてしまったからだ。


 兄やレティシアの手を借りたことで、彼女が彼らに対してさえも不信感を抱いてしまえば、本当にもう、二度と会えなくなる気がした。


「おまえには本当に、悪いと思っている……」


「いえ、兄上のせいでは――」


「おまえのことを巻き込んだのは、私だ。それなのに……」


 自分だけ幸せになることを後ろめたく思う兄にギルフレッドは首を振る。


「違います。これは俺たちの問題です。俺も、たぶんクロエも、兄上たちが幸せになることをなによりも望んでいるのですから」

 

 これは本心だった。


 兄たちには幸せになってほしい。……自分たちの分まで。


「おまえは……諦めるのか?」


「諦める……のとは、少し違うかもしれません。俺は第二王子ですから、無理して結婚する必要もないでしょう。想い続けることくらいは、許してくれるはずです」


 両親は許してくれるだろう。


 クロエはきっと、許してくれないだろうが。


 愚かな弟のせいで兄が憂う必要はない。ギルフレッドはことさら明るく言った。


「だから兄上たちには早く結婚していただいて、たくさん子供を作ってもらわねば」


 強がっていることに気づいていながら、兄はそれに触れることなく、気が早いと言って笑った。


 その気遣いがありがたかった。




 あの夜会でのクロエの糾弾のおかげで、レティシアの置かれていた境遇がいかにひどいものだったかを知った兄は、もう二度と同じ過ちを起こさせぬようすべての真実を詳らかにした。


 表立ってふたりを傷つけた者たちは、家名と行った悪事を晒され、社交界から一定の期間追放を命じられた。


 生温い罰ではあるが、そもそもの原因は王族である兄とギルフレッドである。ふたりがもっとうまく立ち回れていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。裁かれるべきはなにより自分たちだとわかっていた。


 レティシアはもうすでに城で暮らしている。彼女の侍女になるのなら、そのうちクロエとも顔を合わせる機会があるだろう。


 しかし会えたところでクロエの瞳にはもう自分が映ることはない。


 その現実をまざまざと突きつけられて傷つく自分が容易に想像できた。


 先に自分が突き放したというのに、いざ自分がそうされる側になると身を切られるような耐え難さを感じるのだからお笑い種だ。


 彼女が縋るような眼差しを向けてきたときも、ギルフレッドは心を殺して無視をし続けた。


 あの三年間、本当はずっとつらかった。


 悲しい表情をするクロエの震える肩を抱きしめて、本当に愛しているのはきみだと心のままに囁いてしまいたかった。


 だけどできなかった。


 結局ギルフレッドは、愛する人の心を踏みつけて国の安寧を選んだ。彼女の言う通りだ。


 こうなってはじめて知った。かつての耐え忍んだ三年間よりも、先の見えない今の方がずっと苦しいのだということを。


 きっとギルフレッドが彼女に与えた心の傷の深さは、こんなものではなかったのだろう。


 彼女との婚約は幼い頃に決められた、揺るぎないものだった。


 ギルフレッドはクロエを愛したし、彼女も自分を愛してくれていた。


 彼女と結婚して、兄夫婦をふたりで支えながら、幸せな家庭を築くはずだった。


 壊したのは自分だ。


 自分で壊しておきながら、傲慢にもまた元通りの関係に戻れると信じて疑わなかった。


 変わらず彼女のことを愛していたから。


 そして当然のように彼女も自分のことを愛してくれていると思っていた。


(そんなはず、ないのに……)


 彼女との婚約は保留となっている。


 保留のまま彼女を縛り続けるか、解消してきっぱりと縁を切るか。選択肢はそのふたつだけ。


 ずるいと言われても、罵られても、紙切れ一枚だけの繋がりだけは残しておきたかった。


 そうでなければ本当に他人になってしまう。


 彼女を思うのなら、手放すことが一番なのだろう。


 だけど、できなかった。


 兄たちの幸せは願えるのに、愛する人の幸せだけがどうしても願えない。クロエが自分以外の誰かと幸せな家庭を築く。そう考えるだけで胸が引き裂かれるようだった。


 クロエに会いたい。


 だが合わせる顔がない。


 今さら偶然でもギルフレッドになど会いたくないだろう。


 それなのに彼女は、意図せずすれ違ってしまうような城に来るという。


 そのときふと、ギルフレッドの中に疑念が生まれた。


(……本当に?)


 本当に彼女は来るのだろうか。


 レティシアの願いだからと、この城で働くことを、本気で了承するだろうか。


 そもそも、クロエを思うのならば、彼女を虐待していた父親のいる実家から遠ざけようとはしても、その受け皿として城は選ばないのではないだろうか。


 ここにはギルフレッドがいる。


 彼女を苦しめた一番の張本人が。


 レティシアはきっと誰よりもクロエの幸せを願っている。


 そしてクロエの幸せは、ギルフレッドとともにあることではないのだ。


 そうしてギルフレッドの不安は的中した。


 クロエは姿を消した。


 登城すると家を出たきり、そのまま行方を眩ませたのだった。





 クロエは全部捨てたのだ。


 国も、身分も、家族も、ギルフレッドのことさえも。


 なにも持たずに、しがらみを丸ごと捨てて、出て行った。


 必死に探した。国中探したが、見つからなかった。


 そんな中、レティシアだけが唯一、彼女の行方を知っているようだった。


 やはりレティシアが少なからず手を貸していたのだろう。


 しかしギルフレッドがどれだけ懇願しても、彼女はその居場所だけは頑として口を割らなかった。


 はじめからクロエはいなくなる予定だったのだ。


 いくら探しても見つからないのは、もうこの国のどこにもいないから。


 何度海の外へと探しに行こうと思ったことだろう。


 だけどその度に思い出す。


『さようなら。あなたの顔など、もう二度と見たくありません』


 温度のないあの言葉が、眼差しが、愚かなギルフレッドをこの場所へと押し留めた。


 数ヶ月に一度の頻度でレティシアに外国からの手紙が届く。消印は海の向こうの大国だった。


 便りがあるということは、元気に暮らしている証拠。


 もうとっくにギルフレッドのことなど忘れているだろう。


 彼女は美しい。恋人のひとりやふたり、いるのかもしれない。


 それでも。


 それでもまだ、忘れられない。


 諦められない。


 諦め切れない。


 あまりに長く想い過ぎた。


 彼女を失い空いた心の隙間。


 それはほかのものでは埋められない。


 クロエでしか埋められないのに。


 自分はこのまま一生彼女を想い続けるのだろう。


 望むところだ。


 とっくにその覚悟はできている。





 クロエがいなくなって三年経った。


 兄夫婦の間には息子がひとりと、そして今、レティシアのお腹には新たな命が宿っている。


 おかげでギルフレッドが独身でいても肩身が狭い思いをすることはない。天使のような甥っ子を存分にかわいがらせてもらっている。


 クロエとの婚約は未だ保留のままだ。


 たまにおせっかいな人たちが世話を焼こうとしてくるが、ギルフレッドは決して首を縦に振ることはなかった。


 継承権を放棄して公爵位を賜るという話も出ているが、せめてレティシアが無事出産を終えるまでは、王族として国のためにしっかりと働きたいと思っている。


 でなければなんのためにクロエを傷つけ苦しめたのかわからない。


(……いや、違うか)


 第二王子である限りはクロエの婚約者でいられる。そう思っていられる。


 まだ彼女と繋がっていたいのだ。


 繋がっていると思っていたい。


 それだけなのだ。




 クロエが海の向こうにいると知ってから、ギルフレッドは暇を見つけるとふらりと港へと足を運ぶようになっていた。


 この向こうにクロエがいると思うと、荒れ狂いそうな心がいくらか凪いだ。


 停泊している船に乗り込んで今すぐにでも会いに行きたいという誘惑から目を逸らして水平線を臨む。


 クロエはもうこの国に戻っては来ないかもしれない。


 それでも構わなかった。


 待つことにはもう慣れたから。


 死ぬまで待てばいい。


 だけどどうか、クロエだけは。


 クロエだけは幸せであってほしい。


 ようやくそう願えるようになった。


 いつものようにしばらく海を眺めてから、踵を返したとき、背中にふわりと潮風が吹きつけた。聞こえるはずのない声を乗せて。


「――ギル」


 足を止めたギルフレッドは、はじめ、耳を疑った。しかしすぐに、信じられない思いで振り返る。


 クロエだった。


 つばの広い帽子を風に飛ばされないよう片手で押さえ、シンプルなワンピースの裾をはためかせながら、クロエがそこに立っていた。


 最後に会ったときよりもずっと健康そうで、なにより、その顔には明るい笑みが浮かんでいる。


 想像していたよりずっと、大人びて美しくなっていた。強い日差しの中で、眩しいくらいに。


「なあに、その顔。幽霊でも見たみたいに」


 呆然としていたギルフレッドに、彼女はいたずらっぽく、くすりと笑ってみせた。


(ああ……そうだ)


 彼女はいつも、そうやって笑う人だった。


 彼女の笑った顔が好きだった。


 自分はもう二度と、見ることは叶わないと思っていた。


 幼い頃の幸せな日々が一気に蘇って、じわりと目頭が熱くなる。


 ギルフレッドが奪ってしまったその笑顔が彼女の元に戻ってきたことが素直に嬉しく、そして、それを成し遂げたのが自分でないことが切なくもあった。


「クロエ……なぜ、ここに?」


「あら? わたしは自分の生まれ育った国に、帰って来てはいけないのかしら?」


「そんなことは! ただ……もう二度と帰って来ないのではと思っていたから」


 クロエは帽子を脱ぐと靡く髪を耳へとかけて、まっすぐギルフレッドを見つめて微笑んだ。そんな些細な仕草すらも、どうしようもなく愛おしいと思う。


 それなのに。


 彼女は微笑みを称えたまま、ギルフレッドを絶望の淵へと突き落とす。


「第二王子殿下との婚約を正式に解消してもらいに来たの。そうしないと……結婚できないでしょう?」


 わかっていた。覚悟していた。いつかこんな日が来ることを。


 それでも、思わず息を呑まずにはいられなかった。


「結婚……するのか」


 絞り出すように言葉にした瞬間、書類上の婚約者という彼女との唯一の薄い繋がりが、ふつりと断ち切れるのを感じ、胸にじわりと諦めが広がった。


 もう元には戻らない。


 これで最後なのだ。


 本当に。


「もしお相手の方が、わたしのことを気に入ってくださったら……ね」


 少し自信なさげにそう言った彼女に、ギルフレッドは精一杯取り繕って答えた。


「きみを気に入らない男なんて、いないだろう」


「そうかしら?」


「そうだよ」


「本当に?」


「本当に」


「絶対?」


「絶対に」


「わたしを、愛してくださるかしら……?」


「ああ。絶対に、愛し……て……っ、」


 そこで言葉に詰まり、ああ、とか、うう、とか、言葉にならない呻きが漏れて、笑ってごまかそうとしたが失敗した。慌てて片手で顔を覆ったが、遅かった。愛してくれるだろうかと問うた彼女の瞳が、不安げに揺れているのを見たら、もうだめだった。


 自分の方が愛しているのに。


 こんなにも、愛しているのに。


 そんな身勝手な気持ちが溢れて収まりがつかない。


「……ごめんね、泣かないで」


 クロエの手が濡れた頰に触れる。その腕を引いて彼女を抱きすくめた。


 無理だった。


 嫌がられてもいい。


 今手放したらきっとまた後悔する。


 言葉で、行動で、伝えなければ、死ぬまでずっと後悔し続ける。


 もう二度と間違えたくはなかった。


 一番大切なものを。


「愛している、クロエ。ずっと、ずっとクロエだけを愛していた」


「……言ったでしょう? わたしは王子妃にはなれない。あなたは王族として当然のことをした。だけどわたしは……耐えられなかった。レティシア様みたいにはなれなかった」


 ギルフレッドは何度も首を振りながら、彼女を抱きしめる力を強めた。


「ならなくていい。クロエはクロエのままでいい。王子妃になど、ならなくていい。俺のことを憎んだままでいい。だから……っ、だから、もうどこにも行くな!!」


 気圧されたのか、クロエが身じろいだ。


 ほんの数秒の沈黙。


 何年も待ったのに、そんなものが殊更長く感じられる。


 ギルフレッドがさらに言い募ろうとしたとき、ようやく、クロエがぽつりとしたつぶやきを落とした。


「不思議なことにね……」


 胸をやんわりと押され、仕方なく、その分だけ距離を取った。


「海の向こうにいてもね、思い出すのはいつも、あなたと過ごした、本当に他愛ない、日々の出来事だったのよ」


 はっとして、こちらを見上げる彼女の真意を探るように、その鮮やかな朱色の瞳を見つめた。


「あなたは庭の花が咲くと、いつもわたしを呼びつけたわね。朝でも、夜でも、お構いなしに」


「……どうしても、見せたかったんだ」


 クロエは花が好きだったから。花の咲く季節は大変だった。数時間置きに呼びつけて、みなに呆れられた。


「だから花が咲くとね、あなたのことを思い出した。……また、あなたと見たいと思った」


 ギルフレッドも同じだった。毎年花が咲く度にクロエを思った。クロエに見せてあげたいと思った。


「お茶会のお菓子を、こっそりテーブルの下で交換したわね」


「クロエはシナモンが苦手で、俺はレーズンが苦手だったから」


 完全犯罪だと思っていたが、たぶん大人たちにはバレていた。


「本当は食べられたのに、わたしのために嫌いなふりをしていたのでしょう? わたしが、ドライフルーツが好きだったから」


 こっちもバレていたのかと苦笑する。


「レーズンのお菓子を食べる度に、あなたのことを思い出した。そして、シナモンのお菓子を代わりに食べてくれる人がいないことを、悲しく思った」


 また、同じだった。シナモンの香りを嗅ぐだけでクロエのことを思い出した。そのせいで今は苦手になったと言ったら、彼女は驚くだろうか。


「こっそり城を抜け出して、ふたりで迷子になって泣いたこともあったわね」


「……後から教育係に死ぬほど叱られたな」


 その後、両親と兄にもこっぴどく叱られた。迷子だったときよりも泣いたが、それはクロエは知らなくていいことだ。


「あなたはわたしの手だけは離さなかった。自分だって不安だったでしょうに、大人たちに見つけてもらえるまで、わたしの手を引いて、励ましながら歩いてくれた。あなたに手を繋いでもらえないことがね、いつも寂しかった」


 同じだった。


 全部同じだった。


 ずっと彼女と手を繋いでいたかった。


 ふたりで同じ未来を歩んで行きたかった。


「憎しみって、長続きしないものなのね。……一度感情をぶつけてしまった後は、特に」


 そうつぶやいて、クロエは儚げに微笑んだ。


「婚約を解消しましょう」


「嫌だ」


「そうしないと、結婚できないわ」


「お願いだ、クロエ」


「それでは一生、結婚できないわ」


「しないでくれ」


「あなたも一生、結婚できないのよ」


「クロエ以外とはしない」


「だめよ。あなたは王子様なのだから。第二王子として、理解ある王子妃と結婚して、一緒に王太子夫妻を支えていくのが、幼い頃からのあなたの夢だったでしょう?」


 あぁ……そうか、と。


 自嘲混じりの、掠れた情けないため息がこぼれた。


 きっとそこから間違えていたのだ。


 自分は。――自分たちは。


「俺の夢は、王子妃と一緒に兄を支えていくことではないよ」


「え?」


 クロエは本当に驚いた顔をしている。


 なぜきちんと伝えなかったのだろう。


 なぜきちんと伝えられなかったのだろう。


「違う。かっこつけたかっただけなんだ。兄たちを支えていきたいという気持ちは本当だが、それは建前で……。ただきみと、クロエと一緒に生きていきたかった。それだけだったんだ」


 ギルフレッドが望んでいたのは“王子妃”ではなく“クロエ”だった。


 はじめからそう言っていればよかった。


「……でも」


「俺は、きみを“お姫様”にしてあげたかった」


「え……?」


「小さい頃、言ったじゃないか。お姫様になりたいって」


 小さかった頃のささやかな会話のひとつ。覚えていたのだろう。クロエの顔がくしゃりと歪む。


「……“お姫様”になりたかったわけじゃないわ。“あなたのお姫様”になりたかったのよ」


「俺もそうだ。王子でなくとも、国に尽くす方法はいくらでもある。きみとともにあれるのなら、王子をやめる」


「王子を、やめる……?」


「やめる。王子であるからきみを手放さなければならないのなら、そんな肩書きは、いらない」


「……本当にいいの?」


「いい。元々、兄の子が生まれたら継承権は放棄するつもりだった。貴族が嫌と言うのなら、平民になってもいい。隣にきみがいてくれるのなら、それが俺の幸せだから。海の向こうにだってついて行く」


 クロエが肩をすくめて苦笑した。


「わたし、今帰って来たばかりなのに?」


「だったら一緒に暮らそう、この国で。一緒に兄たちを支えていこう。第二王子と王子妃ではなく、ただの臣下、ギルフレッドとクロエとして」


 ギルフレッドが言い切ると、一度目を丸くしたクロエが、ふっと肩の力を抜いて、心底困ったように微笑んで見せた。


「……結婚のお話、お断りした方がいいかしら?」


 ギルフレッドは言葉の意味を理解すると同時に歓喜の声を上げてしまいそうな自分をどうにか押さえ込んで、努めて冷静にうなずいて見せた。


「ああ。早い方がいい」


「一緒に頭を下げてくれる?」


「いくらでも下げるよ」


 ギルフレッドはクロエへと手を差し出す。


 躊躇いながら宙を彷徨う彼女の手を焦れて掴むと、二度と離さないようにしっかりと指を絡めた。


「婚約は解消してね、王子様?」


「その代わりに結婚してくれると言うのなら、すぐにでも」


「あら、婚約は?」


「解消されると困るから、しない」


「それは素敵ね」


「だろう?」


 そんなささやかなやり取りに心満たされながら、ギルフレッドは愛する人とともに歩む未来へと、ようやく一歩踏み出したのだった。




「ところで、どこに頭を下げに行けばいいんだ?」


「近々公爵位を賜る予定の元王子様のところに」


「! 本当に?」


「ええ、本当に」


「……きみは少し、意地悪になったな」


「そんなわたしは、お嫌い?」


「……好きだ」


「それなら問題ないわね」


「どうやって頭を下げたらいいだろうか?」


「そうね、鏡の前に立って謝罪するのはどうかしら?」


「……なるほど」


 ギルフレッドはどれだけ滑稽でも、精々心を込めて、鏡の中の自分へと頭を下げようと思った。


***

最後までお読みいただきありがとうございました!

あとがき部分は若干本編と矛盾するかなと思って割愛していましたが、感想欄であった方がいいとのお声をいただいたので追記しました。

ない方がいいという方は、その部分はスルーでお願いいたします。


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