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夜行鳥はラブソングを歌わない

作者: ヨモギ猫

 あの年の秋、東京の空はいつもより少し冷たかった。


 夏川真央と高橋悠一が初めて出会ったのは、

 中野区の少し時代遅れな小さなレコーディングスタジオだった。


 暖房のないその部屋で、彼らは床に座り、安いコーヒーをすすりながら語り合った。

 まるでコンビニから抜け出してきた夜更かしの猫のように、それぞれのバンドの夢を話した。


 真央はボーカルだった。声は午前四時の空気のように澄んでいて、

 どこか疲れていて、言葉にならない感情を秘めていた。


 悠一は作曲家。多くを語らず、いつも目を細めていた。

 頭の中には止まらないレコードプレーヤーが住んでいるかのようだった。

 彼は「メロディーは物語だ。言葉よりも正直な表現方法だ」と言った。


 バンド名を「夜行鳥」にした理由は、謎だった。

 鳥が好きだからでも、夜が好きだからでもない。

 深夜はいつだって孤独であり、孤独は闇を飼いならす糧だから。


 彼らは、自分たちの歌が街灯のようであってほしいと願った。

 たとえたった一人の夜を温めるだけでも、

 それで生きる意味があると信じていた。


 最初の頃は、ただSNSにオリジナル曲を投稿するだけだった。

 宣伝もせず、PVも作らず。

 曲をアップして、スマホを置いて、カップラーメンを食べに行く。


 そんな中で、《未眠》という曲が、ふとしたきっかけで広まった。

 まるで、読書中にふいに外で霧雨が降り出すような不意打ちだった。


 理由は誰にもわからなかった。


 歌詞があまりに率直だったからか、メロディーが心に寄り添ったからか。

 とにかく人々は拡散し、コメントし、投げ銭をし、「隠れた逸材だ」と呼んだ。


 そして、取材、ライブ、マネージメント契約――熱狂は下り坂を走る電車のように、

 誰にも止められない速さで視界の外へ飛び去っていった。


 けれど、その「成功」は、彼らが思い描いていたほど明るく澄んだものではなかった。


「聞いた?」

 ある日、真央がスマホを手に、天気予報でも読むような声で言った。

「私、話題作りしてるって叩かれてる。」


「俺もパクリって言われたよ。」

 悠一はギターの弦を調整しながら答えた。

「誰のをパクったのか、自分でも分かんないけど。」


 噂はまるで雨漏りのようだった。

 最初は一滴、二滴。気づけば寝るにも傘が必要になるほど。

 真央は悠一よりも濡れやすかった。


 彼女は不眠になり、時には朝四時にボイスメッセージを送ってきた。

「ねえ、うちらのあのサビ、どこかのポップソングに似すぎてない?」

 その声は、泣いているかのようにかすれていた。


 悠一は、どう慰めればいいか分からなかった。

「気にしないで」と言うには軽すぎる。

「俺たちには俺たちがいる」と言うには重すぎる。


 ちょうどいい言葉が言えない彼は、ただ録音の合間に彼女と窓辺に座り、

 意味のない風の音を一緒に聞くことしかできなかった。


 ある深夜、録音を終えた後、真央がぽつりとつぶやいた。

「解散しよう。」


 悠一は言葉を失った。彼女がもう限界なのは、分かっていた。

 柔らかな猫を抱え、夜道を歩く二人には、優しさすら重たかった。


「どうして? 乗り越えられるよ。」


「乗り越えて、何になるの?」

 彼女はかすかに笑った。

「もう、昔みたいには歌えないんだ。」


 そうして彼らは、ラストライブのあと、正式に解散を発表することにした。


 そのライブは満席だった。

 真央は全力で歌い、最後の曲は《夜行鳥》。

 スポットライトの中に立つ彼女の周囲では、空気さえ流れているようだった。

 最後の音を歌い終えると、何も言わずに深く一礼した。

 その目には涙が光っていた。


 楽屋に戻ると、彼女はイヤモニを外し、マイクを机の上に置き、

 まるで何気ない雑談のように言った。


「解散はいいけど、そうしたら、養子に入れてくれよ。」


 悠一は聞き間違いかと思った。

「今、何て?」


「行くとこないの。」

 彼女は床を見つめていた。存在しないヒビを探すように。

「何をすればいいのかも分からない。ただ、悠一くんがいなかったら、きっと迷子になる。」


 悠一は黙ってうなずいた。


「いいよ。でも、皿洗いはしてもらうよ。」


 彼女は泣き笑いをしながら言った。

「いいよ。でも料理は、悠一くんね。」


 彼らは本当に人前から姿を消した。

 別れも、次のアルバムもなかった。


 中野区の小さなアパートに引っ越した。

 部屋には中古のシンセサイザー、古い机、二つのカップ。

 悠一がメロディーを書く隣で、真央はペットショップのPR動画を作っていた。

 時々、彼女は懐かしい歌を口ずさんでは、音を外して文句を言った。

「笑わないでよ。」


 夜になると、二人は窓辺に座り、窓を開けて街の音に耳を澄ませた。

 風の音、救急車のサイレン、そして時には、ただ互いの呼吸だけ。


 今夜のステージを、二杯のコーヒーのぬくもりと、

 窓の外に広がる夜の色に。

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