39 灰色の獣と清き者。更なる力。
天界の、ある場所の公園。そこで少年を取り込んだ元虎型の――今は人型で顔まである空影が、
「容赦しないだと?」
と口を動かした。
取り込んだ少年の命や人をぞんざいに扱う空影を許せず前に立つ形快晴己は、
「そうだよ」
そう言うだけ。
さっき、来いと言った。だから晴己は自分からは動かないでいた。
その対峙を、傍らに居る女性警察官の天人は、ただ無言で見ている。
晴己の右手には、輪状の、妖刀《ヴルエンカ》。それは持つ者の力を倍増させる。
「そんな顔をしても……」空影は、ニタリと笑った。「これなら痛いじゃ済まないだろ」
その瞬間、晴己の頭上が光った。そして起こったのは。
落雷。
雲も無かったが、それは何かの能力に因るものなのだろうと晴己は思った。思う余裕があった。
事前に体がビリビリしていた。予感がした。雷打か雷刃を放ってやろうとした矢先だったから、晴己は、全身を耐えられるようにしていたのだった。
更には撥ね返し。
それをすり抜けた雷だけを、まさに、受けて立つ。放つ自分が無事なのだ。放つために持つことができる。そして、
「だあああっ!」
と、放った。
受け、宿し、練り、放たれたそれは、反射されたものと合流し、半分は、術者なのに空影が喰らった。
「あ、そうだ、お見舞いするって言ったよね。喰いたいんでしょ。喰らわせてあげるよ、ダメージをね」
雷に因る多少のダメージも、この声によって回復。
晴己は駆けた。強靭な体躯で。腕も脚も腹も肩も――何物にも負けない強度であれと晴己は念じた。
そして前から来ると思ったであろう空影の背後に瞬間移動。
相手が、予感して振り向いても。
それならと瞬間移動。
「雷――」
やはり背後を取り――
「刃っ!」
渾身の力を凝縮した。あの失われた少年の命を思って。
「ぎ、あ」
右手にある妖刀《ヴルエンカ》が敵の背に傷を付けた。しかもその直後。
「切断」
バッと血が舞った。濃い灰色――ほとんど黒の血だった。人のそれですらない。
(――思ったより切れてる)
晴己がそう思ったのは、妖魔の時は中々掛かったからだ。
「どうしたの? 僕を倒すんじゃないの? まあ僕が君を倒すけど――あの子のためにね」
煽りと悲しみと怒りが、そこには同時にあった。
負けられない。晴己は睨んだ。
「こ、このガキィィィィイイ!」
「さっき生まれたばっかじゃん、んー、そういうのは何歳なの?」
晴己の素朴な疑問だった。が、答えは返らなかった。
影天界の化け物、空影。顔有化した空影。それが今、上空に浮き、ニヤリとした。そして純白の三叉槍を生み出し、こちらを狙う。
晴己も浮き上がった。
「できないと思った?」
「こ、こ、この……ん?」
晴己は、天力の白さを全身に纏い、目には黒い力を宿している。右手の群青色の妖刀《ヴルエンカ》の周囲には空色のオーラを纏っている。それぞれ美しく輝いている。ただ、本人にはそれが見えていない。
「まさか。嘘だ、そんな。だからかっ?」
空影が急に怯え始めた。もうさっきの三叉槍まで消えている。そして、
「――? 何言ってんの?」
と晴己がただ呟いたタイミングで――
「もういいこれでも喰らえ!」
と、怪物は、自棄糞気味に大技を念じたようだった。すると、晴己は大きな石の中に閉じ込められた。それは感覚的に晴己が石だと思ったのであって、実際には、水族館などによくある巨大水槽ほどの体積のコンクリートの中だった。そしてそれが瞬時に落下し、ほぼ真下を流れていた川の、深い底に、晴己はそれごと落とされた。
(――え? 出られないならアレだけど、多分切断もできなくはない……それに……)
晴己は、自身の力『会いたい者の後ろへと瞬間移動をする』を使った。相手の背後へ。
(やっぱりね)
そして背中をポンと叩いた。
「ひっ!」
さっきまでの態度とは大違い。振り向いて怯えている。
「逃がさないって言ったよね。あ、そうだ、今、人を喰わないって言ったら――」
「喰わない! 喰わないから!」
「……え、本当?」
晴己は優し過ぎた。
「じゃあ……んーでも、嘘かどうかも分かんないしなあ……」
だが。
「あ」と晴己は思い付き、上空に浮かび合った相手の動きに注意しながら、紙に念じた。彼の言葉は嘘? 本当? と。
紙に字が浮かび上がる。
『彼の誓いは嘘だ』
晴己は悲しくなった。
「こんな嘘は……駄目だよね。あの子だって生きたかったんだよ」
「うわあああでも逃げ切ればこっちのものだよおおお逃げ切って喰ってやる!」
空影がどこかへ飛んで行こうとする。実際もうどこかへと進んでいた、空中をだ。
それを眺め、十数メートル離れたのを見て、晴己は、浮いたまま溜め息を一度だけ深く。そして。
「逃がさないって……言ったよね!」
奴の後ろへと怒りの瞬間移動。そして巨紙を生み出し行かせまいとしてから。
「じゃあごめんね。――ずあああああああっ!」
振り下ろす。そして念じた。
強く。
限界まで強く念じた。あの子の苦しみや悲しみを思い知れと思いながら。
だからこその大声だった。
そして。
晴己はそれを切断し切った。振り向こうとした相手の、左肩から右腰まで。真っ二つ。
「あ……が……あ……っ?」
そしてそれらは浮遊の力を込められなくなり、地面へと落ちた。
暫くすると、それらは灰色の泡状になってどこかへと消えた。
(浮かばれたのかな。さっきの子は)
晴己はそう想った。涙が頬を滑って空中を落ちてゆく。口元も歪む。
そして降り立つ。
さっきの公園から少し離れた所の橋の上。そこへ、女性警官の天人が、明らかに身体強化した速度で駆けて来た。
真剣な彼女が言う。
「やっぱり! それ知ってる! 知ってるよ! 妖刀《ヴルエンカ》! でしょ! 教科書で見たことあるやつ!」
晴己は涙目で、顔を向けずに。
「……そうなんだ」
そして顔を左手で拭く。
「なんで持ってるの! やっぱり犯罪――!」
「あ、違う違う。あの。僕は……」
その時だ。
「うぇえええ、いっあっあぅああああん」
男の子の声だった。泣いている。
声の方――後ろの、橋の歩道――を、晴己と女性は見た。
そこに居たのは、さっき見た、取り込まれた男の子。真っ二つになった空影の一部から、抜け出したように、再生したように、そこに現れたようだった。間違いなくあの子だった。
「さっきから言ってた『あの子』って、この子?」
女性警官に言われて、晴己は、何度か肯いて、顔をまた歪ませ、目の辺りを拭いた。だが止め処なくそれは――
「無事……そっか……! すぐなら……! よかっ……! ふうぅぅ……っ!」
(倒せばいいんだ。よかった……!)
晴己は空を見て、そして、救えたことを噛み締めた。強く――涙が出て来なくなるまで。
そして、また拭う。それから前を見た。
そこに、天使ガサナウベルの変装した姿が。
「吃驚! もう吃驚!」
「やったな。凄かったぞ」
「――ふへっ」
胸の震えは残っていた。
髪の短い少年の姿に変装中の晴己と、ガッシリした男性に変装中のガサナウベルが揃う。
二人は奇妙にも笑い合っている。幸せそうに。
女性警察官の天人は、なぜ彼らを追わなければならないのかと考えた。
(こんなに……いい人達みたいなのに、なんで……。彼らが何をしたっていうの? じゃあ、警察に、何かがある?)
彼女は、歯車の一つになりつつあった。
「じゃあ行くぞ」
ふと、ガサナウベルが言った。
「ま、待ちなさい!」
するとそこで、何かの暗号のように、ガサナウベルは――
「追い駆けたければうまくやれと言ったんだ! お前にそれができるかな?」
と言い放った。
単純に捉えるなら、できないのなら止めておけという意味。真相を追おうとしているなら覚悟しろと、それもできないのなら気付いても手を引けと、そう言いそうな顔で、彼は苦々しく笑った。
彼女はそれをそういう顔だと思った。
実際そう――というより『手を引け』が一番近い。今は関係ない者を巻き込まないために演技をしていると言っても過言ではなかった。ガサナウベルがこうであれば――彼を追うだけなら――追う者は真実を見なくて済む。巻き込まれない。気付いていないことが人を守ることもある。
「くっくっく! じゃあな!」
ガサナウベルの空間接続の面へと、まずガサナウベルが向かう、そこへ晴己も。二人はまるで足並みの揃った師と弟子。
(いや、まるで父と子。そして何かと戦ってる。何と? なぜ?)
彼女は答えの幾つかの候補を頭に浮かべた。
この女性の天人、ルアンダエラ・マフレイスは、疑い方を変えつつあった。
(今後ももし何かあったら……逃がしてしまったように見えるように、追跡ごっこを続けた方がよさそうね……)
そこへ、同僚が現れた。
「勝手にどこ行ってんスか。探しましたよ。バカでかい天力を感じたら、そこにいるし――」
彼に、ルアンダエラが、
「いわば堕天使のガサナウベルに逃げられちゃったのよ。その前は、逃亡中の形快晴己を追跡してた」
と言うと、それを聞いた部下は、
「本当に本気で追い駆けてたんスかぁ? まさか……逃がしてませんよね、意図的に」
と、真顔の声。
「んな訳ないでしょ、相手が一枚上手だっただけよ、何しろ二人だしね」
「ならいいですけど。ぷんぷん。置いて行くんだもんなぁ」
拗ねる部下を視野の外に置き、彼女は、やはり何かあると睨んだ。その二人だから――というのも理由。
ただ、その睨む向きは内側。彼女の頭にあったのは――天舞最上警察だった。




