10 連れ去った者と、命と、血と、現状への想い。
付いて来ていた翼のバスの運転手も、呆然とするだけだった。
天界にある目の前の廃ビルがごっそり丸ごと消える。そんなことは普通にはありえないのだと天前ベージエラの顔にも書いてある。
ベージエラと時沢ルイは顔を見合わせた。
男性運転手は、ここでは異質だと感じた形快晴己に視線を落とした。
彼は思った。
(多くの生徒の方が消えたんじゃなくて……いや、そうだけど……この子をここに残された……可能性は……?)
この横たわった晴己とほか三名の前に、大きな廃墟があった位置よりも奥から、何者かが現れた。
それはフード付きの青い着物の誰か。下は青い袴。帯は白。顔には黒い仮面。影も相まって仮面の表情さえもよく見えない。
「やあやあ、取引と行こうか」
男の声ではあった。
「これはどういうこと!」
ベージエラは叫んだ。
「説明する義理はない。こちらには力を使えない状態にして縛った二人がいる」
「……! 千波さん、大月さん!」
ベージエラはその姿を悲しがった。
千波由絵。彼女はロープで後ろ手に縛られ、泣き腫らした顔をしていた。
大月ナオ。同じく後ろ手で。だが、意外と彼女の方が泣いていない顔。
そんな姿で立つ二人を前にして、ルイは何を言えばいいか分からなかった。
その時、晴己が目を覚ました。空を見、そして身を起こし、「ホテルは」と。
「消えたよ」
運転手がそう言った。
「……は? 消えた?」
晴己も、奇妙な衣装の人物と目的の二人に気付いた――すっくと立ち上がった。
「どういう状況」
と、晴己が聞いてすぐ、彼の方から――
「そこの紙を念のため四、五枚持った状態の形快晴己をこちらへ寄越せ、そうすれば二人を解放してやる」
「なぜ!」
叫んだのはまたもベージエラだった。
「どんな理由があろうとも君達にはそれしかできない。我々に対しては」
そう言われ、ベージエラは黙してどうしようかと悩んだが、答えは出なかった。
時沢ルイがどうにかできる問題でもなかった。案も浮かばなかった。
晴己は、ベージエラのバッグにある『を』の紙を見た。
「先生、とりあえず紙とペン」
許諾を完全に得る前に晴己はバッグを漁り、そして、どうしようかと悩み、目の前にある紙のことしか考えられずに書き殴った。
『かみをあやつる』
(もうこれでいい。平仮名で書き殴るしかできなかったけど)
自分の手首の外側――24-8とある白羽根から肘寄りの位置に『肉体を改造する』によって与羽根の模様と24-41を浮かび上がらせると、晴己はその紙を六枚持った――本人は数えてはいない。
ベージエラは書かれた紙を受け取り祈った。
時沢ルイの手首にも白羽根と24-42を浮かび上がらせ、手にあるうち一枚の紙とペンを持たせ、書かせた。
『空間同士を一面でだけ接着する』
ベージエラがまた祈る。男はなぜか待ってくれていた。
時間がないと思ってあえて平仮名で書いた晴己は、少々ほっとした。もし攻撃されていたら。ゾッとする。
「このくらい念のためやっとけばいいでしょ、僕、行きます」
晴己はそう言うと、男に近付いた、能力を使わず、五枚の『を』の紙を持って、ゆっくりと。
ルイの心は歯痒い気持ちでいっぱいだった。今得たばかりの能力では状況打破も無理。男の背後に何かがある風なことを男は言っていた。『我々』と。
男のすぐ横に立つと、さっきよりクリアに聞こえる。芯のある声。……どこか迷いのある声、と晴己は感じた。
「よし、いいぞ」
後ろ手に縛られたまま、由絵とナオは、最初は歩き、少しずつ歩幅を長くしていった。
「僕らを舐めるなよ」
晴己がそう言って念じようとした瞬間、男の発声。
「やめておけ。悲しいことが起こるだけだ」
「……っ?」
晴己は、全神経を集中していた。肉体改造をそこでも発揮していた。
男の声はどこか優しかった。誰に対してなのか。
「くっ……」
心の中で、晴己は綴ることにした。
(さよなら。でもきっと、何とかなる、そんな気がするから。それまで。さよなら)
消えた五組のほぼ全員に対しても、代理担任に対しても、すぐそこの仲間、運んでくれた運転手に対してでさえ、丁寧に晴己は想った。
男の顔を見ると。
「じゃあ行くぞ」
「いったい――」
問う前に、晴己と男は、この場から消えた、見えないカーテンでも引かれたように。
それを見送って、二人のロープを解いたベージエラに、由絵が打ち明けた。
「先生、背中、私たちの背中に能力封じの紋様が」
知ると、背中だけ服をはだけさせた。
貼られていた。シールのようなもの。剥がしながらベージエラは言った。
「天使の力で付けるものよ、独特だけど……あの男、天使なのね。なぜ……」
天使が敵? 冗談じゃない――と、ルイは心の中で愚痴った。
「みんなをどこへやった」
どこかの部屋のようだった。広い屋敷のような。
そこの中央で、念のため感覚器官も肉体改造した。その晴己が問うと、男は、窓際に立った。そして仮面を脱ぎ、そばの机に置いた。フードも取った。
「その前に。俺の願いを聞いてもらおうか。協力してもらえないと意味がないのでね」
振り返った彼の顔には、実は闘争心など皆無、晴己にはそう見えた。
「きょ、協力?」
様々な不安を感じながら言葉を待った、そんな晴己の耳に、返事が届く。
「妻を肉体改造で治してほしい。あの二人には治せなかった。もしそれもダメなら俺の腕を、与羽根の宿った状態にするんだ。……助けてほしい」
それは胸にも届いた。
彼の声は、最後だけ揺れていた。
晴己は――
「どんな……状態なんですか」
静かに尋ねた。
答えを待つ間に、晴己は考えた。
(確か……大月さんは、『キズをなおす』という能力を得たんだ、だから、キズとして合わさるものがないとダメなんだ。千波さんは癒しの楽器を出して演奏することで……。じゃあ、どんなに癒しても蝕まれている……とか? 何によってだ? それとももっと別?)
男の……儚いものを想うような声がした。
「痩せこけて、見る影もない……。ついて来い、それで分かる」
そこは二階だった。
歩き、一階の、とある廊下の先へと向かった。
ドアを男が開けた。静かに入る。
そこは……感覚器官も肉体改造した晴己にとって、臭く空気の淀んだ場所だった。
ベッドに寝ている女性を、男は紹介した。
「妻だ」
「……あぁ、おかえり、マーシェル」
彼女に肉などほとんど無い。点滴が細い腕に刺さっている。
天界の人間がどこまで生きていられるかなど晴己には分からないが、これが最低最悪な状況だということだけは、彼にも分かった。
とても……見ていると辛くなる。
一階の廊下にひとまず出た。
そこからは庭が見えた。綺麗な所だ。花が沢山。植木鉢もカラフル。華やかだった。元気を出させようという色をしている。晴己にはそう見えた。……見た晴己は涙した。
「これだったんだな。だからあんな目を……!」
(きっと大月さんも。顔には出てなくても……!)
由絵の涙の理由を知り、そこへ来た男――マーシェルに、晴己は問い掛けた。
「具体的には、どういうことになっているんですか、あの人」
「食事をあまり受け付けない。消化も悪くなって、痩せて……そういう症状が出始めた初めの頃は違った、まだよく食事をしていたんだ、症状が出てもだ。なのに今は」
「これが……人間にできることならいいですけど、もし天界の人達だからこそなら、僕には分からない。胃と腸の改造だけでいいなら」
「頼む」
晴己は、先程の部屋に戻ると、念じた。よくなってくれと願いながら。不自由ない元気さを取り戻してくれと願いながら。ただただ念じた。強い胃と腸への改造。少しは全身へも念じた方がいいかもしれない――晴己はそう思うと、腹部を中心に、彼女の全身に、よくなってほしいと念じた。
数十秒では足りなかった。
数分念じたあと、晴己の目の前は、また、暗くなった。
(神様、あんな不幸、なくしてください、どうか二人を……)
泣くほどの夢を見た気がしてから、晴己は目を覚ました。
そこは最初現れた場所の横の部屋だったが、晴己がそれを知ることはない。
マーシェルはそばに座っていて、身を起こした晴己に気付くと、立ち、近付いた。
「晴己くん! 君のおかげだ! 妻が……! イミエラが食欲を取り戻したんだ! みるみる元気になってる! 肌艶もいい! あんなに……っ!……あんなに元気なのは久々で! もうずっと……っ」
晴己は喜んだ。
役に立てることは晴己の喜びだった。
その時、ガシャンと何かの音がした。下の階からだった。
「食器の割れる音だ」
鋭敏化していた晴己の耳にはそれがよく分かった。
そしてこの部屋へ、近付く音があることも、晴己は分かっていた。
「誰か来る」
ドアが勢いよく開いた。
現れたのは執事らしき男。実際この家の使用人だった。その手にはナイフ。今まさに放たれるところだった。
寝起きだったが、ぐっすりしていた晴己にとって、肉体改造をして飛び回るのは苦ではなかった。
放たれたナイフを、晴己は手で受けた。血が舞う。もう片方の手で男の顎を殴る。と、男は気絶した。
そこへ、「マーシェル様!」と叫びながら走ってくる足音が、晴己の耳には届いた。
晴己は察した。
「毒かも。いや、もしくは毒に似た天界の何か……。食事に。だから胃腸が。多分……」
駆け付けたのは男。彼は、晴己を見ても無視し、マーシェルに向けて発言し始めた。
「マーシェル様、そこの男が新種の天微虫を食事に仕込んでいたようです、それからその天微虫の餌、天人の毒となるものも盛っていたようです。だから奥様は! これらがその瓶です!」
二つの瓶を持ったこの男の気迫は凄かった。
「どうして今の今まで分からず、今なんだ?」
マーシェルがそう言った。
すると男が。
「入念に隠していたんでしょう。そしてきっと、症状を改善されてしまったから、撤退しようとして証拠を持ち、ここから去ってしまおうとしたに違いありません。あわよくば、去る手前ならばと、襲ったのでしょう」
「ふむ……」
晴己は、念のためにと思い、紙を探した。持って来ていた『を』の紙がそばの机の上にあるのを発見した。それに念じた。
(あの人がもし犯人の一人だったら、お前はあの人の前へゆけ)
紙は彼の眼前へ移動した。
「しらばっくれるな」
晴己は睨んだ。
すると、瞬間、男は手を伸ばした。晴己とマーシェルに向けて。
さっきの態度は信用を得ておこうと考えたが故だろう、と晴己は結論付けた。そして、一瞬で彼の手の前から晴己は消え、いつの間にか彼の横にいて、彼を蹴り飛ばした。
さっきいた場所の後ろで箪笥が燃え上がったが、その火は強く叩くことで消えた。
そしてさっき切られた晴己の手からは血が絶え間なく出ていた、それを、肉体改造で治癒力を上げることで治せないかと、晴己は試した。
そして……。
それはひとまず治った。成功だ。
ホッと一安心……をしてから晴己は告げた。
「言ってること自体は本当だと思います」分析もした。「ただ、彼はあなたを慕ってなんかいません。自分の利益を考えただけです、自分のやったことも隠そうとした」
実際、晴己はこうも思っていた。
(多分、千波さんが治せなくて泣いてたのは……彼の言う事だけは本当だろうから……治そうと演奏しても、その度に、虫が、居所が悪くなって騒いだ……とかかも……)
それが、実は的を射ていた。
晴己はマーシェルに向き直ると。
「さてと。しっかり調査されれば誰のせいでこうなったか……解決すると思います。そうなったら僕はもういいですよね? みんなはどこです?」
「あ、ああ……君のクラスのみんなのことだな?」
マーシェルは晴己に確認した。そして晴己の、
「ええ」
という声を耳にすると、本人は続けた。
「それが実は……俺には分からないんだ」
「分からない? あなたが――」
「俺じゃない。とりあえず準備ができたらあの場所に送るよ」
彼の周辺に怪しい人物がもういないことが、晴己の肉体改造した耳や目で分かった。
ひとまずはそれでいいかもしれない――だが、奥さんをより安全な場所へと、誰にも見られていない形で、なぜかマーシェルは運んだ。晴己は、そこまで? と思ったが、マーシェルは念のためと思っていた。
「さて」
それから、瞬間移動のような力を、彼は使った。
あの、廃ホテルがあったが今はなぜか無い場所へと、晴己は戻ってきた。
残されていた皆がそこにずっといるワケがないと思っていた晴己だったが、そこに、ベージエラ、運転手、ルイ、由絵、ナオはいた。
「戻るならここだと思ってたわ」
ベージエラは自信満々にそう言った。
食事をしていた。即席のカップのものだが。実際一日しか経っておらず、その幾つかで足りたのだった。
「ん?……あ、ああ、これか? 有翼バスには、もしものための非常食があってだな」
天界だからなのか翼のあるバスだからなのか――そういった決まりがあっての事なのか――まあ地上のもそんなに知らないけど――と、晴己は思いつつ、安堵した。
天界は温度がそんなに変わらない、地上人である彼らにはそんな実感があった。晴己の心の内には、彼女達が過ごす夜も快適だったのかも――と、そう思いホッとしたという面もあった。
今や仮面もしていない彼と晴己とが、彼女達へと近寄る。
すると、由絵がまず声を上げた。
「どうだったの。奥さんは……」
「もう大丈夫」とは晴己が。
「済まない。そしてありがとう」
マーシェルがそう言うと、今度はベージエラが、
「さあ質問よ、ここの廃ホテルに入っていったみんなは?」
と、問い掛けた。
マーシェルは目を閉じ――済まない――と念じた。
「分からない。私がやったのではない」
「でもあなたでしょう? 全部」
「全部ではない」
「――?」
晴己の脳内にも疑念が湧き起こった。
「二人をさらったのはあなたよね?」
ベージエラが問い質した。
「ああ」マーシェルは肯いた。
「恵力学園の、赤天石の守護結界を一部壊したのも……あなたよね? 同じ格好だったのを時沢さんが、能力で、過去を見て、私達はそれを知ってるのよ」
マーシェルは、それを受けて答えた。
「それは別人だ。俺に……この方法だと妻を助けられる、と……そう言って俺に人攫いをさせた人物……かもしれない」
「かもしれない?」
「彼も同じ服を着ていただけだ。仮面もな。俺は着けるように言われたんだ、姿を隠したいのならと」
マーシェルの言葉に、嘘はないのか。晴己は気になった。
晴己は今も『を』の紙を持っている。その紙に念じて操った。嘘なら動けと。それはできたと思った晴己だったが、紙は動かなかった。
「誰がそんな」
晴己がそう言った瞬間、大月ナオの口からはありえない、低い声が出た。
「イレギュラーもあったが、お前達も招待しよう。闘技場のパーティへ!」
誰かがその口を借りているのは、誰の目にも耳にも明らかで――
次の瞬間、周りの景色が変わった。
そこは、どこかへ転移した廃ホテルの屋上だった。
そして、辺りはほぼ一面、荒野。気温がさっきと変わらない。寒くも暑くもない、ちょうどいい。ここも天界だと晴己にさえ思えた。
更には、眼前に、大きな四つ角の巨大画面のように、超巨大なテレビ然とした極薄モニターが、空中に浮くように存在していた。
そこに、恵力学園一年五組の面々の姿が映っていた。
交苺官三郎。
阿来ペイリー。
立山太陽。
見状嘉烈。
ジンカー・フレテミス。
速水園彦。
更上磨土。
目淵正則。
花肌キレン。
シャダ・ウンムグォン。
然賀火々末。
温地美仁。
遠見大志。
彼らは血に塗れたり、一部を失くしたりして倒れていた。
「う……嘘だ。嘘だ! なんで! そんな……っ」
晴己が目を潤ませて叫んだ。
この映像は本当なのか、そう疑ったりもした。ただ、そうではなさそうな空気しか、晴己は感じなかった。
そばでは、ナオが膝から崩れ落ち、ルイが表情を歪ませていた。
どこかから、声がした。
「さあ諸君、グレードアップした天獣を相手に、彼らはどこまでやれるかな? 大穴は……海凪麦! 私の目からしてみればとても戦える気がしません! ずっと誰かの後ろにいますよ! どうなることやら! 新しい者では時沢ルイが大穴です! さあどうぞ楽しんでください!」
(楽しんで……って? 何言ってんだ……、何言ってんだこの声の奴!)
耳にした晴己の頭には、これでもかという程の怒りと悲しみが満ちた。