ニ (六)
私はいつものように「ご主人様。朝食が出来上がりました」と言う使用人の声を聞いて読みかけの本を閉じ、階下へ降りていった。
使用人が準備した濃いめの珈琲を一口飲んだ後、テーブルに置かれた新聞を読み始めた。ある記事に目が吸い寄せられた。
森園真一社長が自宅の居間で首をつって死んでいるのが発見されたというものだった。
目を疑ったが、それは明らかに父君のことであった。私は國広会長に引き抜かれてからは一度も父君に会う事はなかった。会うのを避けていたのだ。
しかし突然の死を知った今、私の背後に黒い影の気配がして背筋が凍った。後ろを振り返ると、使用人がベーコンエッグを乗せた皿と茶碗を並べようと私の背後に立っていただけであった。
使用人は郵便受けに手紙を取るため玄関へ向かった。戻ってくると、何やら茶色の封筒を手にしていた。
「故郷のご家族の方からお手紙です」
中の手紙を開くとそれは妹からであった。母上が病で伏せっておいでだから、すぐに帰ってきてほしい、兄さんも休暇を出してもらったから来るとのことであった。手紙が届いて数日したある日、三つ年上の兄から電話があった。
「お前が来れば、お母上はきっとお喜びになる。皆が集まるのは久しぶりだ。自分も会社に休みをもらった。お前も忙しいと思うが、万が一のこともあるのだから、是非帰ってきて、顔を見せてやってくれ」
兄は真剣な口調で私に言い渡した。
兄とは年が近いせいか、幼い時からライバル心を燃やし負けたくないと思ってきた。しかし今では、立場や財力全てが兄を凌ぐほどになったという紛れもない事実と、兄に勝利したという幼稚な優越感があった。
私は目の前に迫っている重要な商談への準備で、下の連中に任せて置けず、仕事が片付き次第すぐに帰ると実家に手紙を出した。
私がそれほどまでに仕事に執着するのには訳があった。会長が私を専務に取り立ててくれたからだ。つまり、いずれ会長が退いた後に國広帝国貿易会社会長の座に着くのは私だということだった。現在私は第二の地位についているものの、少しの気の緩みにより誰かに足元をすくわれ、その座が奪われかねないことを理解していた。私はあの時語った会長の言葉を常に自身の戒めとして日々体現することに努めていた。
『人の心になびいては駄目だという事だ。
真実か偽りかは自分自身で見極めるのだ。
この世界では、誰も信用してはならん。
周りを蹴落としてでも前へ、上へ進む力が必要だ』
今は親子の縁よりも國広会長への絶対服従の姿勢を会長に見せつけて、少しでも将来の好機を確実なものにしたかったのだ。
私は仕事を選び、実家へは帰らなかった。
自宅の椅子にどかっと座った時、急に電話のベルが激しく鳴った。私は電話越しで、兄の静けさの伴う重厚ある声音を聞いた。
「お母上が亡くなった。すぐ来い」
受話器を持つ手がずんと重たく感じられ、その場に立ち尽くした。
使用人に留守中の番を言い残し、すぐに車を手配させ駅に向かった。駅に着くと、ちょうどホームに走り込んできた汽車に飛び乗り、我が故郷に向け出発した。