ニ (五)
失態の日からますます仕事に熱を帯び、仕事への姿勢はもちろんのこと他人への接し方が大きく変わっていった。自分の心を無にして同情や情け、良心といった類のものは、全て心の中から除き去ろうとした。
次第に私の業績は鰻登りに上がり、会長からの信頼も厚くなった。その一方で、仕事をしていない時の私はいかにちっぽけで何にもない男だと強烈に自覚させられた。
だだっ広い自宅に一人ぽつんといる時、ただ、地位と権力に溺れた男の哀れな末路が自分の前途に控えているのではないかという、一抹の不安が頭をよぎるのである。
***
「深瀬さぁーん! こちらにおられましたかぁ! ずいぶん探し回りましたぁ!」
最近入ったばかりの若い受付嬢が汗をにじませ、崩れた化粧を気にしながら走ってきた。私を待っている人がいるとの伝言を伝えに来たようだ。受付嬢は一仕事終えた後の安心した顔になり、そのまま化粧室へ消えていった。
澤田さんは会社近くの川沿いに立っていた。電信柱の灯りに沢山の虫が群がっている。
「どうしたんですか? こんなところで」
「深瀬さん」
「はい?」
「あの人のようになっては駄目よ」
澤田レイは國広会長の細君だと知った。結婚後も旧姓を名乗るのは、身の安全を守るためであった。今や会長は良くも悪くも有名になりすぎた。記者の連中や会長に反感をもつ輩に付け狙われることが多くなったのだ。
「あの人は昔は、ああじゃなかったのよ。もっと人間らしくって、優しい人だったの。……それがいつの間にか、あのようになってしまった……。
あなたは、そうはなってほしくないの。あの人の近くにいては、きっと駄目になるわ。
まだ間に合うわ。あの人から離れて。
……ねぇ、あなたがするべきことは他にあるんじゃないかしら?」
私には彼女の言っていることが分からなかった。
会長のお気に入りとして生きる以外に、自分がすべきこととは一体なんだ?
***
私の不眠症は確実に私の体を蝕んでいた。ある眠れない晩にふと、懐かしい君の言葉が蘇った。
『私、お父様が大好き。
でも、仕事をしているお父様はあまり好きではないわ。
私、地位や権力しか考えていない男の方は嫌いなの。
以前のお父様はもっと明るくて、生き生きしていたのに。
今では酷くお疲れなの。私、とても寂しい』
もし、君が今の私を見たらどう思うだろうか。
きっと、軽蔑するに違いない。
しかし胸中の君の忠告さえ、今の自分を自制させるのに有効な薬とはならなかった。
私は異常の色を帯びていた。自分の業績をいかに他人に知らしめることにだけ注力し、他の人間を我が足元の虫けらの如く見下していたのだから。
***
不気味なほど静かに年月が過ぎ去ってゆき、ついに私は國広帝國貿易会社総会長に次ぐ第二の地位にまで上りつめた。誰も私との交渉に勝つ者はおらず、常に私の思う通りに物事が進み、私は経済界の重要人物に名を連ねるほどの地位と権力を手にしたのだった。
以前住んでいた大きな家から、さらに高級住宅街の一等地に邸宅を拵えた。
全ての男が羨むような頂点に達したと自負していた私は、自分に深く酔いしれていた。けれど國広会長だけは、私が唯一恐れ、かつ絶対的な信頼を寄せる例外的な人物であった。