ニ (四)
会長はあいにく不在であった。私はがっかりした。仕事部屋に戻ろうとした時、白髪の若い女性がすぐ後ろに立っていて、その人は私を見るなり微笑んで、「中でお待ち下さい」と私を社長室に通した。しばらくして、彼女は紅茶を運んできた。
「あなたは、深瀬次郎さんですね」
不思議な女性は、私の名前を知っていた。
「はい、そうですが……。あの、あなたは……?」
「ご存知ないのね……。そうですか。わたくしは、会長の秘書を長らくしている、澤田レイと申します。
会長はただ今第二会議室で、経団連の武田会長と面会中ですので、それが終わったらお戻りになると思います。三時半までですので、もうしばらくかと」
「そうですか。どうも、ありがとうございます」
「本当に、ご存知ないのね、わたくしのこと」
「はい……」
「フフフ」
女性は 揶揄うように笑った。
「あの……」
「ここで、お持ち下さいな」
私はもう少しこの人と話がしてみたく思ったが、彼女はただそっと口元に笑みを残しつつ一礼すると、出ていってしまった。
彼女が出ていって十五分くらい経った後、國広会長がどかどかと床を踏み鳴らして入ってきた。
「いやいや、待たせたかね?
武田会長もまた、大袈裟だから仕方ならんな。今回の件は無かったことにするって言い出した。まあ、これ以上こちらも待てないからな」
「一体どういうことですか?」
今や國広貿易会社は、国からの補助金支給を増額してもらう見返りに、地方の近代開発の推進に協力することを命じられたのだ。
日本帝国は、世界的に見て近代化が遅れ、諸外国から何十年も出遅れた形となっている。近代諸国の貿易を担う我々が、日本経済を牽引していかねばなるまい、ということになったのである。
具体的な施策については、実は上の方もはっきりしたことが決まっていなかった。見切り発車で始動した政策であったため、現場は混乱していた。貿易会社に何を求めるのかと、反対意見も多く難航していた。
「いや、地方の近代開発に異議を唱える輩がいるそうで、それらが妨害となっているらしい。村長らが村人と結託して開発に反対しているそうだ。
ちゃっちゃと、村人を強制移住させて工事を始めてしまえば良いものを。こっちをなめてもらっては困るのだ。貿易会社の生業が汚されては敵わない。早く、本業に戻りたいものだがな」
会長はどっかと革製の大きな椅子にもたれると、一つ咳払いをした。さっきの女性はもうどこかへ消えていた。
「はてさて。君はもう、私の話の虜になったのかね?
話の続きを聞きに来たのだろう?
君?」
「はい、是非お聞かせ頂きたいと存じます」
会長は、「はっはっはっ」と大袈裟に笑うと、語り始めた。
「社長室に呼ばれた時、もう、自分は首になるのだと覚悟した。だから社長室で、満面の笑みを浮かべた社長と善林専務を見た時、何が何だか分からなくなった。
あの不正取引は、無事に成功しただけではなく、今度は伊太利や西班牙など他国でも同様の貿易協定が結ばれることになり、今以上に危険は伴うものの、今後も我が社には多額の利益がもたらされることが決まったのだ。
その計画は、私が綿密に練ったものだった。社長は喜び、私は社長のお気に入りとしてかなりの優遇措置が取られることになった。
あいつとの最後の日、あいつが後悔したことといえば、雲泥の差となった経済格差、地位と特権であるはずだった。
だから私はあいつに少し慰めの言葉をかけてやろうした。そうしたら、なんと言ったと思うか」
私の返答を待っているような、いないような微妙な間があった。
「あいつは、自分は人を信用していないから駄目なんだと言ったんだ。そして、私が羨ましいと言った。
何がそんなに羨ましいのかと問うと、それは自分にはない、人に好かれるところだと言った。
私は別に人を信用していたわけではないし、好かれようとしていた訳ではない。ただ、仕事で自分の立場をより良くするためには、時には上の人間に媚びたり、思ってもいないような常套句を注いで、機嫌をとっているだけだと説明した。
しかし、あいつはなおも、そんな私が立派だと言った」
ここで、会長の声の調子が変わった。
「……私はただ、利己的な男に過ぎなかった。あいつは違って、人にも仕事にも正しさを求めた。
あいつこそ、人を信用しすぎていた。自分の最善を相手に押し付けるきらいがあった。
貿易上の取引において、相手から不利な条件を強いられた時でさえも、物の品質をわざと落としたり、利益の申告を水増しすることも、断固反対していた。当時はどこでも普通に行われていたが。
相手が上司でも構わず、自分の正しさの信念に従って行動していたものだから、しょっちゅう上司や重役たちと言い争っていた。あいつは頭だけは酷く良いから、正論で論破して、周囲を圧倒していたがね。
あいつが会社を去ってからしばらくした後、あいつが新会社を立ち上げたと聞いた。
そしてその会社がどんどん成長していって、私の会社と貿易界の二大政党のような関係になってしまったという訳だ。
私は恐れた……。
あいつがいつの日か私の会社を、いや、私自身を倒す日が来るのではないかとね……」
私は会長の本当の顔を見たような気がしていた。今まで会長を経済界の怪物のように思っていたが、実は会長も一人の人間であるという安堵の気持ちが胸の内に広がった。
会長は私の心境に変化に気が付いたのか、口元の髭がわずかに動いた。目はどっしりと私を見つめていたが、その目にわずかな人間味を感じた。
しかしすぐに、あの冷徹な鋭い目つきに変わったのを認めた。
「君には失望した。私が本当に、あいつを恐れていると思うかね」
私は会長の言葉に、頭が真っ白になった。
「全く愚かな奴だ。話にならん。
……いいか、私があいつを恐れた事はない。
人の心になびいては駄目だという事だ。
真実か偽りかは自分自身で見極めるのだ。
この世界では、誰も信用してはならん。
周りを蹴落としてでも前へ、上へ進む力が必要だ。賢く生きなくては。
君には、その力があるかね?」
私は呆気に取られ、まだ頭が動かなかった。すると、私が人生で一番の失態を犯してしまったのだと気付き、恥ずかしさと恐れと怒りが込み上がってきた。
会長は眉間に皺を寄せ、嫌悪の表情をしたまま、「もう下がれ」と言った。私は会長の視線を避けるように会長室を退いた。