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ニ (三)

 私は父君の会社からは足が遠のき、会長の会社の社員になっていた。私はそこで仕事をすることが生きがいとなり、この上ない喜びとなった。國広会長の大きな支えがあると思うと、何も恐れることはないと信じられた。


 ある昼時、周囲の騒がしい話し声の中に耳を疑う言葉が聞こえてきた。


「森園社長辞任」、「経営悪化のため森園貿易会社倒産」

 

 私は信じがたく思った。


 すると息を荒げて部屋に走り込んできた町田が、会長が私を呼んでいると言うので、私はすぐに会長室に向かった。


 ドアをノックし中に入ると、会長は両手を後ろで組みながら、窓の外を眺めていた。私は両手でドアを静かに閉めた。


「会長、何か御用でしょうか?」


「君は、森園真一を知っているかね」


 会長は、背を向けたままだ。


「はい。存じておりますが……」


「そいつをどう思うかね?」


「……どう思うかと申しましても……」

 

 私は突然の会長の質問に動揺していた。


 会長は何を聞きたがっているのだろう。私がなんと答えることを望んでいるのだろうか。


 普段なら回転の速いこの頭脳が、会長のお気に召す言葉を幾つも並び立てて、会長の機嫌を良くすることが出来るのだが、今日に限って私の頭の働きは鈍かった。最良の言葉を検索するのに、あまりにも時間がかかりすぎた。


 普段ならぬ様子の私に、会長は眉間(みけん)(しわ)を寄せ、不審の目を鋭く向けた。そして、口を切った。


「どうした。何を考えている? 経営手腕についてだよ、君」


「はっ、」


 私は慌てて話し始めた。


「失礼を致しました。先ほど、皆が話していたことを耳にして、少々驚いたものですから。


 森園社長が辞任したとか、倒産したとか話しておりまして。


 会長はよくご存知でありますが、私は森園社長の下で長らく働いておりました。そばで見てきました私の目には、その経営手腕は上々だったように思われます。ですから、このような結果になったというのは、不思議に思われるのです。


 ……しかしながら、この報道が真実だとすれば、私の見解は当てが外れたということになりましょう。


 この経済界を先導していく将来性のある総取締役には、やはり國広会長の他にはいないということになるでしょう。このことは、私が心から信じておるところであります」


 私が息継ぎもそこそこに話し終えると、会長は深いため息を漏らした。


「そうか……」


 そしてゆっくりとかつ慎重に言葉を選ぶようにして語り始めた。


「あいつは、君の見立て通りに、確かに素晴らしい経営者だった。


 あいつと私は同じ時期に、とある貿易会社に入った。小さな港町にある、それは小さな会社だった。あいつは仕事を覚えるのが誰よりも早くて、かつその仕事は全て抜け目なく丁寧だった。頭の回転が早くて、先輩よりも先に良い案が浮かんで発言するから、同期ばかりじゃなく、上司にも煙たがられる存在になってしまった。


 あいつには、他人にうまく取り入ろうという技能がなかったからだ。才能があるのに、それを賢い仕方で発揮できないあいつを、心から心配して、もっと目上には(こび)を売れとか、味方になってくれそうな人間を見つけて調子を合わせておけとか言ったものだがな。


 あいつは、全く聞く耳を持たなかった。独りよがりなことをいつも言っていた。


『正しいことを正しいと、間違っていることを間違っていると言えない世の中が、果たして、生産性のある経済力のある強い国家を作り上げることが出来るか』


『ひとたび汚物でまみれた社会を作り上げてしまった(あかつき)には、後には衰退しか道は残されていないのだ』と。


 私にはあいつの言っていることがよく分からなかった。ただ今の会社で成功し、出世し、会社を大きくしていくことだけを考えていればいいのだ、国家や社会など関係ないと言った。


 だがあいつは全く変わらず、ついに、首になった。そうなるのは当然だと思い、心の中で(ひそ)かにほくそ笑んだ。


 私はあいつにそんな気持ちを悟らせまいとして、あいつが出ていく最後の日、部屋の片付けを手伝った。


 つくつくぼうしが夏の終わりを嘆くかのような、残暑の厳しい日だった。朝から部屋の片付けをして、荷物を詰めたトランクケースが四個分出来た時には、日が傾きかけていた。


 あいつは(から)になった本棚から、ゆっくり窓の方へ近づいた。遠くの山に落ちかけた夕日を見ているようだった。トランクを壁際に寄せた私は、立ち上がって窓辺に並んだ。


 窓に差し込んだ夕日は、あいつの灰色がかった青い目を一層きらきらとさせた。横顔は男の目から見ても、非常に綺麗だった。


 私はしばらく、あいつが見つめる先を一緒に見ていると突然、あいつは私の瞳の奥を(とら)えた。


 その目は優しさと共に厳しさを備えた眼差しであった。


 私は咄嗟(とっさ)に顔を背けた。


『なぜ、顔を背ける』


 まだ、あいつの目は私を捕らえて離そうとはしない。


 やっと、あいつは正面を向いた。


 私は横目で恐る恐るあいつの横顔を視界に入れた。


 その時、頬に一筋の輝く涙が流れたのを認めた。そして、笑いながらこう(つぶや)いた。


『なんと美しいのだろう。こんなに夕日が綺麗だったなんて、忘れていたよ』


『そうだな、綺麗だな』


『俺はなんて愚かだったのだろう。もっと、早く気が付けば良かったんだ。そうすれば、こんなことにならなくて済んだのだ』


 私は、あいつの言葉の真意を十分に把握していなかった。私の言うことを聞いていれば、首にならずに済んだと後悔しているのだと考えて、こう言った。


『だから、あの時忠告しただろ。俺の忠告を聞いていれば、今頃は俺と同じくらいに役職がもらえて、もっと良い仕事が舞い込んできたし、部下だってたくさん持てただろうに。

 

 後悔したって、もう遅いのだ。あの時、善林(ぜんばやし)専務が俺たちに持ちかけた話に、君も協力していたら、今頃その恩恵に君もあずかれただろうに』


 あの晩、仕事終わりに善林専務は少し話がしたいからと言って、私たち二人と別のもう二人を酒場へ連れていった。


 英吉利の複数のお屋敷が売り払われ、数々の家財道具がオークションにかけられるという。かなり高価な品々で、買い取りがなされれば、多額の利益が見込めるのだ。しかし、品に見合う値段で買い上げては通常の利益にしかならないから、ほとんどあり得ないほどの安価で買い取り、上限ぎりぎりの高額値で売りつけなくてはならない。これは貿易協定に違反しており、危険が伴うことらしかった。


 私はその具体的な方法について専務に尋ねたが、お前たちは知らなくて良いとの一点張りで、何も教えてはくれなかった。ただ、立花(たちばな)社長がその裏で庇護(ひご)しているから、お前たちは私の指示通り動いてくれれば良いと言った。


 不正な書類を複製し、国家間の貿易上における大罪を犯すことは目に見えていた。が、協力したら社長から莫大な褒美(ほうび)が貰えると、専務は俺たちに言った。あいつを除く他の二人は賛成し、私も加わるつもりだった。


 しかし、あいつはただ何も言わずに席を立って出ていってしまった。専務はあいつを追いかけて行ったが、また戻ってきた時、頭を抱えて悩んでいた。


 専務は、誰よりもあいつに協力して欲しかったのだ。


 専務は急に弱気になって、計画を断念するかもしれんと言うので、私は何とかこの話を進めませたかったから、自分なら成功させられると話した。


 そして事は確かに成功した。


 社長は喜んで、


『これは公になることはないから、安心しろ。しかし、くれぐれも内密に。密告した者は如何(いか)なる処罰も免れぬ』と言った。


 私たちは専務に次ぐ地位が与えられ、給料は今までとは比べ物にならないほどに上がった。


 私は非常に喜んだ。あいつじゃなくて、私の力で成し遂げたのだと。

 

 しばらくして、一緒に協力した前田が顔面蒼白になりながら、私に耳打ちした。


『大変なことになったぞ。國広。すぐに社長室に来い』


 私はすぐに悟った。あれが、ばれたのだと。私は前田と西山と共に社長室に飛んでいった。……」



「トントントン」


 突然、社長室のドアを軽快に叩く音が聞こえた。この興味をそそる話を頓挫(とんざ)されて、むかっ腹が立った私は、その迷惑極まりない邪魔者を(にら)みつけてやろうと思った。


 しかし、部屋に入ってきたのは、着物をまとった若くて美しい女性だったので、私は戦意喪失(せんいそうしつ)した。


 女性は確かに美しかったが、どこかこの場に不似合いな印象を受けた。腰まで届く長い髪と、端正な顔は雪のように白かった。


 その人は私に優しくはにかみながら、会釈してそのまま会長のそばに近寄った。そして、なにやら耳元でささやいた。会長はふんふんと聞くと、大きく頷いた。女性はまた、ドアへ向かって歩いて私とすれ違う瞬間、微笑(ほほえ)んだ。


「話の続きは今度だ。今度のプロジェクトもきっと成功させるように。分かったかね? 君?」


 会長はそう言って、飲みかけのマルセイユ製のティーカップを机にそっと置き、私のそばを通って出ていってしまった。


 横切った時の会長の不敵な笑みはその後もずっと、私の記憶の中に留まることとなった。


***


 会長の話し方が真に迫るものだったので、これが作り話などではないはずである。会長が若かりし頃、どんな重大なことに関わっていたのか、その後どうなったのか知りたいという耐え難い欲求が私を寝付かせなかった。


 私は早く会長に話の結末を聞きたい一心で、早速次の日には会長室のドアをノックしていた。

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