二(二)
英吉利へは留学の時に訪れたことがあったが、今回のは訳が違った。留学の時は、英国人の風貌、街並み、店に並んでいる見たこともないような不思議な品物などに、二十二の高ぶりやすい好奇心はくすぐられて気持ちが明るく高揚した。
しかし、國広会長と共にするこの旅路は、私にとって決して失態は許されない、重々しいものであった。
会議場は、格式高い有名な某ホテルの最上階にあり、部屋は約三百人を収容できるほどの広さがあった。天井には、大きなシャンデリアが幾つも備えられていた。長机が、大きな長方形を描くように繋げられ、一つの机に四人が掛けられるように木製の椅子が置かれた。さらにその外側に、長椅子がまた大きな長方形を描くように並べられ、上から見下ろすと「コ」の字に見える。
私たちが到着してしばらくすると、各国の貿易会社の社長やら重役やらが、ぞろぞろと中に入ってきた。彼らは私たちを見ると、互いに何やらこそこそと話し始めて、私を見るなり、にやりと笑った。その笑みが、日本人を馬鹿にしたように見えて私は不愉快になった。
皆が席に着き、隣の者とおしゃべりをし始めると、会場全体は騒々しい音で、耳がつんざくようだった。
しばらくすると、奥の重厚なドアからゆっくりと人が入ってきた。山羊のような、白くてか細い髭を生やした痩せた老人だった。革靴の音を響かせながら、ゆっくりとした足取りで登壇した。先ほどまで、がやがやうるさかった会場がしんと静まり返ったかと思うと、皆が勢いよく起立し、その老人が前列中央の席の前に立つまで拍手は鳴り止まなかった。私はふと國広会長を見たが、会長は当たり前のように、他の者と同時に一連の儀式を行った。
後で会長から教えてもらった話なのだが、その老人(議長)はかつて、世界の経済界を一手に統御し、強国だったある国を一晩のうちに経済面から滅亡させたとの噂が持ち上がるほど、恐れられていた。あの風貌からは全く想像もしないだろう。
議長が恭しく皆に挨拶した。眼鏡を掛けた背の高い男が脇に立ち、背後の黒板に書かれた議題を読んだ。その後、長くかつ酷く眠くなるような討論が続いた。
うつらうつらしかけた時、國広会長が突然口を開いたので、私は一気に目が冴えた。会場の緩んだ空気が、ひょいと寒くなるような妙な感じがした。
國広会長の演説は、次第に熱を帯び、会長の頭上から煙が立ち上りそうに思えるくらいに、語気が強まった。現に、会長は机を両手でがっしり掴み震えていた。目の前の長机ががたがた鳴った。私は鳥肌が立った。馬鹿にしたような態度をとっていた外国人たちも、会長の熱量に圧倒されたようであった。
会長は最後の方で、突然私に起立するように命じた。私は訳が分からず、会長に助けを求めるような目でじっと見たが、会長は容赦しなかった。ゆっくりと大きな瞬きを私に返しただけであった。
私は、その場に立ち上がった。
会場中の鋭い視線が一気に注がれた。
体中からどっと汗が吹き出したが、その代わり手足が氷のように冷たくなって、その場で固まってしまった。
会長は流暢かつ、どっしりとした口調で私を皆に紹介した。紹介が終わると、私はすかさず深々と頭を下げ、へたへたと椅子に倒れ込んだ。まるで生きた心地がしなかった。会長が後を引き継いで最後を締めくくると、出席者一同が立ち上がり、称賛の拍手が起こった。割れんばかりの音が、会場全体に響き渡った。
会議が終了し、会長は私の肩に手を置くと渋い葉巻の煙とともに、重いドアの向こうへ消えていった。私が慌てて後を追いかけると、会長は廊下の奥で議長と何やら話をしていた。私に気付き手招きした。おずおずと近づくと、会長は私の肩をがっしと掴んで話の輪に引き入れ、各国の代表者たちに紹介し始めた。
日本に着いてからというもの、私の人生が大きく変わってしまったと言わざるを得ない。私は新たに専務の補佐役として任命され、日々仕事に邁進するようになった。
自然を愛慕する温かい気持ちや、君の死の真相を突き止めると言う重要な任務などは、遠い過去のようになってしまった。
もう、君は死んだんだ。
ただ、そういう現実を受け止め、前に進むしかなかった。
國広会長は、私の仕事ぶりを大仰に褒めちぎり、周囲も私に信頼を寄せ、羨望の眼差しを向けるようになった。