7話 優しさに触れる
何かについて深く知るためには、知識をつけるだけでは不十分だ。実際に自分の目で見て、触れて、確かめることが重要である。
そのため、ジルはベルトルトや使用人たちと積極的に交流することにした。彼等が何をしているのか、じっくり観察しようとも思っている。
小鳥のさえずりが遠くから届く寝室の中で、ジルはパンをちぎる手を止めた。
今は朝食を始めたばかりである。
外がカリッとするまで焼かれた熱々のライ麦パンに、林檎や葡萄などの新鮮なフルーツ、シナモンが香るホットミルク。ベッドの上で食事をするなど、子どもの頃に風邪をひいた時以来だ。もちろん、ここで食事をとっている理由は体調不良ではない。なんとも贅沢で、自堕落な体験である。
「そういえば、」
ジルは気恥ずかしそうに頬を染めた。ソフィアが柔らかな微笑みを携えて、言葉の先を待っている。
「その、ベルトルト様、は、朝食をとらない方なの?」
彼のことをどう呼んでいいのかわからず、ひとまずソフィア達と同じように様をつける。
昨日と変わらず、この部屋にはジルとソフィアしかいなかった。
「眠るときだって、ここは二人の寝室だと聞いていたのに、彼はいつも外に出て行くし……」
特別な理由でもあるのかと思い、尋ねてみる。ぽかんとしていたソフィアは、微笑ましそうに「ふふ、」と笑った。
「ジル様が安心して過ごせるよう、できる限り離れていると仰られていましたよ」
「このお屋敷の主人は彼なのに、気を使い過ぎじゃないかしら? もちろん、(恐怖が吹っ切れた訳ではないから)ありがたいけれど」
「大切な花嫁ですもの。気を使うに決まっていますわ」
「ソフィア夫人は、彼が私を花嫁に選んだ理由を知っているの?」
大切という表現。それは、彼自身が言ったのだろうか。本当は彼に直接尋ねればいいのだが、連れ去った本人でもあるため、どこか聞く気になれないのだ。
ジルに見つめられたソフィアは、すみれのように可憐な瞳を細めた。
「わたくしの口からは話せませんわ。でも、ぼっちゃ、ベルトルト様は、確かにジル様のことを大切に思っていますよ」
「そう……」
わざわざ狼人間に連れ去られたジルを助けに来たのだから、そうなのかもしれない。
だが、どういう意味で大切なのだろうか。例えば、奴隷商人は「大切な商品」と発言することがある。最近は彼らを見ることは少なくなったが。
「最初の質問といい、もしかして、ベルトルト様のことを気にされているのですか?」
「す、少しだけよ。命を助けてもらったし、何故か結婚するとか言われたもの」
生暖かい視線と言葉に耐えきれず、ジルは彼女から視線を逸らした。誤魔化すように手に取ったスプーンで、ポタージュスープを掬う。
ふと、スプーンに触れている指先がじんわりと温かいことに気付いた。そういえば、カップの取っ手も空気の冷たさを感じなかった気がする。
「ねぇ、もしかして、スプーンを温めてくれたの?」
「パウル家の使用人として当然ですわ」
「そうではなくて、私とあなた達の体温は恐らく違うでしょう? わざわざ高い温度で温めてくれたのかな、と思ったの」
気のせいだろうか。だとすれば恥ずかしいのだが。
そんなジルの不安とは反対に、ソフィアは二、三度、瞬きをしたあと微笑んだ。
「よくお気づきになられましたね。熱くはありませんか?」
「ちょうどいい温かさだわ。その、ありがとう」
あれだけ忌避してきた相手なのだ。気まずさと照れ臭さから、言葉の最後にはまたソフィアから目を逸らすこととなった。
しかし、ソフィアは嬉しかったようで。彼女は歌うような声色で「はい」と応えた。
食事と身支度を終え、ジルは屋敷内を歩き回ることにした。
誰かの手を借りながら着替えるということは初めてで、ただ両腕を上げているだけで姿が変わっていく様子を見ていると、不思議な気分になったものだ。人形になったような感覚である。
鏡に映る自分の姿を凝視したのも久しぶりだった。緊張していた割には眠れたようで、クマはなく。滑稽なほど顔を強張らせた自分が、カカシのように立っていた。
ジルはレースたっぷりの白いスカートを揺らしながら、紅いカーペットの上を歩いていく。
ブラウスも、ガーターも、靴も白いときた。仕上がりを見た時は驚いたものだ。ご丁寧なことに、レッグホルスターまで白のレースとリボンで作られている。武器を所持していたことは彼にはお見通し、というわけだ。
使用人たちの服装は、至って普通のメイド服や執事服のため、コントラストの差がありすぎる。大目立ちだ。
かわいらしいデザインも、華美な服装も、幼い頃ぶりなので落ち着かない。
ジルの心境を察してか、隣を歩くソフィアがクスリと笑みをこぼした。
「お似合いですよ」
察してはいないらしい。実に微笑ましい笑みである。
「私だけ真っ白で落ち着かないわ。結婚式じゃないんだから」
「『彼女は白が似合うから』とのことですよ。本当にお美しいですわ。天使のようです」
「天使なんかじゃないわ。……ありがとう」
すっかり両手で顔を覆ってしまったジルを前に、ソフィアがもう一度笑みをこぼした。
彼女は、ジルが対吸血鬼組織の長の娘で、今まで吸血鬼を殺すために生きてきたことを知らないのだろう。だとしても、屈託のない表現で天使などと言うとは、かなりお人好しのように思える。お世辞だとしても、これほど自然には言えないだろう。
「それにしても、みんな忙しそうね」
「普段の仕事に加え、夜会の準備もありますから。それに、ただの夜会ではなく結婚発表の舞台ですもの」
「普段は使っていないグラスもピッカピカですよ!」
「きゃっ!」
突如、隣からメイドが飛び出してきた。
どうやら食堂の前を通っていたらしく、中では他の使用人たちが大量のグラスや食器を黙々と磨いている。
現れたメイドは顔つきが幼く、「あっ!」とまんまるな目を見開いた後、激しい風を起こして頭を下げた。
「驚かせてしまい申し訳ございません!」
「いいのよ。それにしても、綺麗なグラスね」
頭を上げさせると、メイドは空元気な笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。あっ、中をご覧になりますか?」
「いいの?」
「もちろんですよ! いいですよね、コック長」
メイドが食堂の中へと頭を向ける。
程なくして、身長の高い、腕っ節の良さそうな、コック服に身を包んだ紳士が現れた。
眉と目の距離は近く、一文字の眉毛が冷たくも凛々しい印象を与えている。彼の瞳もまた、紅ではなく、ソフィアと同じく紫色であった。彼女より色味がやや薄いかもしれない。
丸々としたボディーが可愛らしいおじいちゃんを勝手にイメージしていたため、少し驚きである。唯一当たったのは、髪が白いということくらいだ。
彼は遥かに高い位置からジルを見下ろしている。
「あっ」
あまりの威圧感にジルが怯んだその時、表現一つ崩さずに、コック長が言った。
そして、ジルの前に膝を抱えてしゃがみ込む。
ジルはすっかり低くなった彼の顔を見つめて、目をパチクリとさせた。
「……申し訳ございません。怖がらせてしまいました」
不機嫌そうにも感じられる低いテノール。
彼はついに目まで閉じた。ソフィアがこれ以上は耐えられないとばかりに吹き出す。
「彼ね、見た目は恐ろしいけれど、本当はとても優しいの。今日だって、ジル様が何を食べたら喜ぶか、寝ずに考えていたのですよ」
「そうなんですか?」
「……はい」
彼は目を瞑ったまま頭をかいた。
「とっても美味しかったわ。ご馳走様でした。食器も温めてくださって、そのお心遣いが嬉しかったです」
そう伝えれば、ほんの少し、本当に少しだけ、彼の口角が上がった気がした。
◇◇◇
このあと、色々と屋敷を回ってわかったが、ここでの吸血鬼たちの生活は人間(の貴族)のものとあまり違いがないらしい。
仕事中に雑談して怒られたり、休憩中に愚痴や趣味の話をしたり。きれい好きや、掃除・整理整頓が得意な人がいれば、掃除が苦手な人もいる。
「生きているのだから当たり前のことなのに、あなた達の生活をまったく想像しないでいたのね、私。それがわかってよかったわ」
「……そうか」
日が落ちて、ようやく部屋に戻ってきたジルは、様子を見に現れたというベルトルトを椅子に座らせ、今日見たことをザックリと話していた。
最初、ベルトルトは何故かそわそわしていたが、今はジルの話にじっと耳を傾けてくれている。
「だから、もっと知りたいの」
ジルはグッと両拳を握った。しかし、すぐに肩を落とす。
「でも、いくら図書室を探しても、歴史書と家系図しか見つからなかったの。これだけ広いお屋敷なのに、吸血鬼用の医学書すらなかったわ。生態について書かれたものはないの?」
「……すまないが、ない」
「そう……」
当主である彼が言うのだから、本当にないのだろう。もしくは、何か不都合な情報が載っていて、屋敷のどこかに隠しているか。
正直に認めると、ジルは彼等を信頼し始めていた。少なくとも、この屋敷に住む吸血鬼たちは。
だからこそ、彼が隠し事をしているとは思いたくないものである。禁じられた扉の先は気になるが。
(あの奥には、何があるのかしら)
ジルは悩まし気に息を落とした。
紅茶から漂う薔薇の香りがすっと鼻から入り、消えていく。その時、図書室で見た歴史書の内容が浮かんだ。
「そういえば、吸血鬼にも貴族のような存在がいるのね。パウル家もそうなんでしょう?」
「ああ、そうだ。人間ほど細かく分かれてはいないが、階級のようなものや、領地もある」
「へぇ〜。王様はいるの?」
ベルトルトの瞳にほんの一瞬、陰りが見えた。しかし、すぐさま閉じられる。
「……似たようなものなら。いないと思っておいた方がいい」
「ふぅん、わかったわ」
踏み込みすぎるのはよくないので、階級について尋ねるのはここまでにしておく。
「あっ! 領地があるってことは、領民もいるの? 窓から見る限り、他の家は見つからなかったけれど」
「森の奥を抜けたずっと先に、パウル家が統治している町がある」
「やっぱり!」
ジルは目を輝かせて前に乗り出した。ベルトルトの端正な顔に、ほんの少し力が入る。
「町に行ってみたいわ!」
「それは……」
「もちろん、ソフィアも連れて行くわ。もっともっと、あなた達のことを知りたいの」
ベルトルトの眉間にぐっと皺が寄った。
少しして、キツく結ばれた口から嘆息が洩らされる。
「……わかった」
仕方がないとでも言うように、彼は眉を下げて微笑んだ。
「本当に、あなたには敵わないな」
苦笑混じりに呟くベルトルト。
その意味を尋ねるも、明日の話を引き合いにして、誤魔化されてしまったのだった。