6話 知らない世界に気付けば・下
オートミールとホットミルクを胃に入れて。改めて二人っきりになり、ジルは再度、狼人間と吸血鬼の関係について尋ねていた。まだ引っかかるところがあるのだ。
「そういえば、誘拐の理由はやっぱり見当がつかないの? 領地以外の理由があるとしたら……当主である貴方を誘き出して、殺害しようとしたとか?」
「そうかもしれない。縄張りが関係していない争いも起こっているから」
先を求めるように首を傾げる。
「……平たく言うと、彼等とは気が合わない。互いのすべてが気に触るんだ」
「本能レベルで合わない、という感じ?」
「うん、そう」
「敵が多いのね」
同じ小競り合いでも、人間対人間より、吸血鬼対狼人間の方が激しそうだ。もちろん、人間対吸血鬼よりも。
ジルは背後に積まれた枕へと背中を預けた。初日には気付かなかったが、今まで体験したとがない程にふわふわである。
「吸血鬼にも敵はいる。こちらとしては争いたくないが」
「派閥争いとか?」
「そう」
ベルトルトが三つ指を立てた。
「吸血鬼は大きく、穏健派、中立派、過激派の三つに分けることができる。穏健派は、人間と友好関係を結びたいと考えている」
「……そんな派閥があるのね」
「信じられないだろう」
「いいえ、信じるわ」
どこか自嘲気味に尋ねたベルトルトに、ジルは再びハッキリとした口調で返した。「完全に」とはいかないが、嘘だと否定するには早いだろう。
「初めて知ったから、少し驚いたけどね。続きを聞かせて」
「……わかった」
ベルトルトはほんの少し戸惑いの色を見せて、視線を僅かに下へ揺らした。言葉を選んでいるのだろうか。
「……過激派は、人間に危害を加えている。この派閥はさらに細かく分類できるが、どれも危険なことに変わりはない」
予想通りの内容に、ジルの胸が締め付けられた。ベルトルトに助けられる前に、毎日、毎時間と感じていた憎しみが湧き上がってくる。
(でも、いいえ、むしろ落ち着くのよ)
もし、彼の言うことが本当ならば。恨むべきは、倒すべきは、過激派に違いない。その中に、初恋の相手もいるだろう。
怒りに震える胸を、深呼吸によって無理やり落ち着かせる。
すると、ベルトルトの手が、固く握られたジルの拳へと伸びた。しかし、ほんの少し近付いただけで遠のいてしまう。
開いたジルの手の代わりに閉じられたのは、彼の手だった。
「ここへ連れてきてしまった以上、あなたのことは、何がなんでも、命に代えても、守ってみせる。……けれど、夜会を無事に終わらせるまでは、できる限り人間だということは口外しないでほしい。何があるかわからないから」
「わかったわ」
ただならぬ雰囲気を纏う彼に、ジルは喉をごくりと鳴らして頷いた。
「あなたはそう気張らなくていい。この城で、ただ自由に、気の赴くままに過ごしていて」
「それだけでいいの?」
「ああ」
ジルは訝しげに眉を顰めた。ベルトルトは曇りのない表情をしている。
「少しでも気がかりなことや質問があれば、いつでも俺を呼んで。俺が嫌なら、ソフィア夫人かコック長に尋ねればいい。この二人にだけは、あなたの正体を話してある。二人は使用人の中で最も長い時を生きているから、きっと、様々な形で役に立つ。食の好みも細かく伝えてくれればいい」
「手厚いのね」
「そんなことはない。むしろ、窮屈な思いをさせてすまない」
(また謝られた)
謝るくらいなら、連れ去らずに見捨てればよかったのに。
ますます、自分が連れてこられた理由が謎である。食糧とするには、手厚すぎる。花嫁にする必要もないだろう。
(とにかく、何をするにも、吸血鬼について色々と調べてからね)
「謝らないで。ね?」
そう伝えるも、彼は悲しげに眉を寄せている。
「疲れているだろうから、話はここまでにしよう。おやすみ」
今日も彼は、別の部屋で眠るらしい。もちろん、ジルとしては有難い限りだ。しかし、罪悪感がゼロというわけではない。
「わかったわ。……おやす――どうしたの?」
ジルはせめて夜の挨拶でもしようかと、迷いながらも口を開いた。しかし、帰り支度を始めた彼が動きを止めたことに気付き、理由を尋ねてみることに。
彼は何かを睨むように、眉間に皺を寄せ、目をぐっと開いていた。
ふと、ジルの腕が掴まれる。
「この怪我はいつ」
捕まえられた際に解けてしまったのだろう。ぐるぐる巻にされていたはずの指先からは、傷口がすっかり露わになっていた。少し抉れてしまっているが、痛みはほとんどない。
「今日よ。薔薇のトゲに触れてしまっただけだから、大丈……ぶ」
ジルの息が、心臓が大きく鳴ると共に止まった。
傷口からベルトルトの唇がそっと離される。
「……すまない。いい夢を」
そう言い残し、彼は寝室から去ってしまった。
何が起こったのか理解が間に合わず、ジルはただひたすら口を開けたままでいた。
(血は、吸われていない。ただ、唇が触れただけ。だけ……だけ?)
だけ、などと評していいものなのか。ジルは頭を抱えて唸った。
ほんの一瞬のことだったが、傷口に唇を寄せた彼の姿は妙に艶かしく、危険な美しさを醸し出していた気がする。
彼に触れられることを嫌がっても、恐怖してもおかしくないはずなのに、不快感なんてものはなく。ただ固まるだけで、受け入れてしまっていた。
(これは……色々と気をつけないといけないかも)
やけに熱くなった額に手を当てる。
その指先には、傷はもう残されていなかった。