5話 知らない世界に気付けば・上
部屋に戻ったジルは、湯浴みをし、寝室にて少し早い夕食をとることとなった。
身体に負担が少ないものを、ということで出されたスープを飲み干し、今は狼人間についてベルトルトに尋ねているところである。
ベルトルトは消えかかっていた蝋燭に火を灯し、鮮やかな海色の瞳に、赤い光を揺らめかせた。
「古来、吸血鬼と狼人間は縄張り争いを行なってきた。森への人間の進出や、照明器具の発明、終わりのない戦いに対する疲労などから、少しずつ落ち着いてきているとはいえ、吸血鬼の時間感覚からすれば、かなりの頻度で小競り合いが行われている」
ベルトルトの指先がツゥ、と蝋燭の煙を乱し、切り分けた。登る煙が狼のような形にぼんやりと固まり、消えていく。
その様を眺めながら、ジルは口を開いた。
「もしかして、私が襲われたのは、花嫁を人質にして領地を強請るため?」
「花嫁だと言われたのか?」
「ええ。彼等の話によると、この周辺の吸血鬼の間に噂が広まっているらしいわ」
「……なるほど」
ベルトルトは指先で顎に触れ、冷めた瞳を床へと向ける。
彼の長い指は人間よりも鋭く、狼人間よりも繊細な手つきをしていた。
そして、死人よりも白い。……死人というものは、本来、白くはないのだが。これは例えである。
「理由があなたの言う通りなのかはわからない。けれど……俺たちの存在が怖いことは承知しているが、単独行動は控えてほしい」
「わかったわ」
どこか苦しげで遠慮がちな彼に、ジルは迷いなく答えた。
捨てられた子犬が拾われた時のような、困惑と嬉しさを滲ませた瞳でこちらを見つめてくる。
「……ここに、いてくれるのか?」
心底意外と言いたげな表情の彼に、ジルは唇を尖らせた。
「不思議なことを言うのね。私をここへさら、連れてきたのは、あなたでしょう」
どうして攫ったのか、と尋ねかけ、一呼吸置いて柔らかな表現に変換する。攫った張本人に驚かれる理由がわからない。
「君は、俺のことが……吸血鬼のことが、嫌いなのだろう?」
「えぇ、そうね。そうだったわね」
「そうだった?」
ベルトルトはこてん、と、頭を小さく傾げた。その表情には不安の色が残されている。
ジルが吸血鬼を恨んでいること。それを彼が知っていたことは、自身へ一方的な求婚をし、ここへ置いている理由の謎を深めた。
しかし、その理由を知るのは、まだ先でいい。
ジルはベルトルトへと向き直した。
初めて真っ直ぐに捉えた彼の瞳は、恐ろしく、悲しいほどに美しい青色をしている。宝石のように煌めいていて、硝子玉のように透明で、青空のように澄んでいて、海よりも深い。幻想的な瞳。
感じるはずがない懐かしさを胸の奥に隠して、ジルは深呼吸をした。
「助けてくれてありがとう。私、あなた達のことをもっと知りたい」
まだ気を許した訳ではない。しかし、彼等を敵だと恨んでいいものなのか、今までの自分に揺らぎが生じているのだ。
夜会まで時間の猶予はある。
それまでに彼らを見定めたい。彼等が信頼に値する人物なのかを。
自分が連れ去られた理由、花嫁に選ばれた理由も。
ベルトルトはしばらくの間何も言わず、表情も崩さず、ただ静かにジルを見つめていた。
不審に思ったジルは、覗き込むように彼の顔を見上げる。
「どうしたの?」
「……いや、その――」
小さくはっと口を動かした彼は、しどろもどろに言葉を紡ごうとした。しかし、視線が逸らされ、扉へと向けられる。
「何が、きゃっ」
ジルも釣られて顔を向けると、扉の狭い狭い隙間から、何者かの目がキラッと光った。目があった途端に奥へ引っ込んでしまう。
次の瞬間に聞こえてきたのは、「あっ」という小さな叫び声と、扉にぶつかる大きな音。それこそあっという間に、ジルの前へ使用人達が転がり出てきた。広間で見た使用人たちと比べ、やや年齢が低いように見える。種族を考えれば、実際はジルより歳上なのだろう。しかし、見た目だけならば同い年に見える。人によってはジルより下に見えた。
ふと、ベルトルトの深いため息が落とされる。怒りではなく、呆れのため息だ。
「……彼女がここに慣れるまでは、できる限り姿を現さないようにと言っていたはずだが」
「心配で心配で、つい」
「ベルトルト様の大切な方は、私共にとっても大切な方ですから!」
「スープだけで足りましたか? オートミール、白湯、ホットミルク、何でもご用意致しますので、是非ともお申し付けください!」
「湯たんぽもできております!」
「毛布はいかがですか!?」
「えぇと、」
ふと、呆気に取られているジルの前に、ベルトルトの腕がさっと上がった。
「彼女を困らせるな」
「あっ! すみません!」
なんと息がピッタリなのだろう。使用人たちは一斉に頭を下げた。
「ふふっ」
活発で、心温かな彼らの会話が微笑ましく感じられて、ジルは思わず笑みをこぼした。自分でも驚きながら、顔を上げる。
すると、目を僅かばかり見開いていたベルトルトがこちらを見ていた。ほんの少し間を開けて、遠慮がちにふわりと微笑む。
「ど、どうしたの?」
不覚にもドキリとしてしまったジルは、言葉を詰まらせながら尋ねる。
ベルトルトは頭を振り、すぐに表情を引き締めてしまった。
「……いえ。それより、彼等が言っているように、何か欲しいものは?」
「湯浴みもしたし、スープは飲めたし、何も――」
なかったはずなのだが、ジルのお腹がまたもや音を立てた。
よくよく考えてみれば、今日の食事は先ほど食べたスープのみだ。
恥ずかしさのあまり顔を覆うジル。その指の隙間から、ほんの少し頬を綻ばせたベルトルトの姿が垣間見えたのだった。