2話 隠し隠され・下
「目覚めたばかりで申し訳ないが、眠りにつく前に、あなたに屋敷内を案内したい」
「……そう」
薄暗い廊下を歩きながら、ジルは青年から一定の距離を開けつつ歩いていた。
(この感じだと、人違いではなさそうね)
だとしても、結婚する気はないが。
ジルはひとまず屋敷を見て回り、内部構造や侵入経路などを頭に叩き込むことにした。そして、夜会の前に逃げ出し、仲間たちを呼んで、城に集まった吸血鬼たちを袋叩きにするのだ。
弱点も見つけたいと思っている。数時間前に吸血鬼二人を倒せなかったことが、気がかりなのだから、なおさらだ。
吸血鬼たちは鏡に映らず、日光に弱く、十字架が苦手、聖水も苦手。銀製品はさらに弱点となり、銀の銃弾で心臓を撃ち抜けば死ぬ。もしくは、昼間のうちに、胸に木の杭を打ち込むか。
そう教えられてきたのだが、今となってはどれも怪しい。
(今だって、窓に姿が映っているもの。小物の中には、銀製品に見える物が少ないけれどあるわ)
とにかく、袋叩き計画のためには、彼らを刺激してはいけない。
(果たして、私に聞き出せるのかしら)
こうして後ろを歩くだけでも、おぞましくて仕方がないのに。
それにしても、蠟燭の灯はこれほど不気味なものだっただろうか。ゆらゆらと揺れる姿がやけに恐ろしく感じられる。
「庭はまた明日、ソフィア夫人に教えてもらえばいいだろう」
「わかったわ」
声の震えを我慢しているジルを前に、彼の一方的な屋敷ツアーは続く。
数えるのが億劫になるほど多い客室、来客用・主人用・夫人用・子ども用など目的ごとに用意された浴室、中流階級の持つ一軒家並みの広さを誇る、かび臭い図書室。一階は、何故か中を見せてもらえなかったキッチンと、マンモス校顔負けの大食堂が半分も占めていた。
他にも、屋敷を機能させる上で必要な部屋が淡々と説明されていく。
(使用人に任せないということは、私の逃亡を警戒しているのかも)
時折、彼の足音が小さくなるのだ。注意を払っていないとわからないほど微かな差である。
予想ではあるが、ジルの足音を確認しているのだろう。
(ほら、また、足音がーー)
止まった。
青年にぶつからないよう、ジルは足を止めて顔を上げる。次いで、彼の視線を追った。
錠前もかけられていない、木板も打ち付けられていない、何の変哲もない部屋の扉が、ただの壁にひっそりと佇んでいた。
その隣に、先ほどから何度も見てきた、これまた普通の棚が置かれている。値が張りそうではあるが。
今までと変わらないただの背景を見つめる彼に、ジルは一抹の不安を感じた。
しかし、彼が一歩扉の前に出たことで、慌てて何でもないような表情を取り繕う。
青年は掌をそっと、扉にくっつけた。
「屋敷内にある部屋は、自由に入っていい。物も気兼ねなく使ってくれ。けれど、」
彼の青い瞳が、ジルを真っ直ぐ捉えた。
「この部屋にだけは、入らないでくれ。お願いだから」
「どうして?」
何か、重大な弱点が隠されているのだろうか。淡い期待を抱くジル。
青年は扉から手を離し、ふるふると頭を振った。
「……もし入られたら、俺は、あなたを殺さなければならない」
二度目の「どうして」は、出てこなかった。
増加した恐怖と、扉の先に何かあるという確信、高揚感。その三つが、ジルの鼓動を速める。
「案内は終わった。今日はもう寝た方がいい」
自分から案内に誘っておきながら、そのような言い方をするとは。それほど、この部屋に入ってほしくないのだろう。
(ドアノブの右端に、小さな爪痕あり……)
ジルは他の部屋よりもいっそう意識を集中させて、いわゆる「禁断の扉」の特徴を覚え、怪しまれぬ間に青年の後ろについていった。
「お帰りなさいませ」
ソフィアがふわりとした笑顔で出迎える。
「ああ。夫人はもう休んでくれ」
「かしこまりました」
羽織っていたジャケットを彼女に渡して、青年は部屋の中へと入っていった。ソフィアが入れ違いで出て行く。
彼女が横を通り過ぎる間際、ジルはほんの少し息を呑んだ。
何かが起こるはずはなく、小さくなっていく彼女の背中をじっと見つめる。
「眠れないのか」
「あっ……ごめんなさい。今入るわ」
突っ立ったままこちらを見つめている青年に、視線を戻す。
すると、青年がベッドを指し示した。
「着替えるといい。そのままでは眠りにくいだろうから」
そう言い残して、青年は部屋の外に出て行った。扉がカチャリと静かな音をたてる。鍵はかけていないようだ。
ジルは息をのんで、恐る恐るベッドへと近付く。
その上には、レースとリボンがかわいらしい、手触りの良さそうな白い寝間着が置かれていた。丁寧に折りたたまれたそれの表面を撫でる。
(……何も隠されていないわね)
今着ている服は泥だらけだが、このままの服でいたい。あらゆる箇所に武器が仕込まれているのだ。
(でも、着ないと警戒心を与えてしまうかも。逃げるためにも、従った方がいいわ)
ジルはベルトを外し、上着を脱ぎ、白いシャツ一枚になった。裾から除く、数多のレッグシースの金具に手をかける。
その時、扉からとん、と誰かが触れる音が聞こえてきた。ジルははっとして、身を固まらせる。
「念のために伝えておくが、俺は、あなたの正体を知っている」
ジルの胸が、ドキリと音をたてた。
「だけど、今はそのことを隠していてほしい。……おやすみなさい。いい夢を」
そう独り言のように声を発して、ジルに対して何をするでもなく、彼は今度こそ部屋から離れて行った。音が遠ざかるにつれて、心音も治まっていく。
足音が消え、ジルはシースから銀の短剣を一本抜き取った。
(いい夢なんて、とうてい見られそうにないわ)
暗闇でもよく光る短剣を見下ろし、自嘲気味た微笑を浮かべる。
厚みのあるホルスターの数々はベッド下に隠し、ジルは寝間着へと着替えた。深呼吸をし、ベッドの裾をめくる。……何もないようだ。
(ソフィア夫人、といったかしら。彼女はここを、私とあの青年の寝室だと言ったけれど、彼はどうするつもりなのかしら? いいえ、何を企んでいるのかしら)
きっと、眠りについた自分の首に、犬より鋭いあの牙を突き立てるつもりに違いない。
死ぬまで苦しむ自分を笑いながら、血を啜るに違いない。
◇◇◇
「ジル」
辺りが明るくなってきた頃。遠くから青年の声が聞こえてきた。ジルは赤くなった目をかっ開き、耳へと意識を集める。
程なくして、扉が音もなく開かれた。まるで本能に刷り込まれているかのような、気配を消した足音が、こつり、こつりと、カーペットに吸い込まれて消えていく。
(やっぱり、私を襲うつもりだったのね)
彼の大きく伸びた影が、視界一杯に広がった。彼は今、自身の背後に立っている。
ジルは短剣の柄を握る手に力を込め、あまりの恐怖に目を瞑った。
「どうしてあなたは、俺のところに来てしまったのだろう」