1話 隠し隠され・上
『きみのおかげで、ぼくはじぶんのことが少しだけ好きになれたよ」
耳にたこができそうなほど繰り返される、この言葉。声はもう思いだせないはずなのに、やけに頭から離れない。
初めて会った日に見せた泣き顔も、いたずらされて泣かせてしまった時のすね顔も、プレゼントを渡した時に見せた笑顔も、すべて、噓なのに。
なのに、今でも心が、その時の記憶に残されたままの気がしてならない。
吸血鬼は、人間を惑わせ、残虐非道に捕食する殺人種だ。ろくでもない噓つきだ。
そう、必死に自分に言い聞かせてきた。
(吸血鬼といえば、私はさっきーー)
「はっ!!」
ジルは勢いよく上体を起こした。突然目に飛び込んできたカラフルな視界に目を細める。
どうやらジルは、立派な金の椅子に座っているらしい。デザインは、自国の両陛下が使うものに近いだろう。
「きゃ」
「――静かに」
恐る恐る隣に視線を移したジルの口を、例の美青年が塞いだ。
青い宝石のような瞳が、ジッとこちらを見つめている。森の中での記憶では、紅かったはずなのに。これでは、彼と同じではないか。
苦悶の表情を浮かべたその時、青年がジルの耳元に唇を寄せた。視界の端で、白い髪がふわりと揺れる。
「……命が惜しいなら、静かにしていて」
小さく頷くと、納得したのか、青年の手が離された。
ジルは引き続き恐怖に震え上がりながら、視線を逸らす。
その先には、使用人の服に身を包んだ者たちが、ズラリと並んでいた。瞳の色は、青と紫が多いだろうか。パッと見たところ、紅はいない。
「ベルトルト様」
「ムッ」
突然、年長の執事らしい人物が声をかけてきた。ほんの一瞬見えた牙に、思わず声をもらしてしまう。
慌てて自分の口を塞いだジルへと、執事の視線が向けられる。そして、再び青年へと戻った。
「こちらの方が、先ほど仰られていた方ですね?」
「ああ、そうだ」
なんのことだ。そう視線で訴える。
すると、青年はジルをまた見つめだした。威圧さえ感じられる美しさに、たじろぐ。
整った目鼻立ちに、涼し気な目元、頬に影を落とす長い長い睫毛、柔らかそうな薄い唇。陶器のように白い肌には、毛穴一つ見つからない。あどけなさと、大人っぽさ。アンバランスな美しさと、危うい儚さ。人形のような冷たさを持つその顔立ちは、まさに人外。
彼が吸血鬼でなかったならば、見惚れてしまっていただろう。
(でも、それはもしもの話で、今は恐怖と嫌悪しか感じないけれど)
負けじと青年を見つめ返す。しかし、彼はすぐに立ち上がってしまった。そして、ジルの手を取りーー
「俺は、この女性――ジルと結婚する」
「はっ、はぁ!?」
広大なダンスホールに、ジルの盛大な声が響き渡る。おまけに、こだままで。
気絶から意識が覚め切っていない頭に、突然ハンマーを容赦なく叩き落された気分だ。
拍手をするつもりだったのか、使用人たちは両手をみっともなく前に突き出したままである。その様子を気に留めることなく、ジルは口をパクパクとさせながら、青年を睨みつけた。
その頭を、青年が愛おしむように抱き寄せる。ぽす、と音をたてて、額が彼の胸元に当たった。
(ギャーーッ!?)
「すまないが、今は――」
言葉の先は、二度目の気絶によって掻き消された。
◇◇◇
「う、うぅん」
まだ揺れる心地がする中、ジルは目を覚ました。
あまり時間は経っていないらしい。ぼんやりとした視界の先では、青白い月光が床を仄かに照らしている。
(いったい、何が起きているの?)
明らかに自室のものとは違う、やけにフカフカでいい香りのするベッドから起き上がる。
その時、脇で何かがうごめいた。
「ジル様。お身体はどうですか?」
「キャーー!?」
突然現れた白髪の婦人らしきメイドに、またジルは叫び声をあげた。女性は「あらあら」と言わんばかりに眉と頭を下げている。
「驚かせてしまいましたね、申し訳ございません。わたくしはソフィアと申します。ベルトルト様からジル様のお世話係を任命されましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
ソフィアは顔をあげ、柔らかに微笑んだ。
「皆様には『ソフィア夫人』と呼ばれていますが、お好きなようにお呼びくださいな」
「ジル様……」
ぽそりと呟き、ソフィアへと僅かばかり目を向ける。彼女は穏やかな微笑みを浮かべたままだ。
人畜無害そうな婦人に見えるが、彼女も吸血鬼なのだろう。
よく見てみれば、彼女は白ではなく、淡いクリーム色の髪をしていた。だが、髪色からはどのみち年齢を推測することはできない。
「お嬢様がパウル家に嫁がれて、わたくしは嬉しいです」
「嫁ぐ……? パウル家に……?」
「はい。パウル家は由緒正しき吸血鬼の家柄なのですよ。そして、ベルトルト様は、若くして新当主となられた有能な方ですわ」
「由緒正しき……きゅ、吸血鬼の……当主……?」
「はい」
よりいっそう人のよさそうな微笑みを向けるソフィアを前に、ジルは内心頭を抱えた。もちろん、表にはいっさい出していない。
どうしてこうなったのだろう。ベルトルトというあの青年とは初対面のはずだ。パウルという家名も聞き覚えがない。
第一、ジルは吸血鬼ハンターで、彼は、彼らは、吸血鬼の名家らしいのだから。
プロポーズされた記憶など、人間を相手にしてもない。
「そういえば、」
「な、なに」
「正式発表は一週間後の夜会で行われるとのことですが、寝所は本日から同じにしておきましたよ」
ジルの思考が止まった。
鼓動は変わらず鳴りっぱなしである。
(ど、どういうこと? 本当にあの青年は私と結婚する気なの? 何を企んでいるの?)
そんなの、冗談じゃない。
「えぇと、その、人違いじゃないかしら?」
「合っている」
「ヒッ!?」
突如聞こえてきた声に、扉の方へと顔だけ振り向けば、青年が壁に寄りかかっていた。不機嫌そうな真顔で、腕を組んでいる。
「でっ、出た……!」
青年は鼻から小さく息を突き、壁から離れた。つかつかと歩み寄ってくるその圧力に後退する。吸血されるどころか、このまま刺殺されそうだ。
迂闊に武器に触れるわけにはいかず、ジルは彼をただ見上げ続けた。
「……ついて来て」
青年はジルの手に触れることなく、出て行ってしまった。戸惑いながらも後を追う。
ソフィアが差し出した寒さ避けのショールは、もちろん断って。
名前しか知らないソフィア夫人よりも、恐らく自分を助けたのであろうこの奇妙な青年の方が、同じ吸血鬼でもまだいいように思えたのだ。どちらとも二人っきりになりたくないことを前提として。