18話 泣きだしそうな声だった
禁断の扉。その先はおどろおどろしく、まさに地獄のような光景だった。
扉が開いていなかったなら、カーテンが開いていなかったなら、月が出ていなかったなら、見ることはなかったというのに。
棚いっぱいに詰められているのは、目玉や脳味噌、様々な部位のホルマリン漬けや、字が薄れて読めないラベルの貼られた薬品・毒物らしきもの。骨格標本や吸血鬼らしき人体模型も吊るされている。
ここに集めて隠していたらしい。医学書、解剖学書、人体図鑑、吸血鬼の身体図鑑。人間や吸血鬼に関する書物が、狂気的なまでに高く、乱雑に積まれていた。トンとつけば、下敷きになって死んでしまいそう。
あとは、拷問器具のような、殺人道具のようなものたち。
あちらこちらに設置されており、どれもすべて赤黒い血で汚れている。ビッシリとこびりついており、月の光を反射してぬらりと光った。
(これが……かれが、かくしたかったこと、なの?)
頭の中が真っ白になっていく。
まるで氷水を全身に浴びせられたように、身体の震えがとまらない。
おぞましい光景から目を逸らそうとも、逃げ場はなく。どこを見ても嫌な景色が視界いっぱいに入る。扉の先に戻ればいいのだが、立ち上がる勇気もなかった。
(でも、このまま居座るのはだめ)
しかし、このまま出て行き、運良く誰にも見つからずに寝室へ帰ることができたとしても、はたして、知らない素振りなどできるのだろうか。
なんでもないように目を覚まし、朝食を食べ、長くなるであろう身支度を終えて、ベルトルトの、吸血鬼たちの前に凛とした態度で立つことなど、できるのだろうか。
彼は、ジルを殺すのだろうか。
『……もし入られたら、俺は、あなたを殺さなければならない』
そう言った時、彼はどのような表情をジルに向けていたのだろう。まったく思い出せない。
久しぶりに感じる強い恐怖心と絶望感に、打ちのめされてしまいそうだ。微かに感じる血のにおいと薬品臭も相まって、胃の奥がグルグルと回っている。
一番つらいのは、また裏切られたのかもしれないという胸の痛みだ。
(はやく、はやく立たないと)
床に手をつき、本の列に手をかける。
その時、列が崩れた。落ちてきた本を咄嗟に受け止める。
「危なかった……音でバレて――」
また、ジルの喉が音を出した。
ところどころ塗装の剥げた、今は見ないが、数年前までは大量に売られていたなんの変哲もない日記帳。
そのたった一冊が、本の中に混ざっていたからだ。
(たっ、たまたま彼も使っていただけよ、きっと)
ジルは不安をかき消すように頭を振った。そうだ。たまたまに違いない。
そう、必死に言い聞かせていたのに。
戻そうとした日記帳の隙間から、ひらりと白い何かが舞い落ちていった。
しゃがみ込んで見るまでもない。
変色して黄ばんだ、スノードロップの押し花だ。
全身の毛穴からドッと冷や汗が出てくる。はくはくと口を動かしたその時、誰かがバタバタと駆けてくる音が聞こえてきた。
身を隠す間もなく入ってきたのは、息を切らしたベルトルトだ。
何も言わずに、ただ目を見開いている。そして、息を整えるように深く息を吐き、苦しげな表情でジルを見つめた。
「……私を、殺すの」
反射的に懐に仕舞い込んだ日記帳を、服越しに抱いて。ジルは、なんとか言葉を紡ぎ出した。
しかし、ベルトルトは答えない。
「あなたが、あなたが、私の母を殺したの?」
微かに、ベルトルトの眉がピクリと動いた。
ジルの体温がみるみるうちに下がっていく。こぼれ落ちたのは、涙ではなく、苦情だった。
「……私を騙したの?」
グッと唇を噛み、次いで、ベルトルトを睨みつける。
「どうして何も言わないのよ。否定するならしてよ!」
ベルトルトに掴みかかる勢いで歩み出たその時、彼の指先が喉に触れた。
「もう来ないでくれ。結婚のことも忘れてほしい」
赤黒い光が迸る。
気付いた時には、ジルの目の間には森が広がっていた。地面についた膝から冷気が伝わってくる。
「……ここ、は」
見覚えがある。
暗闇に近いため確証は持てない。しかし、初めて、いや、久しぶりにベルトルトと会った場所だ。服もあの日と同じものに変わっている。
辺りを見渡せば、吸血鬼二人に襲われていたジルが彼に助けられたときに背にした木が、立っていた。その前に、大きく太い根がボコリと地面から生えているため、間違いない。
「ジル?」
冷えた夜風が髪を揺らしたその時、聞き覚えのある声が名を呼んだ。
より闇深い林の奥へ目を向けると、銃口がギラリと光っている。
月明かりの下へ出てきたのは、残された幼馴染、ペーターだった。
「ジル! やっぱりジルじゃないか!」
彼は森のように穏やかな緑の瞳をはっと開いて、ジルの元へ駆け寄ってきた。痛いほど強く肩を掴まれる。
「今までどこにいたんだい? どうしてここに? 君が一週間近く行方不明になるものだから、僕もみんなも心配していたんだよ?」
「ちょっ、ちょっとペーター! 痛いわ」
「あっ……ごめん。怪我はないかい?」
ペーターは手を離し、次いでジルを引き起こした。膝についた泥を払ってくれる。
「本当にみんな心配したんだ。フェルツさんなんて、食事も喉に通らなくて」
「お父様……」
かつて母を亡くした時に見せた、ひどく憔悴しきった父の姿が浮かぶ。
その時、ペーターがジルを抱き上げた。
「えっ、ちょっとペーター。怪我はないから自分で歩けるわ」
「でも、何かあったんだろう? 目元が少し濡れているよ」
ジルはバッと目元に手をやった。指先がほんの少しだが湿る。
呆気に取られた表情を浮かべたジルを見てか、ペーターが眉を下げて笑った。
「疲れているだろうし、このまま送っていくよ」
「子供じゃないんだし、大丈夫よ」
「いいからいいから。もしかして、僕のことが嫌い?」
「まさか。どうしてそうなるの?」
「昔はよく『お兄ちゃん』って呼んでくれていたじゃないか。抱っこもせがんでくれたよね」
「それは、そうだけれど……」
「君を見つけられたんだから、久しぶりにお兄ちゃんさせてよ」
どこか嬉しげなペーターに何も言えず、ジルはただ頭に手をやった。肯定と受け取ったらしく、彼が歩き出す。
ジルはランタンを彼から受け取り、代わりに道を照らすことにした。
お兄ちゃんといえど、彼とジルは血が繋がっていない。彼は捨て子で、幼い時にジルの父――フェルツに引き取られたのだ。
ちなみに、フルネームはペーター・デュッセル。名前の書かれたカードを持っていたらしい。ジルの五つ上くらいらしく、兄のような、友達のような関係である。
(本当、ペーターは昔から心配性ね)
鼻歌を歌いながら森を下っていくペーター。彼の姿に、相変わらずのマイペースさとほのぼのとしたオーラを感じて、すっかり恐怖心の消えたジルは微笑んだ。
そして、ふと思う。
「ペーターはどうしてあそこにいたの? 村から真っ直ぐ歩いたところではあるけれど、かなり奥でしょう」
鼻歌がピタリとやんだ。風に吹かれて、長いローブが捲れ上がる。
また光った銃口が目に入り、ジルの額に汗が滲んだ。
「銃に血が飛んでいるわ。吸血鬼に襲われたの? 怪我は?」
慌てて頬を掴んだジルをキョトンとした目で見て、ペーターはふふっと笑った。
「ないよ。最近、吸血鬼による殺人事件が多発していることは知っているね?」
彼の表情が真剣なものに変わる。ジルは静かに頷いた。
「だから、こうして見回りをすることになったんだ。本当は森の入り口あたりまでの予定だったんだけど、野犬に襲われてしまってね。一心不乱に逃げていたらこんなことに」
恥ずかしい限りだよ、とペーターは苦笑した。
彼は昔から方向音痴なところがある。仲間を思ってのことなのかもしれないが、村ではなく森の奥へ逃げていくとは、なんとも彼らしい。
「君こそ、今までどこにいたんだい?」
「それは……」
全て話してはいけない気がして、ジルはペーターから目を逸らした。
「ごめん。疲れているよね。無理に話さなくていいから、とにかく今日は休んでね」
「……ありがとう」
目を逸らしたまま頷く。
次第に村の明かりが見え始めた。
見回り要員らしき人たちが、こちらを見て口を大きく開けていく。
「ジル? ジルじゃないか!?」
「本当だ! ジルだ!」
「フェルツリーダー! ジル様がお戻りになりましたよー!」
一人がジルの家へと駆けていく。……確か彼は、フェルツをかなり尊敬していたか。盲信する一歩手前である。
真っ暗だった住宅に次々と明かりが灯りだし、ゾロゾロと人が出て来た。ふと、ペーターが笑みをこぼす。
「ほら、ね。みんな心配していたんだよ」
ペーターが慎重な手付きでジルを降ろす。
よろつきながらも地面を踏んだその時、武装した何人もの村人が駆けてきた。中心にいるのは――
「ジル!!」
「お父様!」
二人で互いを強く抱き締める。日を増すにつれて痩せて逞しくなった父の腕は、ジルを押し潰しそうだ。
長い抱擁のあと、彼は腕を震えさせながらジルを引き離した。顔を見つめて、ボロボロと涙をこぼす。
「よかった……お前までいなくなったら、わしは、わしは……」
顔をグッと抑え、フェルツは息を殺した。嗚咽を呑み込むように鼻を啜る彼を、ジルはもう一度抱き着いた。
「ただいま、お父様」
フェルツと同じように、鼻声混じりに呟いた。




