17話 偶然にしては必然らしい
踊れば踊るほど、パートナーとの接触が気にならなくなる。――と、聞いたことがあるような気がするが、たった一日では不可能らしい。
胸の鼓動が聞こえそうなほど、相手の息遣いを感じられるほど近い距離に、ジルの胸は一日中激しくドラムを叩いていた。就寝時になっても続いたのだから、驚きである。
しかし、それは初日だけの話だった。
やはりというべきか、社交ダンスを見た記憶すらないジルに、ダンスは難しかった。夜会までに笑われないレベルまで叩き上げるとなれば、なおさらだ。
優しいベルトルトとソフィアは「夜会で無理に踊らなくていい」と言ってくれた。しかし、負けず嫌いな部分があるジルは首を横に振った。また、踊れない理由を勘繰られることも嫌である。
結果、恥ずかしさよりもダンスへの集中が勝ったジルは、翌日も朝から晩までダンスの練習に明け暮れた。
そして、今は三日目の夕方。つまり、夜会の前日である。
最後の曲を終え、ジルは盛大に息を吐き出した。
「ついに、ついにミスなく踊りきったわ!」
ベルトルトに笑いかける。すると、彼は頬を綻ばせて拍手をした。
「おめでとう。あなたの努力の賜物だ」
「ベルトルトのおかげよ。私の練習に付き合ってくれてありがとう。ソフィアもよく教えてくれたわね」
「いえいえ。とても素敵でしたよ」
「バウッ!」
目に涙を浮かべているソフィアの隣で、モフモフが尻尾を振りながら吠えた。彼の元へ駆け寄り、ギュッと抱き締める。
実を言うと、真夜中に彼の手も借りていたのである。流石に香りと体温までは再現できなかったようだが、身長差や動き方はほぼ同じだった。
「すっかり仲良しだな」
「ええ! この子、かわいいだけじゃなく賢いのよ。言葉も理解しているようだし、本当に会えてよかったわ!」
「……そうか」
ベルトルトは儚げにふっと微笑んだ。
「どうしたの? 朝からずっと様子が変よ」
「……そうだろうか」
思案するような素振りを見せた彼は、顎に手を当ててモフモフを見つめている。
「もしかすると、明日の夜会に緊張しているのかもしれない」
程なくして口を開いた彼の言葉に、ジルは激しく頷いた。
そうなのだ。朝からずっと緊張しているのである。あまりにも落ち着かないものだから、食事以外はほとんど踊っていた。
使用人もまた、忙しそうに朝から動き回っていた。新しく見る者たちは、今まで夜の間に働いていた者達なのだろう。これからは彼等の顔も覚えないといけない。
ここまで思い出して、ジルはあることに気づいた。
「三日前からずっと踊っていたけれど、仕事や準備は大丈夫なの?」
今までなんでも許してくれてきた彼のことだ。無理とに仕事を終わらせて、ジルに付き合っている……などということはあるまい。今回ばかりは。もしそうなら申し訳ないではないか。
相変わらずモフモフを見つめたままのベルトルトの姿に、不安が募っていく。
「……大丈夫だ。これからすれば十分間に合う」
彼は目を閉じるように微笑んだ。
「ならよかったわ。じゃあ、ダンスは今ので終わりね」
本当は、おさらいにあともう一度踊りたいところである。しかし、やめておいた方がいい。
踵が低い靴へと変えるため、履いているダンス用のものへ手をかける。
その時、ベルトルトが一歩、ジルへと踏み出した。
「念のためおさらいをしないか?」
「いいけれど、時間は大丈夫なの?」
「ああ」
ベルトルトの視線は今、ジルを向いている。しかしどうも彼が上の空な気がしてならない。
「疲れてはいない? 明日に備えて今日は……ベルトルト?」
音もなく近付いて来た彼が、ジルの手を取った。
最初の一ダンス目を除き、いつもはジルが手を取ってくるまで待っていたはずなのに。
ダンスの時だけではない。ジルに触れるのはいつだって、エスコートをする時か、ジルから触れた時のみだった。
ジルの心配をよそに、ベルトルトが音楽をかけるよう合図をする。
「……ヴァイオリンといい、ダンスといい、すぐ忘れてしまうものだから」
「まぁ、確かに復習って大切よね。でも、やり過ぎはよくないと思うわ」
「眠りについた後も踊っていたあなたに言われても、あまり説得力がないな」
珍しく反抗的な(とはいえやはり控えめな)彼の言葉に、ジルは瞠目した。
「気付いていたのね」
「この屋敷は、昼も夜も起きているから」
かわいらしい表現に思わず笑ってしまう。ベルトルトもまた、釣られるように笑みをこぼした。
このダンスで初めて、ベルトルトはミスをしたのだった。
◇◇◇
「眠れないわ!」
蝋燭の光だけが揺らめく寝室で、ジルはベッドから飛び起きた。
ジルがよく眠れるよう気を遣ってくれているのか、予想に反して屋敷内は静かだ。いつもは多少の足音が聞こえるのだが、ネズミが天井裏を走る音すら聞こえてこない。
それでも、時計が秒針を刻む音や、窓を叩く風の音がやけに大きく感じられて落ち着かないのだ。また、耳を塞いでも明日のことがあれやこれやと浮かんで、目が覚めてしまう。
どのような人が来るのか、無事にレディーらしく振る舞うことができるのか、とんだちんちくりんが来たものだとパウル家に迷惑をかけるはめにならないか、などなど。希望がいっさい湧いてこない。むしろ不安ばかりが募っていく。
せめてコンディションを整えて、できる限り着飾れば、少しは堂々と彼の横を歩けるのかもしれない。そのためには寝なくてはならないのだが、頭でわかっていても、無理なものは無理である。
(第一、私がいくら頑張ったところで、あんな美しい彼の隣に立ったら……どう足掻いても比較されるに決まっているわ)
きっと、夜会には美しい女性たちがわんさかいるに違いない。ジルより見た目が若い者だっているだろう。
(あぁもう!)
ジルは床へ足を下ろし、廊下へ出た。
こういう時は、外で夜風に吹かれるといいのである。雑念ごと飛んでいくような気がするのだ。
(それにしても、本当に誰もいないわね)
ジルの足音だけが遠い遠い奥まで響いている。
カーテンはどれもぴっちりと閉められているため、少し怖い。
(ソフィア夫人を呼ぶ? でも、寝ていたら悪いし……)
出て行ってから、ほんの少しの後悔。
後ろを振り返ることができず、ジルはただまっすぐ廊下を歩くことにした。
「きゃっ!」
曲がり角を行ったところで、ジルはサッと壁にくっついた。
青白い光が、ずっと先で揺らめいたからだ。
曲がり角に戻り、そっと頭を出す。もはや目だけを出している状態だ。
(あれ?)
よく目を凝らしてみれば、扉から光が漏れているように見えた。
慎重な足取りで歩みを進めてみる。
(やっぱり! 扉が開いているんだわ)
近付くにつれて扉の輪郭がハッキリとしていき、ほっと胸を撫で下ろす。
(とりあえず、閉めておきましょうか)
扉に手を伸ばしたジルだったが、はっとして手を引っ込めた。
ドアノブの右端に、小さな爪痕がついている。
(ということは、これは、禁断の――!)
突如、曲がり角の方面からコツリと足音が響いた。
混乱したジルが滑り込んだのは、扉の奥。
(せめて中は見ないようにしないと……)
目を閉じて、手探りに扉を閉める。
扉に背中を預けて耳を澄ませば、足音はそのまま通り過ぎていった。
(よ、よかった)
安堵のため息をこぼし、膝に頭をだらりとのせる。
早く出ないといけない。そう思ってドアノブに手をかけたその時、もう片方の手が、何かに触れた。
カサリとした感覚に、目を開ける。
指先に触れたのは、枯れたスノードロップの花弁だった。
(た、たまたまよね?)
胸が再び激しく鳴り出す。
一瞬にして頭に浮かんだ予想を否定したくて、ジルはついに顔を上げた。
乾いた喉が、ヒュッと締まる。




