16話 心の距離の縮め方
翌日、ジルはソフィアと共に再び庭を見て回っていた。最初は先入観のせいで楽しむことができなかったからだ。
面白いことに、モフモフはドーベルマンのような姿になり、青い首輪を着けて隣を歩いている。パタパタと尻尾が揺れているあたり、彼も楽しんでいるようだ。
「大切にお世話されて、花たちも頑張って美しく咲き誇っていたというのに愛でないなんて、本当に申し訳ないことをしたわ」
腰を下ろし、スノードロップを見つめる。
先ほど水やりを終えたばかりらしい。真っ白な花弁についた水滴が、ダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
素直な気持ちで見つめてみた庭は色とりどりの花が咲いており、とてもロマンチックだった。手入れも行き届いている。村の乙女たちが見たら、きっと目を輝かせてはしゃぐに違いない。
ジルは立ち上がり、赤煉瓦のかわいらしい道をコツコツと足音を鳴らしながら歩いて行く。
そういえば、とソフィアに振り返り、レースたっぷりのスカートを翻した。胸元を飾る青い宝石が、太陽の光を反射して煌めく。
「昼間は夜より使用人たちが少ないのね。夜行性なの?」
「夜行性とまではいきませんが、夜の方がなにかと動きやすいのです。目が痛むような日差しもありませんしね」
ソフィアは太陽を指して微笑んだ。
「もしかして、今も痛いの?」
「いえ、私ほど歳を取れば感覚が鈍くなりますから、あまり」
「ならいいのだけれど、無理はしないでね」
「うふふ。ありがとうございます」
ソフィアと雑談をしながら、引き続き花を愛でていく。
ジルが来てから料理長が楽しそうだとか、モフモフがかわいいと使用人たちが喜んでいるだとか、ベルトルトへ密かな好意を寄せていた使用人数人が、ショックを受けていただとか。これは流石に申し訳なく感じたが、とにかく、色々と話した。
「あら?」
一周し終わる頃。ジルの耳に、ヴァイオリンの心地よい音色が届いた。
顔を上げ、屋敷を見上げる。
「これはベルトルト様が?」
「はい。たまにヴァイオリンを演奏されるんですよ。でなければ、忘れてしまいますから」
「へぇ〜すごいわね。とても綺麗だわ」
頬を綻ばせ、音に耳を傾ける。その時、隣でパチンッと両手を合わせる音が鳴った。
「そうですわ! このような離れた場所ではなく、もっと近くで聞きませんか?」
「答えを聞く前に私を引っ張っているわ」
そう苦笑しながら、ジルはソフィアと共に屋敷内へ駆け入った。
◇◇◇
窓際が全面ガラス張りの、小さなダンスホールのような部屋の中。
ヴァイオリンの演奏が終わり、ベルトルトが小さく息を吐いた。そして、扉へと目を向けて大きく肩をビクつかせる。
「……いつからそこに?」
「最後の曲が始まる前からよ」
扉の隙間から中を除いていたジルは、中に入ってニコリと笑った。
シャンデリアと太陽の光をベールのように纏う彼の姿は絵画のようで。希望を言うのならもう少し見ていたかったので、残念である。
「とても上手なのね。思わず聞き入ってしまったわ」
「そう思ってくれるのか……ありがとう」
照れているのだろうか。彼は尖った耳たぶに触れ、視線を床に向けた。
ふと、顔を上げて使用人に椅子を用意させる。
「中に入ればよかったのに。身体は痛くない?」
「あなたの素敵な演奏を止めなくなかったのよ。身体は大丈夫。それより、もっと聞きたいわ」
使用人に礼を言って、椅子に座る。
期待するよう目を向けるも、ベルトルトは気乗りではない様子だ。眉間に皺が寄っている。
「素人の演奏なんて、聴けたものじゃないだろう」
「あら、素人だろうと問題ないわ。私は気に入ったもの」
「……わかった」
ベルトルトは小さく息を吐き、ヴァイオリンを構えた。途端に、糸が張ったような緊張感が走る。
しかし、彼が奏で始めたのは、ゆったりとしたリズムの悲しげな曲だった。詳しいわけではないので曲名まではわからないが、悲恋をイメージして作られたものだったはず。月の下で男女が踊り、別れを惜しみながら離れていく……。そのような映像を観ているようだ。
次の曲はイメージが一変し、軽やかなリズムを刻み始めた。野原で子うさぎが跳ねているような、楽しげな曲である。
思わず揺れてリズムを取ると、ほんの一瞬だけ、ベルトルトと目があった。クスリと笑ったかと思うと、曲調がまた変化する。
また、恋愛がテーマである。しかし、今度は熱く、激しく、燃え盛る炎のようなメロディーだ。元は劇で使われた曲で、愛し合う二人が困難に打ち勝つために最後の戦いに挑むシーンで流れていたような気がする。
それから、ベルトルトは様々な曲を披露してくれた。アップテンポなものからバラードまで、ダークなものから明るいものまで。
このような演奏を見せられたら、女性はきっとイチコロだろう。そう思うほど、彼の演奏は美しく、彼もまた、輝いていた。
「……満足してもらえただろうか」
「ええ! とってもよかったわ!」
ベルトルトに盛大な拍手を送る。彼は控えめにはにかんで、ヴァイオリンをケースにしまった。
それを見計らったかのように使用人たちが中へ入ってくる。
困惑の色を露わにしたジルとベルトルトの前に、ソフィアがにこやかな表情で現れた。
「せっかく音楽にのっていたのですから、今からお二人でダンスの練習をなさってはいかがですか?」
「へっ? ダンス?」
「夜会で踊ることになるでしょう? ならなくても、いつかは踊る日が来るのですから!」
「待ってくれ」
ベルトルトの声色は珍しく焦っていた。何か言いたげな表情でソフィアに問いかけている。
「わたくしも他の使用人もいるので大丈夫ですよ。料理長も呼んできました」
ジルはソフィアに腕を引かれながら頭を傾けた。二人の気にしていることが理解できないのである。皆目見当もつかない。
ソフィアは子を諭すような微笑みを浮かべており、ベルトルトは苦悶の表情で何かを思案している。
「……あなたは?」
「私?」
予想外の声かけに驚いたジル。
ベルトルトは小さく頷いた。その顔は真顔である。しかしどこか苦しげだ。
「……あなたは、俺なんかと踊りたい?」
ベルトルトの言葉に、ジルの眉間がピクリと動く。
「俺……なんかと?」
ジルの纏う雰囲気が変わったことを察してか、ベルトルトはぎょっとしたように目を開いた。静かに再度頷いた彼に、ジルはツカツカと歩み寄っていく。
彼の前に威圧感たっぷりに立ちはだかったジルの頬は、ぷっくりと膨らんでいた。
「いくらなんでも謙遜が過ぎるわ。もはや自嘲よ」
「えぇと、怒っている……のか?」
「だって、あなたが、あなたのことを悪く言うんだもの。嫌な気持ちにはなるわ」
どうして叱られているのかわからないのだろう。ベルトルトは眉を下げ、何度も瞬きをしてジルを見つめている。
「もう少し自分を大切にしてほしいの。その、……私にとって、あなたは大切な人……に、なりつつあるから」
断言できなかったのは、恥じらいのせいである。後半はかなり小さな声になってしまった。おまけに、顔もバッチリ大理石の床を見つめている。よく磨かれた鏡のような床だ。
(違うのよ。いきなり現実逃避に床を褒めてるつもりはないのよ)
僅かながらに頭を振り、次いでベルトルトを見上げる。
「……へ」
そして、小さな声をこぼした。
ベルトルトの海のような瞳から、ポロリと雫が溢れたからである。
「えっ、ご、ごめんなさい! 怖かった?」
慌てて両手を上げ、敵意がないことを示した。次いで、もたつきながらハンカチを探し始める。
「いや……そうじゃない、これは……」
ベルトルトも驚いているらしい。彼は涙を拭い去り、キョトンとした目で瞬きをした。濡れた指先をじっと見つめている。
「……わかった。踊ろう」
「な、納得してもらえたようでよかったわ」
何が心に届いたのかわからないが、ベルトルトはギュッと拳を握って言った。心配しながらただ頷く。
すると、彼がジルの肩口に手を回した。指先を絡め取られ、グッと距離が近くなる。ふわりと香った薔薇のような甘い香りに頭がクラクラしそうだ。
「まずはバラードからだろうか。あなたは何がいい?」
「え、えぇと……その、」
あの夜と変わらない距離に、心臓が激しく鼓動を刻みだす。青い瞳が、真っ赤なジルを映し出している。
周りの視線は生温かすぎる、頭をどう動かしてもいい香りが漂い、彼の手は冷たいはずなのにじわじわと手と肩が熱くなっていく。
「し、素人どころか初心者なので……お手柔らかにお願いします」
それが、パンク寸前のジルがなんとか捻り出した言葉だった。




