15話 命名モフモフ
屋敷に帰ってきたジルは、気持ち悪いほど温かい笑顔を、使用人たちに向けられ続けていた。今はすべての支度を終えて、寝室でハーブティーを飲んでいるところである。ようやく一息つけたというわけだ。
湯浴みでは念入りに身体を洗われ、廊下を歩けばやけに騒がしかったはずの使用人たちが口をつぐみ。耳を澄ませれば、ジルとベルトルトの間に何があったのだろうか、と予測する声が聞こえてきた。
やれ愛の言葉を囁き合っただの、夜空の下で踊っただの、キスをしただの、様々な憶測が飛び交っている。しかし、どれも間違いだ。
星空を鑑賞して、様をつけなくていいと言われ、言われた通りに名前を呼んだだけである。
(そう! 断じて! ときめくようなことは! なかったわよ! えぇ!)
ジルはクッションを引っ掴み、ボスボスと頭をぶつけ出した。
最後に深々と頭を押し付け。息を吐く。
(……本当は、ドキドキした)
彼が綺麗と言ったのは、本当に景色のことだったのだろうか。なんて、自惚れた考えが頭を巡る。
ジルを見つめて微笑む彼の姿は、ただただ純粋に美しかった。
月から舞い降りてきた、神のようにも、人間を誘惑する悪魔のようにも見えるほど。
彼が触れた肩を撫で、恥ずかしさを紛らわすようにハーブティーを仰いだ。
「あらあらジル様。そんなに急いで飲まれては、気管に入ってしまいますよ」
ソフィアの言葉を受けて、ちびちびと飲んでいく。
程なくして、扉がノックされた。
「入っていいだろうか」
「えっ、えぇ! ゴホンッ。大丈夫よ」
声が裏返ったことを誤魔化すように、大きく咳払いを。
「身体を冷やしてしまったか? すまない、配慮が足りなかった」
「いいえ! 少しハーブティーが気管に入りかけただけよ」
そう微笑むと、ベルトルトの目が見開かれた。鋭い視線をソフィアへと向ける。
「医者を」
「かしこまりました」
「いやいやいや! 大丈夫! そこまでしなくて大丈夫よ!」
「だめだ。ちゃんと体を大切にしてくれ」
「大切にしているわよ!」
外に出ようとしたソフィアと、真剣な表情を浮かべているベルトルト。両方の腕を掴み、全力で否定する。
しかし、二人も負けじと首を横に振っている。
(ああもう!)
「今のは、声が裏返ったことが恥ずかしくてしたことなの! だから大丈夫!」
部屋中にジルの声が響き渡った。
大きく肩を上下させ、次いで、恥ずかしさをぶつけるようにキッとベルトルトを睨む。
しかし、彼の気の抜けたような表情に、勢いを削がれてしまった。
「……呆れているの?」
「いや、違う。あなたが……」
「私が?」
ベルトルトはジルをじっと見下ろしている。
しかし、ふいっと顔を背けて、代わりにと言わんばかりに檻を見せてきた。
中にいるのは、あのコウモリである。
「他の者と契約した痕跡も、スパイの可能性もないだろう。……本当に、契約するんだな?」
「ええ。私を助けてくれたのよ、見捨てるなんてできないわ」
中でキラキラした目を向けてくるコウモリに微笑む。すると、頭上から小さなため息が聞こえてきた。
「わかった。俺は外で待っているから、ソフィアに手順を聞いてくれ」
「あら、ベルトルトは外に行ってしまうの?」
てっきり見守ってくれると思っていたので、少し寂しい。
「…‥少し事情があって」
ベルトルトは気まずそうに、また目線を逸らした。
「そう。わかったわ。終わったら呼ぶわね」
ジルの言葉に頷いて、ベルトルトは部屋の扉を開けた。ふと、疑問が頭をよぎる。
「そういえば、あなたにはいないの? ペットというか、使い魔のような存在は」
「いないな」
「ほしくないの?」
「……ほしくないな」
魔女は使い魔がいると便利だと言っていたが、だからといって欲しくなるかは別らしい。
かくいうジルも、便利だからという理由では選んでいない。
「ところで、名前はもう決めたのか?」
「ええ! モフモフでまんまるな黒い身体がかわい――」
突如、ジルの足下に魔法陣が浮かび上がった。紫色の光と共に風が舞い上がり、身体中を巡っていく。
ベルトルトへと振り向けば、檻の中で魔物が紫色の光に包まれていた。
全身の毛が逆立ち、胸の奥がドクリと動いた。何かと何かが繋がったような感覚がする。
光はあっという間に消え、激しい倦怠感に襲われたジルは足から崩れ落ちた。咄嗟に伸ばされたベルトルトの腕に支えられる。
「まさか……」
冷や汗を一筋垂らして、ベルトルトがコウモリに警戒の眼差しを向けた。
「ジル。出血した記憶は?」
「ないわ。あっ! そういえば、落下した檻を受け取った時に、この子の口が指に触れていたわ」
思い出したと手をポンと叩く。
すると、ベルトルトは頭を抱えてため息をついた。
「……なるほど、それで見たことがないはずのレセーヴルの長へ化けることができたのか」
「もしかして、触れた時に血を飲んでいたってこと?」
「恐らく。そして、あなたが言った言葉のうちどれかを名前だと認識したようだ」
「えっ」
おりの中へと目を向ける。先程の慌ただしさが嘘のように、コウモリは檻の中であくびをしていた。
「……モフモフ?」
「ワンッ」
ベルトルトと目を合わせる。
「今、犬の鳴き声をだした……わよね?」
「コウモリの声は人間には聞こえない。そのことを察して、口の中を犬のように変化させたんだろう。この子は変化が得意のようだからな」
「へぇ〜器用ね」
ジルはコウモリ、いや、モフモフを檻から出し、そのかわいらしい顔を眺めた。
「……別に吸血鬼も変化くらいできる」
横から聞こえてきた不貞腐れたような声。
ベルトルトの顔を見てみると、面白いことに、耳を真っ赤にさせて横を向いていた。
「もしかして、やきも――」
「ジル」
「な、なに?」
「とにかく、予定とは違った形になったが、契約は成功したらしい。おめでとう」
そう言って、ベルトルトは立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
実を言うと、彼は普段の動きが遅い。ゆっくりしているというか、のそのそとしているというか、とにかくのんびりとしているのだ。故に、競歩の勢いで歩く姿は初めて見た。
「もしかして、彼って照れ屋さんなの?」
「女性経験もまったくありませんからねぇ」
お淑やかな微笑みを浮かべているが、声色は愉快そうである。
「意外だわ。彼、その、モテそうだもの」
「あらあらあら! ついにベルトルト様のことをお好きになられましたの?」
「そっ、そういう話じゃなくて!」
「ふふ、わかっておりますよ」
この、なんでも見通していそうな、余裕のある目を、ここの使用人たちはなぜ頻繁に向けてくるのだろう。
ソフィアは不満そうに唇を尖らせるジルの前にハーブティーを差し出し、話を続けた。
「確かに、ベルトルト様はたいそうおモテになっていました。見た目、地位、能力、マナー、すべて申し分なしどころか、理想を超えるレベル。無口ではありますが、そこがまたクールでいいと、吸血鬼の女性たちの間で話題でした。もちろん、今もそうです」
「なら、婚約の話も来たんじゃない? 人間の貴族の話だけれど、かなり若い頃から婚約することが多いらしいもの」
「ええ。彼もそうでしたよ。しかし、誰に対しても無反応で」
ソフィアは困り笑いを浮かべた。その時、また扉がノックされた。
「……おやすみ」
「えっ、あ、おやすみなさい……扉を開けずに行っちゃったわ」
思わず振ってしまった手をおろす。
すると、ソフィアがクスッと笑みをこぼした。
「だから、こうしてジル様に、ふふっ、一緒賢明話しかけている姿がいじらしくて、面白いのです」
確かに、彼はどこかいじらしいと思う。ジルは同意の印に笑みをこぼした。
もしかすると、
「そういえば、この子にはどのような名前をつけるおつもりだったのですか?」
ソフィアの質問に、ジルは待っていたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
「シュヴァルツエーデルシュタインシルトよ!」
「黒い宝石盾……」
ソフィアがはっと目を見開く。
モフモフでまんまるな黒い身体がかわいいから、せめて逞しく育つようにという願いをこめたのである。
「シュヴァルツ……」
「エーデルシュタイン、シルト」
「……いいですわね。採用できなかったことが悔やまれますわ」
ジルとソフィアは、二人してグッと拳を握った。




