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10話 10秒で解ける魔法の時間

「美味しいお菓子を食べて、ホットワインをのんで、いろんなお店を見て回って、とっても楽しいわ! ありがとう」

「そう言ってもらえて何よりだ」


 日が傾き始めた空の下、ジルは満面の笑みを浮かべた。ベルトルトが眉を下げて苦笑する。

 今は本屋の近くに置かれていた椅子に座り、小腹を満たすために薔薇の砂糖漬けを齧っている。


 本屋、仕立て屋、靴屋、装飾店、カフェにレストラン、酒場。行っていない所もあるが、町には様々な店が、住宅と共に立ち並んでいた。本当に、人間の町と大差ない。

 とはいえ、日傘やベール同様、面白い発見はあった。他の店と比べて明らかに大きな歯医者があったり、爪とぎ専門店があったりしたのだ。どちらも、彼らが持つ鋭い牙や爪を手入れするためなのだろう。ベルトルト曰く、人間より鋭い爪を持っているのではなく、伸びる速度が早いということらしい。

 また、ワインや薔薇をよく見かけた。そのため、町に吹く風はほんのり葡萄と薔薇の香りがする。風に色があったなら、きっと、淡いピンク色だろう。


「吸血鬼は薔薇とワインが好きなの? それとも、パウル家が薔薇と何か関係があるのかしら」

「……そうだ。吸血鬼にとって、薔薇とワインは大切な存在なんだ。……ある意味、人間にとってもそうかもしれないが」


 どこか含みのある物言いで、ベルトルトは花弁を飲み込んだ。艶やかな唇の奥に真っ赤な花が消えていく。その様が扇情的なのか、言葉にはゾッとする怖さがあるのに、ジルは不思議と彼を見つめてしまっていた。


「どういうこと?」


 突如として我に帰ったジルが尋ねる。

 すると、ベルトルトは花弁をもう一枚手に取り、ジルの前へと差し出した。


「これは、人間と平和に暮らす鍵になる」

「表現が曖昧だわ。そうする理由があるの?」


 不満で唇を尖らせる。ベルトルトは眉を下げたまま、小さく頷いた。


「今はまず、この町を楽しんでほしい。そして、できれば……」

「できれば?」


 すっかり口を閉ざしてしまったベルトルト。理由がわからず、ジルはただ彼を見つめた。

 彼はよく、こうして言葉を詰まらせる。何か言いたげなのに、悲しそうな表情で、また、自分を責めるように、眉間に皺を寄せるのだ。

 程なくして、伏せられた彼の睫毛が上がった。


「オルゴール」

「えっ、オル、オルゴール?」


 混乱のあまり、発せられた単語をただ繰り返す。

 それは、ジルがよく知る機械仕掛けの演奏装置のことだろうか。はたまた、誰かの名前だろうか。

 ベルトルトは薔薇を片付け、ベンチから立ってしまった。

 そうして着いたのは、他よりはまだ塗装が新しいオルゴール博物館だった。すぐ隣に建てられた小屋では、商品用のものが売られている様子。


「……オルゴールは嫌いだろうか」

「い、いいえ。どちらかと言えば好きだったわ」

「好きだった?」


 ベルトルトの問いに、今度はジルが言葉を詰まらせた。

 自分が言った通り、ジルはオルゴールが好きだった。構造を知っているわけでも、種類や歴史に精通しているわけでも、コレクターのように集めていたわけでもない。

 父がどこかからお土産として買ってきてくれた、オルゴールの宝箱。この一箱が、お気に入りだったのだ。

 古びたデザインと、少し錆びた金の装飾、中心に控えめに着けられた名前もわからない赤い宝石が、不思議なことに、幼心を掴んだのである。

 故に、初恋のあの人にも見せていたのだ。


「……少しだけ、嫌な記憶を思い出すから」


 ぽつりと呟く。すると、握っているベルトルトの手に、ほんの少し力がこもったような気がした。


「すまない。……本当は、ここに連れてくるつもりはなかったんだ」

「話題を変えたかったんでしょう?」


 ベルトルトが項垂れたまま頷く。あまりのしょぼくれ具合に、垂れ下がった犬の耳と尻尾が見えそうだ。吸血鬼というより、狼人間、いや、犬人間である。


「あなたって、秘密が多いくせに素直よね」


 ジルはふっとため息をつくように笑って、博物館の中へと入った。背後から「あっ」と驚く声が聞こえたあと、足音が追いかけてくる。いつものことだが、声も足音も、気配が感じられないほど小さい。


「こうして久しぶりに見てみると、やっぱり素敵だと思うわ」

「嫌じゃない?」

「オルゴールに罪はないもの。あっ、あれを見て!」


 飾られたオルゴールを落とさないよう、早歩きで前に進む。その先には、小さなシリンダーオルゴールがぽつんと置かれていた。この博物館の中で一番とはいかなくとも、なかなか年季が入っている。櫛歯コームはところどころ変色していた。

 近くに置かれていた専用のハンカチを手にして、レバーに手をかける。慎重な手つきでモーターを巻くと、ゆったりとした金属音がかわいらしい音楽を奏でだした。


「この曲は……」

「私のお気に入りの曲よ。何度も聞いて見てきたから、譜面を見ただけでわかるようになったの」


 小さな宝箱による演奏は、十秒にも満たなかった。それでも、自分だけのオーケストラを見ているようで、ずっと聞いていられるような気がしたものだ。


「オルゴールって、地味と言えば地味なのよ。だけど、一音一音が大切に感じられて私は好き。それぞれが主役……みたいな? うーん、上手く説明できないわ」


 ジルは情けなさそうに笑ってみせた。イタズラがバレた時に見せる、バツの悪そうな子どもの表情にも似ている。


「俺も好きだ。……一音聴いただけでも、命が宿っているように思える」

「そう! そうなのよ。あっ、もちろん、楽器で奏でる音楽や、歌も好きなのよ?」

「わかっている」


 ベルトルトは子をあやす親のように苦笑した。

 二人で何度かモーターを巻き、言葉を交わさずに聞き入る。

 それは、事件が起こる前の、純粋にオルゴールを楽しんでいた感覚が戻ったような、穏やかで、幸せな時間だった。



 引き続き、いくつものオルゴールを見て回り、果てにはお土産も買ってもらい。ジルたちが博物館から出た時には、入館前から約二時間も経っていた。あと少しで夕暮れ時が始まる。

 ジルはオルゴールの入った箱を嬉々とした瞳で見つめた。ふと、ベルトルトへと視線を向ける。


「本当に、これをもらっていいの?」

「ああ。俺が渡したいから買ったんだ。あなたが気にすることはない」


 安堵させるような彼の微笑みに、ジルの口角がゆるゆると上がった。胸の奥が温かくて、幸せな心地がする。


「ありがとう」


 心の底から正直な気持ちを伝える。

 その時、ジルの目が何かを捉えた。ベールに遮られて上手く見えないが、動物の絵が描かれた看板だろう。


「ねぇ、あれはなんの――ベルトルト、様?」

「見なくていい」


 突然、ジルの視界はベルトルトの片手によって完全に覆い隠されてしまった。耳のすぐ隣から、指先と同じく冷たさを含んだ声が聞こえてくる。


「あんなもの、あなたは見なくていい」


(あんなもの?)


 心の中で頭を捻る。また、新たな隠し事だ。

 視界は真っ暗のまま、抱き寄せられるようにジルの身体が方向を変える。

 手が離れたかと思うと、やはり、先ほどとは別の方向を向いていた。

 ふと、彼の手が微かに震えていることに気付く。


(きっと、本当に見てほしくないものなんだろうな)


 ジルはそっとベルトルトの手に触れた。彼の指先がピクリと動く。


「わかったわ。見ないから安心して、ね?」

「……すまない」

「謝らないで」


 「めっ」とややふざけた調子で、人差し指を彼へと向ける。ベルトルトはまた、捨てられた子犬のような顔をしていた。


「町を楽しむなら、あなたも楽しんでくれていないと。謝らないでいいから、残りの時間を楽しみましょう。そうね、例えば……あ! あのお店はどう?」


 ジルが指をさしたのは、何やら奇妙なオーラを放つ、紫色のド派手な小店だった。外側からは、何が売られているのか検討がつかない。

 しょんぼりしたままのベルトルトの頭が、店に近づくにつれて上がっていく。

 そして、はっと顔をこわばらせた。


「待ってくれ、もしかしたら、そこは――」

「きゃっ!」


 カーテンを捲ったジル。

 その前に、一輪の青薔薇が差し出された。

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