0話 私を助けたのは、大嫌いな吸血鬼
大好きな母は、初恋の人に殺された。
少し気が弱いけれど優しくて、控えめな笑顔がかわいくて、ありとあらゆるものに目を輝かせる、無邪気な少年。それらはすべて、見掛け倒しだった。噓だった。
吸血鬼。それが彼の正体であり、母は、彼に血を吸われて死んだのだ。それも、自分が見つめるすぐ先で。
以来、ジル・ローゼンシルクは吸血鬼を恨んでいた。今は、対吸血鬼組織を立ち上げた父の元で、仲間たちと共に日々、鍛錬に明け暮れている。
殺す準備はできていた。それなのに。
(どうして、どうして私は、彼らから逃げているの?)
月の光だけが照らす、木々に視界を遮られた細い山道。
ジルはリボンの解けた黒髪を振り乱し、息を切らしながら、駆けてきた暗闇を振り返った。
「ひっ」
髪と同じ黒曜石の瞳が捉えたのは、赤く蠢く光。
ただでさえも痛んでいる胸が、ドキリと跳ねた。
「どこに逃げるんだい、お嬢さん」
「いいにおいを振りまいて。そんなに息を漏らしては、すぐに見つかってしまうよ」
口調は丁寧だが、声色はジルをからかっているように思えた。
クスクスと聞こえてくるのは、木々が風に揺れる音か、愚かな獲物を嘲笑う彼等の声か。
どうせ、手加減して追ってきているに違いない。その証拠に、彼らは息一つ上がっていなかった。
(こんなのおかしいわ! 私は確かに、この手で銀の銃弾を撃ち込んだはずなのに!)
夢では、何度も彼らを殺してきたというのに。
この森に足を踏み込んだことが間違いだったのだろうか。しかし、自室の窓から不審な人影が見えては、放っておくことなどできなかったのだ。
自宅付近で起こった、吸血鬼による連続殺人事件。
その被害者に、友人が一人、含まれているのだから。
「キャッ!」
ついに、足がもつれてこけてしまった。
振り向いて見えたのは、ギラギラと目を輝かせながら近づく吸血鬼が二人。
「追いかけっこはもう終わりかい?」
「人間はやっぱり、弱っちいねぇ」
愉悦に歪められた唇の隙間から、熱い息と共に鋭い牙が覗く。
ジルは全身が震えだし、貼り付けにされたようにその場から動けなくなってしまった。
恐ろしいのに、目が離せない。本能が、圧倒的な捕食者の存在を感じ取り、警鐘を鳴らしている。
「久しぶりに新鮮な乙女の血が飲めるなぁ」
「しかも、この地域でなんてな。背徳感がいいスパイスになりそうだよ」
「やめっ」
死人のように冷え切った指先が、ジルの頬を掴んだ。
その時。
「――汚い手で、俺の愛しい人に触れるな」
バサリと羽音を立てて、誰かがジルの背後に降り立った。
吸血鬼たちがハッと目を見開き、後ろへと飛び退く。
誰かがジルを優しく抱き上げたかと思うと、二人はより瞠目した。
(と、取り敢えずは、助かったのかしーーッ!?)
震えを落ち着かせて、一つ息を吐く。その息は、再び喉の奥に吸い込まれていった。
月光に透ける白い髪と、血より鮮やかな深紅の瞳を持つ、恐ろしいまでの美青年。
自分を見下ろしている者もまた、吸血鬼だったからだ。
そして、ふと思う。
先ほど彼は、なんと言っていただろうか。
「どうしてあなた様がここにーー」
困惑の色を滲ませた吸血鬼の声が耳に届く。その時には、視界がぐにゃりと捻じ曲がっていた。
頭の中で、どうしてと呟く。
青年の髪と瞳の色は、あの人と真逆だった。そのことに、不安と安心の両方を感じるなんて。