後宮入りの日
後宮を舞台とするため、しばらく、ヒーローの出番が減ります
その日は、麗霞の後宮入りを祝福するような、晴れやかな青空の日だった。
明玉は、家族と婚約者に「行ってきます」と笑顔を向けて、楊家の行列に合流した。
洛陽城は都の中央に高くそびえ立つ、円形状の建物である。他の建物より一際高い、5階の作りであり、先に行くほどやや先細る。黒い屋根は重々しく、先端には皇帝の威光を示す金の飾りが大きく輝いている。真っ白な漆喰で支えられた壁は、赤く塗られた木の柱で支えられているのだが、機能的なだけでなく、城下では決して見ることのない複雑な模様が織り込まれていた。
建物の土台や、建物をぐるりと囲むように作られた塀は、人の胸の高さほどまではどこから運んできたのか石を積み上げて造られている。これは一説には、騎馬が容易に飛び越えられない高さを確保したものだと言われる。洛陽が戦禍にあったのは、先の王朝が滅んだ100年ほど前の話であるが、今の都にはこうした歴史の跡が少しずつ残っているものなのである。
城下と城をつなぐ門には、当然警備のための門番がおり、楊家の行列は止まっては進みを繰り返した。これが本殿のある敷地に入るための最後の門だ。
首の詰まった左前のボタン留めの上着に、袴姿の武官が多い。衣の色は青が多いが緋色が混じる。高級官僚だ。
書類上の人数や荷物の数と、一致していることを確かめたのだろう。
やがて、先頭に武官が声をかけて、行列はまた前に進み始めた。
ここから先は、麗霞も徒歩だ。8人がかりで担がれていた輿からしずしずと地面に降り立った。
明玉は、麗霞の斜め後ろを歩くことになっていた。
麗霞の姿がよく目に入る。
このまま皇帝に謁見するわけではなく、単に後宮の用意された部屋に移動するだけの話なのだが、ここに楊家の麗霞ありというのを後宮の外に見せつける。噂が噂を呼べば、政治も動く。この行列は、そういう場なのである。
未婚を示すため、髪は敢えて降ろした状態で一部のみが飾り編みをされている。
その髪に挿された色とりどりの花々が匂い立つ。顔よりも大きな牡丹の花は、明玉が付けたら異様に見えるだろうが、麗霞が付けると正に花の精といった雰囲気だ。額に描かれた花模様も美しい。
華やかな紅と桃色の襦裙は、襞も通常より多くとられ、薄い生地が歩を進めるごとに舞う。まるで、麗霞の周りだけ風の精霊が纏わりついているかのようだ。
麗霞はいつも、舞っている。
袖は垂れ下がるほどに太い。何枚も薄布を色を変えて重ねることで、目を引く動きを作り出していた。
同性で、斜め後ろから見ているだけの明玉ですら、見とれる。楊家に美しい娘あり、と耳にしていた官僚たちもいるだろうが、ほとんどは初めて麗霞を目にする。無表情に歩くその姿ですら、不用意に視線をやれば、そのまま囚われて目が離せなくなる。
麗霞の近くにいる明玉には、紫、緋色、緑、青色――様々な色の服を纏った男たちが、まるで時が止まったかのように動きを止め、麗霞を目で追う様子が手に取るようにわかった。
ちなみに、明玉は 淡い薄い緑色の襦裙――麗霞からもらった新品ではあるものの、高校の時着ていた服とさほど変わらない格好である。違いは、低い位置にまとめた髪に刺された薄緑色の蘭の造花と、下衣を結ぶ帯の位置を胸元ではなく腰の近くまで下げていることぐらいだろう。目立たないの代名詞、これぞ空気、背景! という感じであるので、逆に周囲の官僚たちから視線を受けることなく、緊張せずに動くことができたので助かった。
(そっか…)
科挙の最終試験、省試の時の緊張が思い出された。
全身を締め付けるような圧迫感が、明玉に息をすることさえ忘れさせた。
今ならわかる。
数年にひとりしかでないという、女性の省試の受験者ということで、明玉は受験会場に入る時から、奇異の者をみるような、あるいは計るような視線に晒された。それが明玉には重かった、ということなのだろう。
後宮へと続く道を歩き、やがて門へとたどり着く。
ここから先は、荷を運ぶために来ただけの者は入れない。麗霞とその世話役だけが、門をくぐる。そして、明玉以外は、死ぬまでこの門から出ることはない。
明玉には後宮の門がひどく恐ろしいものに見えたが、麗霞を始め貴族の娘たちは、そんな素振りを見せなかった。
門の中に導かれるまま、速度も変えずに門を潜っていく。
案内された建物は、後宮の中に6つ建てられた宮の内の一つである。
宮の主は、皇后がもしくは側室の中でも位が高い四夫人となり、それ以下の側室や世話役は、各宮に配置される。後宮の中は、官僚と同じく位が厳しく定められた縦型の組織だ。当然、宮の主に嫌われれば、行き場失うわけだが、一方で他の宮の主に気に入られて、宮を移ることもできる。様々な思惑が交錯しながら、後宮内の人事というのは決まっていくわけだが、麗霞がまず案内されたのは、四夫人の一人で徳妃の位を持つ雹華の宮だ。
(妥当かな…)
と、明玉は内心で呟いた。
これでも科挙挑戦者だ。名門と言われる家の格については大体頭に入っている。
家の格というのは、家の歴史の長さともいえる。入宮の日に、皇后の宮にいきなり入れるには、楊家の格はやや足りない。かといって、四夫人にとって麗霞は取るに足らない娘ではない。時を忘れさせるような、この美貌だ。
後宮の中は、官僚と同じく位が厳しく定められた縦型の組織だが、皇帝の寵愛という逆転要素が絶対的かつ不確定要素の強い昇進競争でもある。
麗霞は、皇帝の目に留まれば、一気に地位を逆転するような、そんな予感を感じさせる美女だった。
そんな彼女を手元に置きたいと思える豪気な夫人は少ないだろう。
今、皇后以外で皇子をあげているのは、王徳妃と武恵妃のみ。そして、今、皇帝の寵愛を一身に集めているのは皇后ではなく、武恵妃と言われている。武恵妃が麗霞を呼ぶ理由がない。
後宮の建物に吸い込まれるように、一行は進んでいった。
(本当に、女性だけだ…)
と遠目に見えた人影に、そんなことを考えていたら、集会場と思しき部屋に到着していた。
古参の宮女と思しき女性たちが立ち並び、礼で麗霞を迎える。
彼女たちの格好に、思わず明玉の目は、あるところに向かってしまった。
後宮の中の服装は、かなり自由だ。位は厳格にあるものの、外部の官僚たちと異なり、位によって衣服の色が定められているわけではないため、珍しい色、華やかな色を競って、妃たちは着飾る。世話役たちも、妃たちほど着飾ることはないが、色に関しては自由なものだ。
そして、男の目がほとんどないという環境下のためか、胸元が広い。生地が薄い。
(え、それ、わざとなの?)
って、ツッコみたい。
この厳かな空気の中で、できないとわかっているけれども。
親の地位や、後宮の中で初めに本人が受ける地位に関わらず、入宮する者は、身体検査を受ける。
一人ずつ服を脱ぎ、審査官となる宮女の前に立たされるのだ。通常は宦官も同席するはずだが、姿が見えないのは楊家の圧力か。
一番初めに、明玉が呼ばれた。
既婚者扱いの明玉に対しては、病や不審なものを持ち込んでいないかという意味しかないから、検査は最も軽い。
服を脱ぎ落していく。
背後からは視線を感じないのは、みな行儀よく視線を落としているのだろう。
首元の紐にかけた指輪に、
「これは?」
と年かさの宮女が指をかけた。
指輪自体は装飾品のひとつだから持ち込みを禁じられているわけではないが、首にかけておくのは珍しい。
仕掛けがないことを確認したのだろう。一瞬、指輪が引っ張られた感触があった。
「指輪です。婚約者からもらったものでーー西の国では、結婚の証になるもので、妻が夫から送られた指輪を身に付けます」
明玉が既婚の立場であることを強調するために、指輪は敢えて首元にかけたままにしていた。
「貴方のお相手は、西の国の人だと」
「西と行き来をしている商人です」
「わかりました。結構です」
明玉が部屋の隅で、服を身に着け直しているうちに、別の世話役が服を脱いでいく。
淡々としたものである。
だが、明玉と異なり、名目上は妃候補となる女性たちの身体検査は、身体に傷がないか等も見るので時間がかかる。
服を身に着けた明玉は先に部屋を出るように促され、あとのことは分からない。
別室で検査を終え、運び込まれる荷物を受け取り、麗霞のために部屋を整える。
麗霞の家の部屋より、麗霞に用意された部屋は小さかった。正三品の婕妤として招かれた待遇であっても、後宮は新参者に厳しいらしい。
持ち込んだ荷の中でも、茶器と茶葉を先に出した。笛や琵琶は麗霞の得意とするところであるが、場所を考えると好きに演奏はできないので、出すのを躊躇う。
(…音は、ちょっとなぁ…)
楊家からは、美しい音楽がひっきりなしに聞こえると、洛陽ではちょっとした評判なのだが、後宮でそれが許されるかわからない。
代わりに、不用意に荷物を広げるのを諦めて、極力、端に積み上げた。
麗霞が舞いたいと言えば、少し動ける程度の空間は確保し、すぐに休めるように寝具を準備する。
後宮の門を潜ったのは昼前だというのに、明玉が待つ部屋に麗霞がやってきたのはもう日も暮れる頃であった。