甘い求婚に未練あり
「好きにしなさい」
両親にも言われたものの、後宮入りまであと数日。結婚の式を挙げている時間などない。
「というか、婚約でも同じ扱いになる、と書いてあるが」
という麗霞から明玉の両親への手紙の一文もあり、婚約だけ済ませて明玉は後宮に行くことになった。
頭を抱えるアンドリューの背を光龙 が叩いていたが、細かいことは気にしない。
「きちんと、六礼の内、 納徴までをしておくべし、だそうだ。仲人も準備すると書いてある」
六礼とは、唐の時代よりずっと昔からある、この地域での婚約の儀式である。
「なんでしたっけ…」
流石に西の暮らしの長いアンドリューは、ぱっとは出てこない。
仲人を立て、仲人に礼物を託したり、占いをしたり、また礼物を送ったりする行事なのだが、要は仲人が男女の家を行ったり来たりして礼物と互いの家の意向をやり取りするのである。家格を重視する家ににとっては、この六礼は非常に厳密に行われる。
男女の家を行ったり来たりするのは仲人なので、実際に結婚する本人たちは、結婚の日まで互いに顔も知らないということもあるのだ。
「うわめんどくさい」
科挙の関連で儒学その他こういったしきたりを叩きこまれている明玉ですら、自分のこととなるとこの発言。根っから庶民である。
「お父さん、手紙みていい? …って、準備いい…! 明日には納采始められるって」
納采とは男の家が、仲人に礼物を託す儀礼のことである。
アンドリューがその当たりの儀礼に明るくないことまで想定したのか、しっかり礼物の手配までされている。アンドリューが礼物を回収して家で仲人を迎えれば済むような手配ぶりだ。
こうなると、もはや儀式と言うか、業務の処理である。
こうして、楊家の指示通りに動くこと3日、 無事婚約完了となり、
(全然、実感がわかない。というか、甘くない!)
とは明玉もアンドリューも思うところだった。
後宮入りまであと3日。
ようやく二人きりの1日逢瀬の時間がとれた。
「いや、なんかもう疲れたね」
「怒涛の日々ってこういうことをいうんだな」
と明玉のため息にアンドリューも頷いた。
二人が出てきたのは、洛陽にある私設市場のひとつである。約束通り手を繋いで、ただ歩くだけでも楽しい通りを歩く。
道行く人々は、漢服が多いが、一目で異国とわかる服装の者もいる。顔を見ると異国らしさがないので、面白がって異国の服を着ている人も多いのだろう。逆に、明らかに幻唐国のご出身ではないですよね? と言いたくなる彫の深い顔立ちの青い目の方が、しっかり幞頭式に黒い布を冠のように頭に巻いて、完ぺきに官服風の衣装を着こなしているのを見ると、世の中って広いなと思う。
(いや、狭いのか…?)
幻唐国の都洛陽から、絹の道の西端までは2万里以上の距離があるという。馬に慣れた男なら、荷物がなければ馬で1日100里進めるだろうか。絹の道を端から端まで移動する猛者は少ないのだが、1年という月日をかければ移動できる計算なので、やってやれないことはないようだ。
(そうだった…)
そもそも、明玉の隣にいるこの男など、行って帰ってきたのである。
「さて、まず何を見たい?」
とにこやかに言うアンドリューに、 明玉は
「甘いの食べたい!」
と答えて、二人は蒸し菓子を扱う屋台を目指した。
柔らかな甘みのある生地に
「あつっ」
と言いながらも、明玉の表情が綻ぶ。
「へぇ…棗が入っている」
アンドリューも気に入ったようだ。
「でも、むらがあるな。というか、光龙 、料理人にでもなるつもりなのか?」
光龙 の作る蒸し菓子は、形も凝っていたり大きかったりするのに、見事にいつもふかふかできめ細かい。
「あれは趣味なんだって」
「やっぱりオトメンか」
「オトメン?」
「乙女、にMen…西方の言葉で男」
「ぴったり!」
と二人は笑い合った。
「絹のお店、みる?」
「魅力的なお誘いだけど今日はやめておくよ。仕事モードになりたくないし」
「そう?」
アンドリューの仕事モードとやらはかっこいいのだが、見られなくて残念だ。
「それより簪を見に行こう。後宮で使えるだろう?」
”既婚”で通すのだから、明玉は着飾る必要はない。着飾らないほうが安全だ。とはいえ、簡素なものをひとつぐらい、婚約者からもらったと言ってつけていてほしい。
アンドリューの要望に、ちょっと、婚約者からもらったと触れ回るのは恥ずかしいな…と思う明玉ではあったが、彼が明玉を想ってくれていることは分かる。ちょっと照れながらも、明玉は頷いたのだった。
簪を扱う店をゆっくりと二人で、手をつないだまま見て回る。
金を伸ばして造形した大きなもの、小粒を繋ぎ合わせて顔の横に垂らせるようにしたもの、淡い緑の玉を磨いて削りだしたもの、布を使って造花にしたものもある。
「これ」
と明玉が手に取ったのは、大きな牡丹の造花、ではなく、その隣にあった小ぶりな蘭の花を模ったものだった。通常、欄は白もしくは赤みのある色だ。だが、明玉が手に取ったそれは、玉のような淡い緑の絹でできていた。遠目で見ると、慎ましやかだが、石から削り出したように見えるだろう。珍しい染めだ。
「綺麗な光沢。それに軽い」
髪飾りがあまり重いと、一日中つけているうちに辛くなることがあるのだ。
「似合う?」
「似合うよ」
明玉は鮮烈な赤より淡い色が似あう性質で、淡い緑の花もまたよく似合った。
アンドリューが似た色の翡翠の飾りを手に取る。
「こっちはどう?」
「重いし…絹の方がいいな。聞かれたとき、アンドリューにもらったって話がしやすいもの」
絹の道をやってきた商人、絹を扱う商人だと言えば、明玉も簪をきっかけに彼のことを話題に上げやすい。どうせもらうなら、絹のもののほうが、彼からもらったものらしい気がした。
アンドリューが口元を抑えた。
「?」
「あー、うん、それにしよう」
店の主人も居合わせた他の客も、初々しい二人をニヤニヤとみているが、これは責められるものではないだろう。囃し立てられないだけ、客層が良い。
店を出て、また通りを歩く。
一通り見て歩いた帰り道、アンドリューは寄り道をしたいと言って、人気のある道を外れた。大きな道は人通りが絶えないが、大きな道と道を繋ぐ細い道は、時間によっては人が絶える。手を繋いで歩いていたのだが、
「ちょっとここで、渡したいものがあるんだ」
とアンドリューが足を止めた。
彼が懐から取り出したのは、布の小さな袋――に入った、環状の金属だ。
(指輪…?)
だが、 環の部分は模様の刻みがなく滑らかで、代わりに一か所に装飾の石が付いている。幻唐国でよくみられる指輪の形ではなかった。
装飾の石は大きな玉のようで、こちらもつるりとしている。
「西の国では、婚約の時に女性に指輪を渡すんだ。円は不変、永遠の象徴で」
と、アンドリューは少し躊躇った。
「愛の証と言われてる」
とくん、と明玉の心臓が鳴った。
「手、貸して」
と言われるがままに明玉が差し出した左手の薬指に、指輪が通された。
その手を包み込むようにアンドリューの手が添えられる。とくとくと心臓が鳴り止まない。
「僕と、結婚しよう」
「――はい、喜んで」
やっと返事がもらえた。とアンドリューが笑った。
指輪をつけて生活したいのは山々だったのだが、幻唐国では指輪をつけて生活する習慣がなく、後宮に置いては完全に別の意味を持つ。天子様の通いがあったとか、通いを受けられない体調であるとか、そういうことを暗に示し、また後宮の管理者に知らせるために材質を変えて使い分ける装飾品なのだ。明玉は指輪に紐を通して、首元にかけた。かけた瞬間にはずっしりと重みを感じるが、直に馴染んで何も感じなくなる。
明玉の後宮入りまで、あと二日となっていた。
これで求婚編は完結しまして、明日から後宮に突入します。
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