同級生に、傾国の美女
科挙の合格者は、試験場に張り出されるから、実際のところ、誰が合格したか――つまり、誰が落第したかは、誰でもわかる。
高校の教師たちにもすでに結果は伝わっているはずだが、やはり礼儀というものがある。明玉はすでに卒業式を終え、休みに入っている高校へと足を向けた。職員室に入り、落第だったことを告げると、教師は肩を落とした。
「お前さんならいけると思ったんじゃが…」
明玉の作文を何度も見てくれた教師だ。
庶民階層出身の科挙通過者でもある。
「たくさん見ていただいたのにすみません」
「いや、きっと作文のできは良かったはずじゃ。他の教科が今年は特に難しかったのかのぅ」
と慰められて、
「この後は、どうするんじゃ?」
とお決まりの質問。
友人の伝手で、商家で働くと言えば、
「アンドリューか」
と面白そうに言われてしまった。
2か月も経たない程度の時間だが、一応、この学校に通っていたわけだし、明玉といる時間も長かった。何より、異国の血が強いのでやはり目立つのだ。明玉をしっかり捕まえていることも、すでに学校内では有名である。
「お前さんならどこでもやっていけるじゃろう」
と言われて、面談終了。
明玉は3年通い続けた校舎を名残惜しみながら後にしようとして――できなかった。
職員室を出るなり、明玉は一人の女性に出くわした。
明玉と同じクラスにいた、麗霞である。
彼女ほど視線を惹きつける人もそういない。
大きな切れ長の目、輝く雪のような肌、佩いた紅の色は色香を滲ませる。絵に描いたような均整の取れた美しい顔立ちであるが、首はほっそりと細い。やや広めに胸元を開けた襦は、上半身に着る丈の短い薄手の着物の一種だ。前合わせではなく襟をまっすぐと降ろす着方である。最近は特に胸元を広げる着方が人気なのだけれど、細い鎖骨がはっきりと露になり、その胸元も危うい。それをふんわりとした裙――つまり下半身を隠す末広がりの筒状の衣服で隠すのだが、胸元まで引き上げる着方のその絶妙な位置が、厭らしくはないのだが同性でも絶対に目が行く位置になっている。日常で着るにはやや贅沢な太筒の袖と、胸元を締める帯からでた紐と、薄い布を二重に重ねたうえで作り出した贅沢な襞が揺れる。
麗霞は常に舞っている。
音楽と舞に秀でていた彼女は、所作のすべてが優雅だ。
間違いなく、この学校の一番の美人。天子がおわす、この洛陽の中でも際立った美人だ。
貴族の彼女は、学校卒業と同時に後宮入りが決まっていると聞いていた。だから、それほどの美人でも気安く近づく者は少なかったはずだ。
そんな女性がなぜ、学校に?
不思議に思いながらも、軽く礼をして彼女の前から立ち去ろうとした明玉を呼び止めたのは麗霞だった。
「明玉、久しぶり。試験、お疲れ様」
麗霞の口調は、明玉が想像していた者とは違う砕けたものだった。貴族と言っても、格式がさほど高くない家の出身である麗霞の素なのだが、明玉にとっては頭が理解を拒絶するぐらいに衝撃だった。
(あ、あれ…?)
すっごい違和感。
思わず足が止まる。
「ありがとうございます…?」
挨拶しない程礼儀知らずでもないので、ひとまず礼を述べて見るが、麗霞の目の前で足を止めたのは失敗だった気がする。
いや、もう、見れば見るほど綺麗な人である。
と、思考が持っていかれていたため、
「すこしここに居たんだけど、その様子では科挙は今年はダメだった? 合格なら今頃職員室は宴会でしょうから」
という、聞きようによっては失礼な台詞すら、
「そうなんです、残念ながら」
と普通に頷けてしまう明玉だった。
美人は特だ。
「それは残念ね」
特に憂い顔を作られると、明玉ですら「なんか、すみません!」という気になる。
「記念受験のようなものなので! 落ち込んでません! お気になさらず!」
だからその憂い顔はヤメテ!
「あら、そうなの? 私は、明玉なら合格すると思ったのに」
「ご期待いただいていたのに申し訳ないです…」
「ふふ、そんなに謝らないで。でも良かった。思ったより元気そうで」
ふんわりと笑った美女は、ものすごく美女だった。
というか、この3年間で今、これまでになく明玉は麗霞に接近している。こんなに言葉を交わした記憶などないのに、なぜ今声をかけられているのか。
混乱している明玉に麗霞が答えをくれた。
「私、もうすぐ後宮に入るでしょう? でも明玉が任官したら、会えるかもと思ったの」
後宮は男子禁制であり、後宮の事務は宦官が担うことが多い。女性の官僚と言うのは、今はいないが、後宮で事務を担うことは確かに考えられた。
ぽん、と両手を胸の前に叩き、思いついたとでも言いたげに、麗霞は歌うように言う。
「ねえ、いいことを思いついたの。ちょっと話したいから、うちに来ない?」
「え」
明玉はこの後、アンドリューと待ち合わせをしていた。まだ時間に余裕があるとはいえ、麗霞の家にお邪魔している時間はない。そして、麗霞の家は貴族だ。そんな家にお邪魔する勇気もない!
慌てて断ろうとした明玉だが、そこは貴族のお姫様。我を通すことに慣れていた。
「ほら、行きましょう?」
と明玉の手を取る。
「あの、この後」
「用事? 人を待たせてしまうなら、お土産を持たせて人を出しましょう。そうね…季節の果物と揚げ菓子、お茶も添えて、私から非礼を詫びるわ」
麗霞は後宮で生き抜くための教育を受けてきたのだ。人の心を操る方法、我を通す方法をよく知っている。自分の美貌がいかに武器になるかも、何処までの相手になら自分の身分が武器になるかも。麗霞の口調がすっかり、代わって、明玉はすっかりその勢いに呑まれてしまった。
校舎を出れば、麗霞の従者が6人も控えていた。お付きの女性が2人、武官が4人。屈強な武官に明玉は圧倒された。
後宮入りを控えているのだ。これでも少ないぐらいだろう。
そうして、あれよあれよと連れ去られるように、麗霞の家へ。手の込んだ形の揚げ菓子と果物がいっぱいに盛られた皿に、お茶も添えられて
「同じものを、アンドリューにも届けるわね」
と機嫌よくいう麗霞の前に座らされて、明玉はようやく我に返ったのである。
「ええっと、お話しってなんでしょう!?」
明玉の家とは比べ物にならない程広い屋敷の、明玉の部屋の何倍かな? と思う広さの客間で、お菓子を出されたところ落ち着くわけもなく、明玉は少々びくつきながら麗霞に話を促した。
「私と一緒に、後宮に入らない?」
と麗霞はにっこり、明玉に笑いかけた。
麗霞のにっこり、はなんとなく、決定事項的な圧を感じさせる。
「入らない? と言われましても…」
明玉は両親ともに商家に雇われているだけの庶民だ。後宮入りの条件をまず満たさない。
容姿だって、目立つほどのものではない。養女として欲しがる貴族もいないだろう。
「私の世話係としてなら、入れるわ」
明玉は正直に顔を曇らせた。
庶民である明玉は、後宮は夢物語の世界だと思っている。それなりの家柄と麗霞程の美貌があればまた別かもしれないが、自分が生きていける場所とは思っていない。
そこに一生、閉じ込められるのはごめんだった。
有力な妃候補は自分の世話係を何人もつれて後宮入りする。その世話係は、あわよくば天子様のお目に留まればという淡い期待をもって揃えられた、後宮入りの裏口なのである。
もちろん、多くの場合はただの下働きとして後宮で人生を終える。一度後宮に入ってしまえば、下働きであっても名目上は妃候補のひとりとして扱われるため、後宮から出られなくなる。
そんな明玉の思考などお見通しというように、麗霞は指を一本立てた。
「期限は1年。私の世話係として後宮から支給される俸禄と、私から払う給料があれば、もう3年ぐらい浪人できる。後宮とはいえ、宮廷の話も市井にいるよりは耳に入りやすくなる。書物に齧りつくより、科挙に利く勉強ができると思わない?」
都合のいい話に、明玉は麗霞を見た。
(期限が1年?)
一度入った後宮から出る方法など――
「妃候補としてではなく、”既婚”の私の世話係のひとりとして入れば、出られるわ」
後宮には乳母等、妃候補では務まらない役割の女性も、少数であるが必要だ。
麗霞は、その枠を使おうというのである。
明玉が今すぐ結婚する必要があるが、結婚してすぐ後宮に入ってしまうのだから、明玉が結婚する相手は名目上で構わない。後宮から出たタイミングで離婚するのも自由だ。なお、西方の一神教の国では考えられないことだろうが、幻唐国は離婚も多いし、再婚を国が普通に奨励しているので、初婚に特に価値があるかと言うと、微妙である。
「相手は必要なら私が用意するけど、ふふっ、それは彼に怒られそうね」
と、麗霞はいたずらっぽく笑った。
同じ教室にいたのだ。アンドリューが明玉に夢中なのは傍からもよくわかる。
「どう? 感想は?」
「引くぐらい美味しい話…?」
明玉に不利益が少なすぎて、逆に騙されている感がすごい。
1年で、3年遊んで暮らせる貯金ができるってどういうことだ。やはり王宮の権力怖い、貴族の財力怖い。
結論をだすには、時間がなさ過ぎた。
「流石に、彼を待たせすぎるわね」
と麗霞に促され、
「彼に相談してみるといいわ」
と言われたのもあって、麗霞の家を辞する。
麗霞が悪戯成功! という満足の笑顔で明玉を見送ったことに気付かず…
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