帰ってきた異国の幼馴染
事の始まりは、2月ほど前に遡る。
「またこっちに引っ越してきたんだ」
という幼馴染を迎え、
「大きくなったねえ」
「立派になったわ」
「アン兄ぃ久しぶり」
とは、明玉の父、母、弟だ。
商会を通じて文通を続けていたものの、何年も会わなかった幼馴染はすっかり立派になっていた。
眉太く、掘りが深い顔立ちは、生粋の幻唐国とは異なるが、男らしいと明玉は思う。陸路の長旅を繰り返してきたという彼は、明玉が高校で知り合った同世代の男性たちと比べても逞しく見えた。高校に通うのは、名家の出身者、つまり文官が多い。詩文に長け、知識を蓄えた者たちである。それに比べると、アンドリューは野性味があった。
高校に通っていると言うとと明玉も名家の出身のように思われることがあるが、明玉はごくごく普通の庶民である。
幻唐国も皇帝はすでに9代目。益々繁栄の道を極めるこの国は、生活水準の向上もあって、庶民の進学率の向上が甚だしい。特に中学で成績優秀な場合は推薦がもらえることもあり、数少ない女子の進学方法になっていた。
明玉は勉学が全く苦にならない性質で、なんなら寝食を忘れて書物にかぶりつくほどだ。このため、「好きなことをすればいいのよ」というおおらかな父母の下、好きにしていたら庶民の女子には非常に珍しい高校進学までしていたというのが明玉の説明書きとして相応しいだろう。
庶民いじめがあるのでは!?と警戒しながら進学した高校は、名家たるもの人の上に立つ行動をとるべし! という育ちの良さが遺憾なく発揮された生徒の方が多く、また学生は家柄関係なく平等という科挙出身の徹底した教師たちの指導もあり、大多数の、高校生活に置いては家柄をさほど気にしない友人たちとキャッキャウフフと言い合いながら楽しく過ごす場となっていた。
高校生活の中でいじめが起こるのは、力が拮抗している派閥同士が衝突した場合である。名家の誇りに賭けて引けぬ戦いというのが名家にはあるようで、その場合は悪い噂が流れたり、物がなくなったりすることがあるらしい。しかし、ど庶民で教室の端っこに常にいるだけの明玉を強敵とみなすような名家があるわけもなく、明玉は非常に平穏に日々を過ごしていた。
しかし、眠い。
明玉は朝早く、夜は寝るのが早い。少しでも書を読むためである。
科挙の試験が迫っていた。
合格者は百人に1人とも、10年かけても合格できない者もいると言われる官僚登用試験である。
先の王朝に端を発し、幻唐国に引き継がれたこの制度は、当初は女、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。
3代前に君臨した皇后が非常に力を持った際に、この規定の内、女と商工業者の部分を撤廃させたことから、明玉が生まれる前から実は女性も受験は可能なのである。実際には受験者がほとんどおらず、合格者も記録に2名残るだけで実際に官僚として働いた期間が非常に短いそうで、女性が受験可能であることを知る人も少ない。
明玉は学業の成績は良かったことから、高校の教師に受験を勧められた。科挙を潜り抜けてきた経験のある先達がいうなら、挑戦してみる価値はあるのではと思った明玉は、受験生として朝から晩までみっちり勉強する生活を送っていた。夜、文字が見づらくなるほど暗くなると食事を摂り、身型を整えてすぐ寝てしまうので、普段ならこの時間は夢の中であった。
そんな明玉の説明と、すでにうつらうつらとし始めた様子に、
「遅くにごめんね」
とアンドリューも理解を示して、その日は早々に帰っていった。
そして翌日、彼の話を全く聞いていなかった明玉は、
「残り2月しかありませんが…」
と言いつつ、転入生として彼が朝会で紹介されて、ぽかんと口を開けたのである。そんな明玉の表情をみて、アンドリューはくつくつと笑っており、休み時間が来るとすぐに明玉の席へとやってきた。
「さっき吃驚してたでしょう? 昨日、よっぽど眠かったんだね」
そういう彼の口調は柔らかい。
「ごめん、頭が寝てたみたい」
と明玉も素直に答えた。
考えてみれば自然なことだ。絹の道が流通路として確立してから、東西での人的交流は活発化し、多くの国から幻唐国へと移り住む人、行き来する人がいる。幻唐国はいまやそういった異国の人々が暮らす国でもある。様々な国で高度な教育を受けた証というのはその後の商売で有利に働くことから、有力な商人は子女をその国の高等教育機関に送り込む。一方、国としても学校の場での交流が、異国出身の優秀な人材の幻唐国への愛着を作るという考えから、異国の民の受け入れを推奨。学校は多額の寄付と引き換えに商人の子女を受け入れるようになっている。
明玉の学年に入ってきたということは、卒業まであと2か月。2か月で、幻唐国の高等教育の証書が手に入るなら、安い買い物だろう。
「科挙ならしかたない。今日も特別授業なんだって?」
「そう、作文は数をこなすしかないからって」
科挙出身の教師たちは、科挙を受験する者に手厚い。教師自身も、受験者も庶民が多いというもあるかもしれない。名家出身であれば、親がそれなりの官位にあるから、資蔭と呼ばれる制度で子は任官できる。科挙に人生を賭けるのは、寒門と呼ばれる新興の文官の家や、明玉のような庶民ど真ん中の者だけなのだ。
ひゅうと、アンドリューが口笛を吹いた。
「やるなぁ、頑張れよ」
「うん、ありがとう」
女で科挙を受験するのは珍しいから、彼ほど全面的に、はじめから肯定的なのも珍しい。
自然と明玉の口の端が上がった時、
「お待ちなさいな」
と声がかかって、反射的に座ったの明玉の背筋がピンと伸びた。
明玉たちに声をかけたのは、気位が高いという言葉が服を着て歩いているような女子学生だ。美しい襞を描く衣を、お手本のような裾裁きでたなびかせ、すっと歩く姿はまさに物語の世界の仙女。名門と呼ばれる貴族の中でも名門中の名門、皇室に連なる血筋の李家の娘、夢華 である。
豪奢なかんざしを挿した頭をきつと上げ、彼女はアンドリューを睨みつけた。
(えええ!?)
かなりのお怒りである。
「今のは明玉が庶人の娘とわかっての振舞いでしょう。ですがこの学級にいるのは、一人残らずわたくしの学友。まして彼女は教師から科挙の受験に推薦されたのです。囃し立てるなど、無礼は許しません」
李家に学友と思われていることを明玉はその瞬間、初めて知った。
衝撃にぽかんと口があく。
アンドリューも口が開いている。
だが、立ち直るのは彼の方が早かった。はっと口元を引き締めると左手で右手を包み、腰を折った。綺麗な拱手礼だ。
「失礼しました。異国暮らしが長く、礼に欠ける所作であることを忘れておりました」
そう答えたアンドリューは異国らしい格好であるにもかかわらず、一部の隙もない唐の貴公子に見えた。
他国には学生にも制服という制度があるそうだが、幻唐国にはない。このためアンドリューは生家の文化のままの格好、つまり短髪、細筒の袖の短衣に袴と呼ばれる二重の履物で、明玉から見ても簡素に見える格好なのだが、所作は優雅だ。西の暮らしが長かったのに、いつの間に覚えたのだろう。
アンドリューの礼に、夢華 の圧が弱まった。
「科挙に臨むという明玉に感心したもので、他意はございません」
その言葉に、夢華 の目線が明玉に向いた。
「明玉は良いのかしら?」
「はいっ! 全く気にしておりません。アンドリューとは旧知の仲のため、この場が校舎であることを忘れてのことでした」
名門のお姫様にじっと見られると、ただただ緊張する。
「あら、そうなの……人の良いこと」
と謎の呟きを残し、夢華 の目線は再びアンドリューに向かう。そしてふっと離れて、
「精進なさいな」
と去っていった。
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