7-60 悪意と善意
優しい人。話を聞いていたのだろうかと疑いたくなるシャルの評価に、エルヴィンは苦笑してしまう。
「優しいって……今の話の何処からそんな表し方が出てくるんだい?」
「だって、事実ですから」
「いやいや、あの話から来る言葉は軽蔑や非道、悪魔だよ! それは正しくない!」
「いいえ、大隊長は優しい人です。だって……」
シャルの表情に慈愛に照らされた暖かい笑みが浮かぶ。
「"大隊長は、自分の非道さが悲劇を招かないよう、堪えてくれましたから"……」
それに、その言葉に、エルヴィンの両目が驚愕に見開かれる。
「それは当然の事だろう? 人の命を無視するなんて非道過ぎるじゃないか!」
「ほら、やっぱり大隊長は優しいです」
毒気を浄化する彼女の笑顔に、言い負かす気力も削がれてしまうエルヴィン。それに、シャルは握っていた彼の左手を優しく、労う様に撫でる。
「人には悪の部分があると大隊長は言いましたよね? なら、その悪の部分を抑え、善の部分だけ表に出し続けるのも辛いと思うんです。そんな中、命の価値が低下してしまう戦場で、非道になっても裁かれない場所で、悪の部分を晒そうって、そう思ってしまうと思うんです。それをいつも抑えようと頑張る大隊長は、やっぱり、他人の事を考えられる優しい人なんです」
「その証拠に」と付け加えたシャルは、握っていたエルヴィンの掌を、自分の頬へと当てた。
「大隊長の暖かさは、こんなに心地良いです。人は確かに悪意を秘めているのかもしれません。でも、それ以上に綺麗な善意を沢山持っていると思うんです。だから、悪意を善意で隠せるんですよ?」
無邪気に、無垢に、エルヴィンの心を照らし、心の傷を癒そうとするシャル。それにエルヴィンの瞳に浮き出ていた苦痛に歪んだ怒りの炎は、静かにその勢いを弱め、消えていった。
そして、悔し気に、後悔する様に顔をしかめ、彼は空いた右手で頭を掻き毟る。
「あ〜っ、情け無いな! 女の子に、しかも年下の子に慰められるなんて……男として、年長者として失格だな。本来なら、年上である私が相談に乗る側であるべきなのに……」
エルヴィンは嘆息し、空を見上げた。
「アンナにしても、君にしても、私はどうしてこう女性に慰めて貰ってるんだろうね。男としてどうなんだろうか、これ……」
男として女性に元気付けられるのは、やはり、何処か引け目を感じてしまうエルヴィン。守護対象である存在にならば尚更だろう。
男にとって、女性とは護るべき者、というのが社会の共通認識である。体格的、身体能力的優劣が影響しているのだが、その観点から見て、女性とは男性から見て弱いという印象なのだ。
つまり、弱い者達に強い筈の自分が助けられているという状況は、とても恥ずかしかったのだ。
しかし、シャルの励ましにより、表情に柔らかさが戻ったエルヴィン。気持ちが軽くなったのは事実であり、やはり彼女には感謝しかない。
「ヒルデブラントの時も……君には元気付けさせてしまったね。なんか……すまない……」
「大隊長にはいっぱい助けて貰いましたから、その恩返しです! ですから、謝る必要なんてないんですけど……私は謝罪じゃなくて、別の言葉が欲しいです!」
悪戯っぽく微笑むシャルに、エルヴィンは苦笑を零して、告げる。
「シャル、ありがとう」
「はい、どういたしまして!」
ニコリと笑顔を向けてくるシャル。愛らしいその表情を見ながら、笑みで返すエルヴィンだったが、次に彼が見せたのは少し困った様な表情だった。
「シャル……」
「何ですか?」
「いつまで私の左手を握っているつもりなんだい?」
彼に言われて漸く気付いたシャル。彼女は自分が握り続けていた想い人の手を見た瞬間、その顔は羞恥で真っ赤に沸騰さ、咄嗟に手を離し、少し呻きながら顔を軽く伏せ、犬耳をピクピクさせた。
そんな純粋な彼女の反応に、「異性の手を握り続けていたのが恥ずかしく感じたんだろうな」と、珍しく切り傷を作るぐらいに予測が掠りはしていたエルヴィンは、微笑ましそうに笑みを向ける。
「この子は、本当に心が綺麗な子だな……」
人には誰しも悪の部分があるとエルヴィンは思っている。しかし、例外も存在するのだと、シャルの存在は示してくれている様にも思えた。
「この子の様に芯から善意で出来ている様な存在はおそらく稀だ。幼い子でも無邪気な悪を持っている場合が多い。小学生のイジメが主な例だろう。だけど……おそらく、そんな悪意はちっぽけなんだろう」
エルヴィンの口元に微笑が浮かぶ。
「人は悪意以上の綺麗な善意を沢山持っている、か……確かに、そうなのかもしれないな……」
戦場という場所に来て、命の価値が低下する場所に来て、仲間達や他の兵士達を見て思うのは、やはり、容赦なく人を殺す非道さ。しかし、それ以上に罪悪感に苛まれ、仲間の死に嘆き、時に友情を培い、故郷の家族を思う兵士達。多くの者が、この気に人を殺そうなどと、自分の内に秘めた悪意を実現しようとは思っていないのだ。漏れ出てはいるだろうが。
「悪意を隠すには、それ以上の善意が居る。シャルの言う通り、人は沢山の善意を持っているんだろう……しかし……」
エルヴィンには前世の記憶がある。だからこそ知ってしまっている。命の価値が低下する戦場でも無いにも関わらず、人を玩具にして遊ぶ現代人の姿を。
「人のタガはふとしたきっかけで外れてしまう。それにより人が人道に悖る悪行を平然と行えるのも事実だ。実際、さっきの私も自分の策を敵に応用されて負けた、というキッカケがあったから悪意が漏れ出た。人の善意より悪意の方が濃度が濃いのだろう」
だからこそ、イジメなんて産物がある訳であり、相手を自殺へ追い込んでも平然としていられる者まで居るんだろう。
非安全地帯で繰り広げられる虐殺の応酬。それが日常として溶け込まれた近代。それが薄れ、戦争という概念を考えれば平和となった現代において人の悪が目立つのは、結局、人の本質が悪なのだと証明してしまっているのだ。
「だからこそ、シャルの様な子は重要なのだ。他者の悪意を抑え、善意を増長させる様な子は……」
この様な子が悪意に塗れた世界を優しい善意で塗り替えてくれている。過去から今、未来に至るまで、世界が善で出来ている様に見えるのは彼女の様な存在が居るからなのだ。
「この子は本当はこんな危険な場所に居て良い存在じゃない。せめて、凶弾が彼女の命を狩らない事を願うしか無いか……」
間違いなくシャルは世界にとって宝の様な存在だ。そんな彼女を死なせる程に人間社会が残酷に出来ていない事を、エルヴィンは真摯に祈るのだった。




