7-33 ジャンの反撃
世暦1914年10月7日
深夜。オリヴィエ要塞通信室にて、ジャンは地図に記された爪痕峡谷南通路、西口へと視線を向けていた。
「おそらく、現在フライブルク少佐達と鉢合わせしている頃だろうな」
ズレた眼鏡を中指で直し、彼が出世した事を知らないジャンは、只目に見えぬエルヴィン・フライブルク少佐という人物へ明確な殺意を向ける。
「エルヴィン・フライブルク。貴官はやはり危険だ。此処で消させて貰う。シャルルの奴には悪いが、お前と互角に戦える様な奴を野放しには出来ない」
瞳を鋭く光らせ、今度はズレて無いにも関わらず眼鏡を中指で上げるジャン。最早、彼にとってエルヴィンは、抹殺対象のブラックリスト。その上位に食い込む存在となっていたのだ。
「今回、司令部に懇願して部隊を1つ動かせられたが、運が良かったな。まさか、あの人の部隊が借りられるとは……」
ジャンの口元が不敵に笑う。
「フライブルク少佐。悪いが、シャルルの奴程、俺は甘く無いぞ」
折角手に入れた絶好の機会。この気を活かすべく、ジャンは更なる謀略を頭で巡らすのだった。
帝国軍が峡谷からの脱出を諦め、峡谷内で身を潜めたのを確認し、峡谷西口を包囲していた共和国兵達は警戒は怠らない様、銃を下ろした。
「よしっ! 各自交代制で睡眠を取れ! 起きている兵士は中央峡谷の補給線は確保出来るよう気を配りつつ警戒。魔導兵はそのまま通信妨害に専念しろ!」
部下達に指示を飛ばす大隊長。ヴァルト村でシャルルと共にエルヴィンと戦った壮年士官トゥールであった。
「まさか、奴を倒す機会が恵んで来るとはな……」
嬉しそうに口元を緩ますトゥール。ヴァルト村の戦いでは苦々しい敗北を喫しさせられ、ヒルデブラント要塞攻防戦ではアジャン少佐を始め多くの部下を殺された。その元凶たるエルヴィンに復讐出来る機会を、彼は歓迎せずには居られなかったのだ。
「手向けになるかは分からんが、此処で奴の骸。いや、泣きっ面でも良い。手土産に天へと見せ付けてやろう」
真摯にそう思っている訳ではない。軽い冗談混じりだが、一筋縄では行かない曲者とあの鬼人の剣士を相手にするのだ。そう言って自分を奮い立たさねば、無駄に神経質に物事を考えそうだった。
「台地の味方砲兵の様子はどうか!」
「はっ! 5門は敵退路に向け照準を固定。残り3門は敵に照準を合わせる為、砲撃ポイントを探している最中との事です!」
伝令の報告を聞いたトゥールは、満足そうに笑みを浮かべ頷くと、これ程の策を立てた人物に感嘆を零す。
「ジャン・ブレスト少佐か……情報部でありながらこれ程の策を立てる策略家としての才も兼ね備えておる。ラヴァル中佐と良い、共和国の未来も明るいな」
共和国軍には優れた逸材が存在している。この事実は帝国軍の脅威に対抗出来るという共和国軍の明るい未来を照らす事になる。
しかし、所詮は軍である。政治の下で働く共和国の傘下でしかないモノが優秀だとしても、政治が貧弱では意味が無い。そして、1ヶ月程前シャルルが述べた様に、現在の共和国の政治は良いと呼べるモノでは無い。未来に明るさも無く、腐り果てる寸前の果実であった。
「このまま帝国軍を撃破した所で、共和国の未来がより良く進むと言えるのだろうか……?」
ふと、そう考えてしまうトゥール。戦争など無い方が良く、この戦いの原因たる帝国打倒を目指す事に迷いは無い。だが、それはマシというだけで良い結果となるとは到底言えないのではないか? と消極的な考えを彼は巡らせてしまう。
「いかんな……一軍人が政治を憂いても仕方なかろうに……」
政治の下、彼等に従うのが軍人の義務である。軍は所詮、政治の道具であり、外国に於ける交渉材料を作り出す装置でしかない。
そんな物の歯車たる自分が政治を語るなど、おこがましいとトゥールは考えを振り払う。
「今は目の前の敵。エルヴィン・フライブルクを倒す事に専念せねばな」
思考を視界と連結し直したトゥールは、副官を呼ぶ。
「シャティヨン中尉!」
「はっ!」
「狙撃兵を数名呼んで来てくれ。台地から敵指揮官を狙わせ指揮系統を混乱させたい」
「直ちに!」
駆け足で狙撃兵を呼びに向かうシャティヨン中尉は、数十分たらずで狙撃兵6人程を連れて戻る。
すると、トゥールはその中の1人。若い猫人の少女兵士に目を向け、妙に嘆きに近しい感慨深い表情を浮かべた。
「少佐?」
「お、すまん中尉。早く彼等へ指示を出さねばな」
その後、トゥールは狙撃兵達へ台地から峡谷に潜む敵を狙い撃つ様指示を飛ばし、解散させる。
しかし、シャティヨン中尉は先程のトゥールの表情がやはり気に掛かっていた。
「少佐。先程、何を考えていらしたのですか……?」
「ああ……先程の狙撃兵達の中に若い女の子が居てな」
「若い女の子……あの猫人族の伍長ですか? 確か名前は……」
シャティヨン中尉は必死で頭に刻まれた部隊員名簿のページをめくり、彼女の名前を思い出そうとするが、直ぐに未だ疑問が解決していない事に気付き、其方へと話を戻す。
「若い女の子の兵士。それが如何なさったのですか?」
「いや、ふと娘の事を思い出してな」
「娘さん……確か、もう直ぐ大学へ進学なさる……」
「後1年近くもあるよ。あの兵士が娘と同い年ぐらいでな。つい思い出してしまったのだ」
トゥールは少し恥じる様に、後悔するように苦笑し、額を人差し指で掻いた。
「実はな。出兵が決まり、此方に来る直前、娘と喧嘩してしまってな。そのまま仲直りせずに来てしまったのだ」
「それはまた……理由は何ですか?」
「娘が彼氏を連れて来たのだが……どうも其奴が俺と相性が悪くてな。俺が別れるよう強要したのだ。相性が悪いというだけで、彼自身の性格が悪人という訳ではないのだが……大人気無かったと反省しとる。娘が幸せならそれで良い筈だからな」
「父親の悩みですね」
クスリと笑いを零すシャティヨン中尉。
「なら、早く戦いを終わらせて、家に帰って仲直りしなければいけませんね」
「出来るだろうか。彼氏と相性が悪いのは変わらんが……」
「1度会っただけでしょう? それはら仲良く出来ないと判断するには早いかと」
「なるほど、そうかもしれん」
悩みが吹っ切れたらしく、その拍子に笑いを浮かべるトゥール。そして、彼等の視線は峡谷内の敵へと向けられる。
「帰る前に、アジャン少佐等の仇討ちと行こうか」
「はっ!」
エルヴィンの敵。彼の部下を殺す共和国兵達にも当然帰るべき家があり、再会すべき家族や友人達が居る。戦いの戦端が開かれた時、共和国兵達の多くもまた、家に帰る事無く、再会の希望も消え失せ、命を無価値に散らすのだ。
彼等の死は、世界にとって、国とって、無数に刻まれる死の記録のほんの1つに過ぎないにも関わらず。




