6-30 幻想の姿
昨日。作戦室で告げられたエルヴィンの考え。クラインの人々を見捨てる決断に、アンナの声は震える。
「エルヴィン……見捨てるって、どういう事、ですか……?」
「そのままの意味だよ。2万にたった600で勝てる訳がない。彼等さえ見捨てれば、2万の軍がこの街を襲う口実は無くなる」
「つまり……彼等を2万の兵に生贄にするんですか……? 彼等が皆殺しにされるのを承知で……」
「しなければこの街が襲われる。そして、街の人々が犠牲になるよ」
アンナは俯き拳を握り締める。
「だからって……見捨てるなんて。貴方らしくありません……いつもの貴方なら、助けた筈です……」
「いつもは助けてどうにかなる勝算があったからだ。今回はそれが無いんだよ……」
「でも、貴方なら!」
「君は私を買い被り過ぎだ。希望的観測のみで見ないでくれ。第1、見捨てるのは今回に限った事じゃ……」
この時、エルヴィンは失言をした事に気付き、その証拠にアンナの目が驚愕に見開かれる。
「どういう事ですか……? 見捨てたのが今回だけじゃないって、どういう事ですか……?」
「それは……」
「答えて‼︎」
いつもの彼女からは出ない怒気混じりの追及。それに、エルヴィンは観念し、吐息を吐く。
「カールスルーエ伯爵が反乱した時、ミュンヘン派の軍がキール子爵領を通れるよう取り計らったよね?」
「はい……」
「その軍は反乱鎮圧に託け、ある事をやらかした……虐殺だ」
アンナは黙ったままだった。そんな中、エルヴィンは話を続ける。
「ミュンヘン派が伯爵領に攻める事によって、市民の犠牲は莫大に増えた。必要のない犠牲が増えた。そして……私はそれを承知でミュンヘン公に手を貸したんだ。だから……見捨てたのは今回だけじゃないんだよ」
エルヴィンは話を終えた。自分が隠していた罪を告白した。
あまりに重い、冷酷過ぎる決断。それを下したのだと彼女に告げたのだ。
それは残酷な現実。それは残虐な事実。それを聞かされたアンナは、
パシィインッ‼︎
エルヴィンの頬を叩いた。
「アンナ‼︎」
突然の領主に対する不敬にアンリは怒鳴り、周りは騒然とする。
しかし、エルヴィンだけは、彼女の表情に現れた変化を、静かに眺めていた。
彼女は泣いていた。怒りを滲ませながら、涙を流していたのだ。
「申し訳ありません……私はここに居てはいけないようです。部屋で謹慎します……」
エルヴィンの背を向け、アンナが作戦室から飛び出していくと、場は完全に沈黙する。
そして、叩かれたエルヴィンは、赤く痛みが走る頬に触れ、少し悲しげに目を伏せる。
「隠していた意味が無くなってしまったね……いや、罪を背負わせずには済んだから、意味はあったかな?」
苦笑するエルヴィン。それに、ルートヴィッヒは珍しく優しい笑みを浮かべる。
「良かったのか……? アレで……」
「私の罪を受け入れるより良かったよ。私の罪を否定してくれた訳だからね。結果として、彼女に私の悪事の片棒は担がせずに済んだ……」
「優し過ぎだ、お前……普通ならアイツを遠くへ追いやるぜ? 反対の立場の奴は、行動するのに邪魔だからな」
「反対の立場でいるから、手元に居て欲しいんだよ。彼女が側に居てくれるから、私は間違う事はあっても、大きく間違わずに居られる……」
「やっぱり、お前は不器用だな……」
苦笑するルートヴィッヒに、エルヴィンは苦笑で返した。
彼の選択は間違ってはいない。決断は間違っていない。
しかし、それで大勢を死なせた事に変わりはない。死なせる事に変わりはない。
間違いではなかった、そう片付けずにいれるのは、非道な決断に怒ってくれる彼女が居るからだ。嘆いてくれる彼女が居るからだ。
だからエルヴィンは、冷酷にはなれても、残虐にはなれずに済んでいる。
それを知っている作戦室の面々は、誰1人として彼女を責められない。
自分達が道徳心を失わずにいれる枷、それを失いたくはないのだから。
現在、アンナは自宅の自室で、上着を脱ぎ捨て、髪を下ろし、ベットの上で膝を抱えて蹲っていた。
「何しているんだろう、わたし……」
昨日、エルヴィンの頬を叩いたアンナ。
彼の隠していた非道な決断、それを知り幻滅した故に叩いたアンナ。
だけど、彼のした事が間違いでない事は、彼女も知っている。彼は自分達、領民を守る為に行ったのだと知っている。
そして、優しい彼の事だ。おそらく今もその罪に苛まれている。
領主、貴族である彼が清潔であれる筈がない事は知っている。優しい彼が自分達を守る為に手を汚してくれている事にも気付いている。
だから幻想なのだ。
彼が皆んなを救い、助け、笑顔にできる。そんな万能の存在であるなど幻想なのだ。
「わかってる……そんな事はわかってる……」
けど許せない。彼が意図的に自分の手を汚す事が許せない。
戦場でも、彼は味方を生き残らせる為努力した。
敵を殺しながらも、多くの者を守る為尽力した。
今回も、自領の民を救う為に、他領の人間を殺そうとしているだけなのだ。
なのに、許容できなかった。虐殺を黙認する彼が許せなかった。
何故なら今回、彼は努力していない。助ける事を事前に放棄している。
彼なら出来るのに。きっと出来る筈なのに。
そう思えてしまう。そう考えてしまう。
しかし、これはやっぱり幻想だ。エルヴィンは彼等を助けない。助けられない。
彼にも出来ない事は勿論ある。それが今回の事だっただけの話なのだ。
だけど、やっぱり嫌だった。
「まるで子供だ……」
自分の言う事はワガママだ。子供の様なワガママだ。
いつまでたっても御伽噺を観ている子供だ。
だからなのだろう。理想の英雄像を押し付けるからなのだろう。
エルヴィンが真の意味でアンナを隣に居させてくれないのは。罪を背負わせてくれないのは。
「わたし……あの人の隣に居て良いのかな……?」
罪も共用させてくれないのに、彼に理想を押し付けるのに、アンナが隣に居る意味はあるのか。只の邪魔でしかいのではないか。そう思えてきてしまう。
彼にとってアンナは居なくても困らない存在だと。そう思えてきてしまう。
負の苦痛がアンナの心を締め付け、それを耐えるかの様に彼女はシャツの袖を強く握った。
「わたしは……あの人の事を何も知らないんだ……」
自分の価値を見失い始めていくアンナ。彼にとっての自分の存在意義が霞んでいくアンナ。
暗い暗い沼の底。静かに落ちていく気持ち。彼女の表情に雨雲が差し掛かり始めた時、ふと部屋のドアがノックされる。
「アンナさん、居ますか? 入りますよ……?」
ドアの鍵は閉めていない。だから、すんなり入ってきた人物に、アンナは顔を上げ、視線を向ける。
「テレジア、様……?」




