4-57 シャルロッテ・メールス
泣き続けていたシャルも、暫くして涙も治り、落ち着きを取り戻した。
そして、3人は人気の少ないテント裏に移動し、丁度座れそうな箱に座ると、エルヴィンとアンナは、シャルの話に耳を傾ける。
シャルロッテ・メールス、彼女は帝都の貧民街で生まれた。
獣人族の母親と人間族の父親。2種族のハーフとして生まれた彼女だったが、見た目は母親似の獣人である。
そして、獣人族差別の激しい国の首都。しかも、生活に不満を持つものだらけの貧民街。そこに獣人のか弱い少女が居ればどうなるかは想像に難く無い。
憂さ晴らし、ストレス発散のサンドバック。それが貧民街での彼女の立ち位置だった。
獣人族という理由だけで殴られ、蹴られ、叩かれる。
更に悪い事に、母親は小さい頃に既に亡くなり、父親は仕事で家を留守にする事が多く、自分を守ってくれる人が居ない。そんな隙を突いて、周りの男、女達は、か弱い少女への悲惨な扱いを続けた。
強姦、殺害されていないのが奇跡と呼べる環境。彼女はそんな地獄で育ったのだ。
幸い、父親だけは彼女の味方をしてくれた。そして、4年前、父親は貯めたお金で、田舎町に診療所を兼ねた家を建て、そこに移り住む事が出来た。
そこでも、獣人として、人間族から白い目で見られ続けたが、貧民街での生活に比べてれば正に天国である。
彼女が自分を卑下する理由。それは獣人という理由で受けた酷い扱いの数々。それがトラウマとなって彼女に巣食っていたのだ。
自分の過去を、エルヴィンとアンナに話し、シャルはその過去の証拠を2人に見せる。
右腕をまくり、見せたその素肌。そこには無数の小さい傷が、薄くも、もう消える事のない物となって残っていた。
「身体のあちこちに、こんな傷が沢山あるんです……幸い、余り目立たないんですけど……やっぱり…………」
表情を曇らせるシャル。目立たない傷とは言っても傷は傷。年端もいかない少女が一生消える事のない傷を抱える。その精神的ショックはかなりの物だろう。
それに、やはり少し思う所が湧いたエルヴィン。慰めようか、元気付けようか。兎も角、何か話すべきだと思った彼は、シャルに言葉を掛けようと口を開く。
すると、それよりも遥かに早く、突然、アンナがシャルを抱き締めた。
「えっ? 少尉……?」
その行動にエルヴィンも驚いたが、1番驚いたのはシャルであった。
目を丸くし、戸惑うシャル。そんな彼女をぎゅっと抱き締めるアンナ。彼女は不幸な境遇に会いながら、健気に、心優しく育ったこの少女を、可愛らしく、愛おしく思い、こんな子に嫉妬心を抱いてしまった自分を恥じ、愛おしさと罪悪感からシャルに優しい思いを行動として与えたくなってしまったのだ。
「少尉……ちょっと苦しいです……」
シャルにそう告げられ、そこでアンナは、自分の行為が奇怪なものであった事に気付き、慌てて彼女から離れた。
「あっ⁈ ごめんなさい……」
そう言って少し申し訳なさそうに少し俯くアンナ。しかし、シャルは抱き締められた事自体は嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。
母親とは早くに死別し、女性の暖かみに触れる機会が余り無かったシャル。だから、彼女はアンナに抱き締められた時、「お姉ちゃんって、こんな感じかなぁ」と、少し想像して楽しんでいたのだ。
アンナの抱き締め効果か、笑顔と元気が戻ったシャル。その様子に、エルヴィンは安堵し、ふと笑みを浮かべながらも、少し真剣に彼女に語り掛ける。
「君は自分の事を「こんな」とか過少に表現するけど……本当にそんな風に思っているのかい?」
そう問われたシャルの表情は、また暗いものへと変わる。その問いに答えるには、自分の辛い過去と向き合わなければならないからだ。
「私は獣人です……だから、優れた、良い人とは言えないです。これまで、周りにそう言われてきました……だから……」
「だから、自分は下等な存在だと?」
シャルは小さく頷いた。
「そっかぁ……」
エルヴィンは前を向き、大空を見上げ、そして、告げる。
「それじゃあ、君を見下す奴等の思う壺だね」
その言葉を聞き、咄嗟にエルヴィンの方を振り向いたシャル。その表情は、驚きを隠せていなかった。
「君は周りの人々が君を見下し、酷い扱いをするから、下等な存在だと思っている……でもね、それは彼らの価値観でしかない。彼等は君達を見下し続けられる立場だと思っていて、君達も自分自身を見下され続ける立場だと思っている、と考えている。つまり、彼等は君達が反発するとは思ってすらいないんだ。….…だけど、残念な事にそれは事実になっている。本当に、君達が自分を下等な存在だと思っているからね」
その言葉はまるで、獣人族自身が差別を促していると言っているようなものだったろう。しかし、シャルは黙ってその話に耳を傾ける。
「君達、獣人族が差別される事を受け入れてしまっている。だから、彼等、人間族もつけあがって差別を続けられるんだ。君達が自分達を卑下する限り、差別は無くならないよ?」
そう言われ、シャルは反論できなかった。エルヴィンの言う事は尤もであったし、自分自身、自覚があったからだ。
しかし、言いたい事はある。
「じゃあ……どうすれば良かったんですか?」
それは彼女の切実な思いだった。
「どうすれば、あんな酷い目にあわずに済んだんですか? 私は弱かったんです。いえ、弱いんですよ? それなのに……どうすれば良かったって、言うんですか……?」
他者に虐げられ続けた過去。変えたいと思いながら、幼く、か弱かった自分に何が出来たのか。
立ち向かっても、捻り潰され、悪化したかもしれない。にも関わらず、大隊長は何をすべきだったと言うのか。流石のシャルでも、憤らざるを得なかった。
恐れず立ち向かえなどと言うのなら、それは幻滅に値する愚か者だろう。弱い人間の事など御構い無しと言っているようなものだからだ。
しかし、少なくとも、エルヴィンは愚か者ではなかった。
「何か行動すべきだった……」
その言葉だけなら、恐れず立ち向かえと言っているのと変わらない。
しかし、
「立ち向かう事は出来なくても、助けを求めるべきだった。君には少なくとも、父親っていう味方がいたんだからね」
シャルが周りから酷い扱いを受け始めたのは母親が死んだ時。そして、父親が移住を決めるまで明らかに長い時間がかかり過ぎている。
娘を大切にする父親。彼が何故、直ぐに動かなかったのか。娘が受けた仕打ちに気付かなかったからだ。
それはつまり、シャルが父親に何も言わず、助けを求めず我慢していたという事だった。
父親はシャルの味方だった、助けを求めれば、間違いなく直ぐに助けて貰えただろう。
しかし、
「出来る訳ないです……」
だからこそ出来なかった。
「父は確かに助けてくれたかもしれません。いえ、実際、気付いて助けてくれました。でも……そんな優しい父に、大好きな父に……迷惑なんて掛けたくなかった……」
父は絶対助けてくれる。しかし、助ける行為で父親に迷惑を掛ける。いや、最悪、助ける過程で、父親が自分と同じ扱いを受けるかもしれない。彼女はそう思ったからこそ、言えなかった。
"助けて"を。
シャルは本当に良い子だろう。大抵の人間は、助けられる事によって、自分の境遇が悪化する事を恐れる。だから、助けを求めない。しかし、彼女は父親を気遣って言わなかった。
それは、"賞賛すべき思い"だろう。
しかし、"賞賛すべき行為"ではない。
そう考えたエルヴィンは、シャルに告げる。
「それでも、助けを求めるべきだった……」
頑なにそう諭した。
「君は父親を信頼すべきだった。そして、早く助けられるべきだった」
「でも!」
「そうだね、君が更に酷い扱いを受けるかもしれないし、最悪、父親も被害を受けるようになるかもしれない」
「だったら!」
「でもね……少なくとも、それで君の環境は変わったんだよ? そうじゃないかい?」
父はシャルを助け、その環境から逃れる為に移住した。シャルがもっと早く助けを求めていれば、もっと早く環境は良くなっていただろう。
しかし、悪化する可能性もある。その事実があった。
それでも、エルヴィンの言葉にある希望に、その光に、シャルの心は照らされ始めていく。
「君は劣悪な環境に居た。そして……それから、君は脱する事が出来ている。助けられたからだろう? たがら、君はもっと早く、もっと気楽に助けを求めるべきだったんだ」
「でも……もしかしたら、更に劣悪になっていたかもしれません」
「じゃあ、別の誰かに助けを求めれば良い話だろう?」
「その人が悪人だったら?」
「また別の誰かに助けを求めれば良い」
「めちゃくちゃです……」
「でも、全く行動しないまま、劣悪な環境に甘んじるよりはマシじゃないかい?」
劣悪な環境、境遇、それから脱するには動き続けなければならない。だが、それは簡単な様で難しい。勇気を出し行動するという行為自体、不確定な未来の変革、未知に飛び込む様なものだからだ。
しかし、動かないよりは良い、助けを求めないより、求め続けた方が良い。
かなり無茶な事を言っている。難題な事を要求している。
そんな無茶な意見、なのに、シャルは心救われる感じがした。
変えるのが困難な環境。それは少なくとも、難しくとも変える事が出来る。そんな希望をエルヴィンは示していたのだ。
エルヴィンと話す内に、シャルの口元には、ふと笑みが浮かんでいた。
やっぱり、彼は自分の事を救ってくれる救世主なのだと、自分が好きになれる人なのだと、彼への気持ち、恋心を、シャルは親身に感じる事が出来たのだ。




