家出の話
帰宅の道中、ネルン・アンデレトワは御者に合図を出し、犬車を停めさせた。
窓の外に、歩道を独りで歩く妹の姿を見つけたからだ。
陽が沈んでから四時間以上経つ。そんな遅くに、ネネッシュが独りで外を出歩くなど、そうある事ではなかった。帰りが遅くなれば、ネルンが仕事帰りに迎えに行くのが習慣となっていたし、そもそも今日は教会の炊き出しが無い日である。
ネネッシュはそれでも教会の手伝いへ出かけるが、そう言った日は陽が暮れる時間までには帰宅しているはずである。
「ネネッシュ、こんな時間にどうした? 乗りなよ」
ネルンが声をかけると、ネネッシュは浮かない表情で無言のまま箱犬車に乗り込んだ。
暗い表情のネネッシュを見れば、いつも通りミライジャと対立したのだろうという事はすぐに解る。ネルンがどう声をかけたものかと考えている間に、ネネッシュの方から口を開いた。
「また、姉上と喧嘩をしたんです……」
「それで、家を出て来たのか?」
「……はい。夜風に当たりたくて」
「そうか。……今日はなんて?」
「いつも通りです。姉上が、私をひたすら詰っていただけ」
いつになく強い口調のネネッシュに、ネルンは普段とは違う雰囲気を感じとっていた。
ネネッシュが怒りを吐き出すと、冷静になるために外へ出る傾向がある事を、兄妹であるネルンは知っている。
「兄上は、貴族というものの在り方をどう考えていますか?」
ネネッシュは真剣な眼差しでネルンに問いかけた。
「貴族か……そうだね。考えた事も無かったよ。俺たちは生まれながらにして、爵位を持った裕福な家に産まれたからね。何不自由無く、それが当たり前な人生だった。ぬるま湯につかり過ぎて、爵位の意義など考えた事も無いよ」
妹の問いに、ネルンは思考を総動員させた。しかしそうしても、彼にその解答を導く事はできなかった。
「ルーン兄や姉上は、そう言う事にやけに拘る人たちだったけど、あれも実際答えなんて分からないだろうな。爵位って言うのは見栄張るためだけの称号なんだよな。大切なのは、どうしてそれをもらったのか、それを持つ者が何をするのかって事なのに、みんなパッと目に見える帳面だけにしか、価値を求めていないんだろう。
そう言う俺だって、恥ずべき人間には違いない。……そう言う意味では、ネネッシュは貴族らしくあると思うよ。持つ者が持たざる者に手を差し伸べる。それは確かに、持つ者にしかできない事であり、同時に義務なんだろう。それに気づけたお前は立派だよ」
ネルンのそんな称賛を、ネネッシュは俯いたまま首を振って否定した。
「そんな大それたものじゃないんです。私はただ、自己満足で―――」
「理由なんかどうだっていいさ。大切なのは行動したって事だ。今のはそう言う話だったろう?」
「……兄上は、姉上とは違う考えをお持ちなのですね」
「ふむ―――姉上は何と?」
「平民に、しかも同族でもない獣の為に働くなど、貴族のする事ではないと。私達は尽くす側ではなく、尽くされる側であるべきで、私にもその様に振る舞えと。
私、それが、その傲慢が許せなくって。身分なんか、ただお金持ちかどうかって、そんな違いだけなのに。私達は同じ人間で、同じ様に生きているのに。そんなの、あんまりじゃないですか!」
「それで、姉上と言い争ったのか」
「……はい。でも、大して取り合ってはもらえませんでした。今日は、アグラード様の所で夜会があるからと。姉上は私の言葉をあしらうばかりで……もう私、こんなの耐えられません。このままじゃ、おかしくなってしまう。……兄上。私、屋敷を出ようと思います」
ネネッシュの唐突な宣言に、ネルンは狼狽える。
「何を馬鹿な事を! 屋敷を出て、それでどこへ行こうって言うんだ?」
「行く所が無くとも、構いません。これ以上姉上と一緒に居たら、私きっとあの人を傷つけてしまう。―――それに、姉上の言う事も分かるのです。能力も無く、人と関わるのも苦手で、私なんて商会に居ても何の役にも立たない。でも、教会のお手伝いをしている時は違うんです。あそこに居る間は、弱くて何もできないネネッシュは、どこにも居ないんです。あそこにいる間だけは、自分らしく居られるような、そんな気がするんです。
だから、これ以上姉上に迷惑をかける事はしたくないんです。あの人が何を言ったって、きっと私が家を出れば丸く収まる。みんな、幸せになれるはず……」
悲痛なネネッシュの声が、箱車の中に響く。それをネルンは辛そうに、聞き入っていた。しかしそれは、決して同情からではない。
「そうか……お前まで……」
ネルンは低く小さく呟く。怒りと共にどす黒い感情を含んだそんな言葉は、どれほど微かであろうとネネッシュの耳に届いた。
「兄上……?」
今度はネネッシュが、ネルンを案じて声をかける。瞬間、ネルンは顔を上げて微笑んだ。
「いや、何でもないさ。ネネッシュがそう決心したのなら、俺に言えることは何も無い。……荷物をまとめたら、声をかけてくれ。送って行くよ。後の事は、俺に任せて。うまく説得しておく」
ネルンが優し気にそう言うと、ネネッシュは安心して息をついた。
「はい。ありがとうございます」
ぎこちない笑みを浮かべて礼を述べる妹に、ネルンはもう一度微笑みかけた。
◇
ネルンと別れてから、ネネッシュが向かったのはクラムの寝床だった。
街を無意識に彷徨い歩いているうちに、気が付くと地下水路の入り口にたどり着いていたのだ。
「はぁ……情けないな」
そんな風に自分に呆れながら、ネネッシュは水路の闇へ足を踏み入れる。
瞬間、近くの物陰からクラムが声をかけた。
「待って! ネネッシュ、入っちゃダメ!」
小声でネネッシュを引き留めると、クラムは飛び出してネネッシュの手を掴み、物陰へ引き寄せた。
「ちょっと、どうしたの?」
事態を把握できないネネッシュは、クラムに小声で事情を問う。クラムはネネッシュの肩を掴んで引き寄せると、自分の口に人差し指を立てて、静かにしろと伝えてきた。
ネネッシュは目を眇め、クラムの視線を追いかける。
途端―――ネネッシュは息を呑んだ。
地下水路から、奇妙な生物が現れたのだ。暗闇ではっきりと確認できないが、それは上半身が歪に膨らんだ、二足歩行の化け物だった。周囲に漂う腐臭はむせ返りそうなほどに強烈で、ネネッシュは鼻を摘まみながらそれを見送る。
水気を含んだ不気味な足音が、ゆっくりと眼前を通り過ぎていく。
身の危険を感じるほどの威圧感と不快感に、ネネッシュは涙すら目の端に滲ませる。
化け物は居なくなったネネッシュを探すように周囲を見回してから、川の中へと飛び込んでいった。
しばらくして、化け物の気配が完全に無くなった事を確認してから、ネネッシュは息をついた。途端に、化け物の残り香を吸い込み、ネネッシュは盛大に嘔吐した。
「だっ、大丈夫! ネネッシュ!」
慌てて、隣に居たクラムがその背中をさする。見れば、クラムは口元に布を巻いていた。
むせるネネッシュは、自分の身に連続して降りかかる不運を呪いながら、涙を流した。
「はぁ、はぁ……何だったの、あれ?」
激しく呼吸をしながら、ネネッシュは声をひねり出すようにして尋ねた。
クラムは「分からない」と首を振る。
「急に現れたんだ。昼間も似たようなのに襲われて……その時は人に助けてもらったんだけど―――」
「そう。……とにかく、ここに居ては危険ね。場所を移しましょう」
息を整えたネネッシュの提案に、クラムも首肯する。それから、少し不思議そうにクラムはネネッシュに尋ねた。
「うん。そうだね。―――ところで、どうしてネネッシュはここに居るの?」
「ああ、……えっと、家出してきちゃった」
わざとらしい程に明るく笑って答えたネネッシュを、クラムは心配そうに見つめた。
しかし、追及するのは躊躇われたので、クラムはそれ以上何も訊く事はしなかった。
普段快活な彼女が悩みを抱えているなどと、クラムは思ってもみなかったからだ。だからこそ、気付けなかった自分を彼女は少しだけ恥じていた。
対するネネッシュも、クラムにこれ以上の負担はかけまいと、気丈に振る舞っていた。




