学校の話
しばらく独りで考えてみると言って、オルコットは私を部屋から追い出した。
私が居たところで役には立てないし、考えるのは彼の仕事だ。オルコットの力になれないのは歯痒いが、今の私にできる事は、彼の邪魔をしない事だけだった。
私は身体を動かす練習がてら、屋敷の中を散策した。昨日に比べれば歩行もマシな形になってきたが、まだ完全とは言い難い。感覚がこの身体に馴染むのには、もう少し練習が必要だった。今のままでは、戦闘の様な激しい運動はまず不可能だろう。
私が今するべきなのは、戦闘人形として研鑽を積むことだ。試しに、何もない虚空へジャブを撃ってみる。それだけで、バランスを崩して倒れてしまった。受け身の動作すら遅れて、私は床を舐めた。
なんて無様な。こんな状態では、戦闘どころか日常的な動作すらままならない。
私は心を決め、立ち上がって走り出した。長い廊下を行ったり来たり。往復する途中何度も転んだが、この身体は痛みなど感じない。
そもそも、この"感じない"というのが厄介だった。私には地を踏む感触から、膝を曲げたという感覚まで、全ての"感"を認識する事ができない。私にできる事は、視る事と聴く事だけ。その二つだけを頼りに、私は基本的な動作をとにかく追求した。
駆ける。歩く。しゃがむ。片足で立つ。跳ぶ。起き上がる。そうした基礎の動きを自然にこなせるようになった頃には、窓の外は暗くなりかけていた。朝から鍛え初めて九時間と少し。我ながら経過は良さそうだ。
訓練を切り上げようとしたその時、玄関の扉が開く音が聞こえた。音を立てないようにしているのか、扉の開閉音はとても小さなものだった。
この身体は視覚と聴覚しかない代わりに、その二つの精度がとても高い。足音を聞くだけで、人物の判別ができる程だ。そのおかげで、扉を開けたのがアリエッタだとすぐに分かった。
廊下の暗闇に潜んで様子をうかがうと、アリエッタは周囲に気を張りながら忍ぶように入ってきた。彼女はそのまま洗面所へと向かって行く。
私は音を立てないように、アリエッタの後を追った。
薄暗い廊下に、洗面所の灯りが漏れ出ていた。中からは、ジャブジャブと激しい水の音が聞こえてくる。のぞき込むと、アリエッタが制服の上着を水洗いしていた。
彼女の髪には、まるで投げつけられたかのように赤い何かが潰れてくっ付いていて、来ている白いシャツにも赤い染みができていた。
「……アリエッタ」
私が声をかけると、アリエッタは飛び上がった。驚きの形相で、こちらを見る。いきなり声をかけたのはまずかったか。
「あっ、ミ、ミュー。ただいま」
「おかえりなさい、アリエッタ。すみません。驚かすつもりはなかったのです」
私はなだめる様にそう言って、アリエッタに歩み寄る。彼女は気まずそうに私から視線をそらした。こういう、おどおどとした態度を私に見せること自体が珍しい事だった。
「……この赤いのは、果物ですか?」
「う、うん。エリヤっていう、野菜よ」
トマトみたいなものだろうか。だとしたら、染み抜きは早めにした方が良いだろう。
「そうですか。アリエッタ、そのシャツを脱いでください。私が洗いましょう」
「えっ……ああ、うん。お願い」
アリエッタがシャツを脱いでいる間に、私は近くにあった桶を手に隣の浴室へ向かう。
世界が異なっても、風呂の構造というのはそんなに変わらない。しかも、原理はどうあれ蛇口をひねるだけでお湯が出るのだから、便利なものだ。
温感は無いので、湯気の出具合をよく視ながら桶にお湯を溜めた。ついでに浴槽にもお湯を流して、洗面所へと戻る。
アリエッタからシャツを受け取り、桶に放り込む。付着していた果肉を落とし、石鹸で叩く。液体洗剤や漂白剤のような気の利いたものはこの世界に無いようなので、これで勝負するしかない。
私の作業をのぞき込みながら、アリエッタが感心の声を上げた。
「すごい。手慣れているのね」
「生きていた頃には、よくやっていましたから」
遅くまでパートで働いていた母親に代わり、家事をするのは私の日常だった。そういう所でも、私はアリエッタに共感しているのかもしれない。
「アリエッタ。制服の汚れは私が処理しておきますので、どうぞ、体を洗ってきてください。そんな姿では風邪をひいてしまいます」
アリエッタは下着姿で立ち尽くしていた。今の気温が、寒いのか温かいのか私には分からないが、であればこそ彼女をこのままにはしておけない。
「えっと……じゃあ、お願いするね」
アリエッタは申し訳なさそうに頭を下げて、部屋を出て行った。
シャツの濯ぎを切りの良いところで止めて、上着の洗濯に移る。漂白剤が無いので、シャツに少し残ってしまった染みは、日光に当てるしかない。
上着を見ると、汚れ以前に少し傷んでいることが分かった。ふと、下に置かれた鞄に目をやると、そっちは更に痛みがひどかった。乱暴に扱われた形跡。やんちゃな性格なら分からないが、アリエッタに限ってそれは無い。彼女が物を丁寧に扱う子供なのは、彼女の所有物である私が身をもって体感している。
やはり、何かがおかしい。普段快活な彼女が怯えて帰宅し、不自然に汚れて帰ってきたうえに、持ち物はボロボロ。ここまでくれば推理するまでもない。
洗濯を終えて、中庭の物干しに制服を吊るす。普段からアリエッタに抱えられて家事の様子を見ていたので、この家の勝手は大体把握している。
衣裳部屋から彼女の服を適当に見繕い、浴場へと持っていき、アリエッタに一声かけて脱衣所に着替えを置く。
それから台所へ行き、『調理用魔石加熱機』なるもの(ぶっちゃけコンロだ)で湯を沸かして、お茶の準備をする。こうしていると、戦闘ドールよりハウスメイドの方が向いているような気がしてきた。
アリエッタの足音が階段を登って行った。自分の部屋に向かったのだろう。私はポットとマグをトレイに乗せ、二階へと持っていく。
「アリエッタ、失礼します」
ノックして部屋に入ると、アリエッタはベッドの上で膝を抱えていた。彼女は私を見て、目を丸くする。
「驚いた……いえ、別に驚くような事じゃないわね。貴女はもともと人間なのだし」
どうやらアリエッタは、私がお茶を運んで来たのが意外だった様だ。
マグへお茶を注ぎ、アリエッタに手渡す。
「どうぞ。一応お湯は沸騰させましたから、熱いと思います」
「一応って……ああ、そっか。ミューは温度が分からないのね。――大丈夫。美味しいわ。ありがとう」
そう言って、アリエッタは私に微笑んで見せた。しかし、その表情はどこかぎこちない。
「ねえ、ミュー。人形になるってどんな感じなの? 怖くない?」
唐突に、アリエッタが訊いてきた。
「別に怖くは無いですよ。なんでまた?」
「だって、人形になってしまったら、物を感じることができなくなってしまうでしょう? それに、体だって不自由になってしまうし……」
「確かに、アリエッタの言う事は分かります。でも、そういうものは慣れてしまえば、どうという事は無いんです。それに、私はこの在り方を気に入っていますから」
人間を嫌い、同じ人間で在ることを嫌った私。
穢れてしまった事で、人で在り続けることに耐えられなかった私。
人を醜く思いながらも、人を高潔な物だと信じている矛盾した二つの私が、この人形に収まった事は本当に皮肉だと思える。奇跡的で、幸運な皮肉だ。
無機質な自分に、悲壮感など感じた事は無い。きっと普通なら絶望するのだろうけれど、私はした事が無い。
「そう思う私は、異常者なのかもしれませんけどね」
自分がおよそ正しい感性だとは思っていない。自分が壊れていることは、自分自身がよく解っている。
そんな私の思考を否定するように、アリエッタは必死に首を振った。
「そんな事ないと思うわ。自分を異常だと認識しているのなら、それは正常な証よ。誰だって自分が正常だと思って生きているのだもの。異常者は自分を異常だなんて言わないわ。そうでしょう?」
「……そうかもしれませんね」
「仮に貴女が異常だって言うのなら、それは世界が間違っているんだわ」
「ははは、そこまで言っていただけるとは、光栄ですね」
こうも自分の事を人に肯定されると、嬉しさよりも気恥ずかしさが勝ってしまう。
「……ミュー、お願い。隣に来て」
アリエッタはベットの端に寄ると、空いたスペースを叩いた。
「失礼します」
私は一礼して、彼女の隣に座る。
アリエッタは私に寄りかかり、体を預けた。重苦しい雰囲気を感じて、私は黙ってされるがままにした。慰めの言葉がすぐに出てくるほど、私は器用じゃない。
「……なにも訊かないのね」
長い沈黙の後に、アリエッタが口を開いた。詰まったような声から、彼女が泣いていたのだと気が付いた。
「訊いても良いものかどうか、迷ってしまって。それで貴女を不快にさせてしまうのは、本意ではないですから」
「やっぱりミューは優しいヒトね。貴女が異常だなんて、そんな事ありえないわ」
……
「アリエッタ。もし助けが必要になったのなら、私を頼ってください。私は貴女の人形です。貴女の為になら、この身の全てを尽くします」
「ありがとう。でも――――………………………………いえ。やっぱり、聴いてくれる?」
「はい」
私は頷く。
「ロアンがね、……学校にそういう女の子が居てね、彼女が私の事を邪魔だって言うの。庶民の私が魔法を学ぶのは目障りなんだって。……くだらない理由でしょ?」
アリエッタは泣き腫らした顔で、力なく笑った。
庶民……庶民ね。それがいじめの理由だとするなら、なんてつまらない事だろう。この世界の身分制度については詳しくないけれど、どうあれ余所者の私からすれば、そんなものに拘る人種とは相容れない。
「それで、そのロアンから攻撃を受けているのですか?」
「ええ。あの子は直接手を出しては来ないけれどね。やってくるのは彼女の友達――いえ、家来とでも言った方が良いかも。ロアンは貴族の中でもいい家の子だから、みんな逆らえないのよ。……もっとも、逆らう気なんて無いんだろうけど。私はこの家に産まれた事を恥だなんて思わないけれど、貴族の子は違うみたいね」
「……」
難しい問題だった。経済的な格差こそあれ、私が生きていた現代の日本では、身分の差で生じる差別などそうある話じゃなかった。
だが、それでも一つだけ言えることはある。そんな思いをするならば、行かなくても良いのではないか。わざわざひどい目に遭う為に行くなんて、そんな馬鹿みたいなこともないだろう。
「そんな状態なら、学校へ行かなくてもいいと思いますよ、私は」
「そうね。そういう選択肢もあると思う。……でも、やっぱり私は勉強がしたいの。それに、お父さんに心配をかけたくない」
おそらく、最後のが一番大きな理由だろう。私が気が付かなければ、アリエッタはオルコットにいじめの事を隠し通すつもりでいたに違いない。その証拠に彼女は言った。
「ミュー、約束して。この事は、お父さんに絶対言ってはダメよ」
「それは――」
「お願い」
泣きながら、すがる様な目をして、私を見るアリエッタ。こんなふうに頼まれては逆らえない。
「…………承知いたしました」
報告するのが当然の事だと思うのだが、アリエッタの気持ちを汲んであげたいという思いもある。だが、やはりこのまま見過ごす訳にもいかないので、私は一つ提案をしてみることにした。
「ただ、私からも一つお願いがあります。私を、アリエッタの学校へ連れて行ってください」
「――えっ?」
アリエッタが目を丸くする。まあ、当然の反応だと思う。逆の立場なら私でもそうするだろう。意思を持って喋って動くマヌカン人形なんて、門外不出のホラー案件だ。
「アリエッタの考えを尊重したいと思いますが、私はオルコットから貴女の事を任されました。私には、貴女の身の安全を守る責務があります。ですから、私がこの目で見届けて、オルコットに話すべきかどうかを判断したいと思います。……どうでしょうか?」
「それは、どんな形であれ、結局お父さんに話が伝わる事になると思うのだけど……」
さすがに、アリエッタは鋭い。しかし、私としてはこの親子のどちらにも忠義を尽くしたいのだ。
「アリエッタの言う通りです。でも、よく考えてみてください。オルコットが貴女を心配する理由は何だと思います? オルコットは優しい人です。貴女にもしもの事があれば、彼は自分を責めて後悔する事になる。私だって、それは同じです。だから、どうかお願いします。場合によっては、私から上手く誤魔化しておきますから」
「……」
アリエッタはそれでもしぶる様子を見せたが、最後には分かったと頷いた。
それからアリエッタは夕食の支度をすると言ってベッドを降りたので、私もオルコットの元へと向かう事にした。手伝いたいが、味覚と嗅覚がない私にとって、食事の用意は不可能な作業だ。アリエッタも独りになりたいと言ったので、私はポットに茶葉とお湯を淹れ直して、オルコットの居る作業部屋へと持って行った。
部屋へ入ると、オルコットは作業台に座って書き物をしていた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう――ちょっと温いね」
私が出したお茶を飲んで、オルコットは苦笑いを浮かべた。どうやら、アリエッタと話し込んでいる間に冷めてしまったらしい。
「申し訳ございません。温度を確認し忘れていました」
「……って事は、このお茶君が淹れてくれたのかい? はぁ、すごいな。……あいや、別に驚く事じゃないか」
オルコットはアリエッタと全く同じ感想を口にした。親子だなと感心しつつ、可笑しくて笑ってしまう。
「ふふっ、アリエッタも同じことを言ってました」
「ははっ、親子だな。……そうだな。よし、次の時は君に温度感知機能も付けてみようか」
「次の時、ですか?」
少し変わった言い回しに、私は首をかしげる。
「ああ。三週間後の試験が終わったら、君の身体を造り直そうと思ってね」
「そういえば、試験はどうするのですか?」
「それについてなんだけど、予定通りに仕上げる事にしたよ。試験には君を出す」
「……しかしそれでは、問題があるのでは?」
「実を言うと、運用試験は採用試験でもあってね。僕以外に、三つの工房から試作機が出るらしい。採用されるのはそのうちのどれかからという訳だ」
「つまり、試験では採用されないように振る舞えば良いのですね」
「ああ。話が早くて助かる。つまりはそういう事だね。試験に出せれば制作費と報酬は貰えるから、僕としてはそれで良い。最初からそのつもりだったしね」
「そうだったのですか?」
「うん。僕の造った人形に人殺しをさせるつもりはないよ。それに、君の事もある。採用されてしまえば、君自身も軍に持っていかれてしまう可能性がある。そうなったら困るからね。――という事で、明日からまた戦闘動作の書き込み学習をするから」
「その事なのですが、お願いしたい事が。事情がありまして、明日一日アリエッタに付いて行きたいのです」
「事情?」
オルコットはきょとんとした顔つきで、目をしばたいた。
「すみません。それはまだ、お話しできません」
「……そうか。まあ、それについては君を信頼しよう。でも、その身体じゃ外には出せないよ」
「ええ。分かっています。ですから、この頭の中にある私の本体だけを、持ち歩ける状態にしてもらえないかと」
「ふむ――分かったよ。ちょっと考えてみよう。アリエッタの事を頼んだのは僕だしね。明日は身体の方の調整をする事にしよう」
「ありがとうございます」
「うん。あの子の事をよろしく頼む」
「はい。お任せ下さい」
私は失礼しましたと一礼して、部屋を後にした。