霧の中から
その日の朝も、アルフェンの街は濃い霧に包まれていた。
憲兵団アルフェン二三分署所属のダリル伍長は、勤務時間を終えて分署二階のバルコニーへと出た。ここで仕事終わりに街を眺めて一服するのが、十年以上続く彼の習慣だ。
戦争で治安の悪くなった首都は、憲兵たちからすれば国内に生まれた第二の戦場と言っても過言ではない。
難民との諍いに、犯罪組織間の抗争。強姦、麻薬、強盗、殺人。気分の悪くなるようなそんな事件は、大抵陽が沈んでからよく起こる。
こんな時期こそ本当に、夜番勤務に回された事をうんざりとさせられる。そんな憂鬱を煙に乗せて、ダリルは何の気なしに街を見下ろしていた。
白に包まれた朧気な街は、夢や幻の中に在る様なそんな儚さと不確実性を見る者に与える。
署内から聞こえてくる警笛もどこか嘘みたいに思えて、ダリルはふぅと息を吐く。
「やれやれ、また事件か」
疲れと呆れのこもった独白を吐いて、ダリルは半分以上残った煙草を潰して、眼下へと投げ捨てた。
霧に吸い込まれていく吸殻を目で追いかけて、ダリルは何かに気がつく。霧の中でうごめく黒い何かに。
―――それは、多数の人影だった。
どこかぎこちない佇まいで、彼らは街の通りを埋め尽くすように分署の前に集結していた。
瞬間、ダリルの背筋を悪寒が駆けあがった。
何故、こんな日も登りきっていない早朝に市民が集まっているのか。
何故、これだけの人間が居て、息づかい一つ聞こえない程に静かなのか。
何故、こんなにも腐った匂いに満ちているのか。
答えを考える間もなく、階下から悲鳴が上がった。出動しようと外へ出た朝番団員が、人の群れと遭遇したのだと、上から見ているダリルにはすぐに解った。
それを皮切りに、人の群れが署内へとなだれ込む。足音だけを響かせて、無言の群衆は吸い込まれるようにして、ダリルの足下を流れていく。
署内から聞こえてくる同僚たちの悲鳴と怒号を聞きつけ、ダリルは腰の剣を抜いた。
瞬間、バルコニーの扉が破壊された。
振り向いたダリルは、視界の先に居る人の群れを見た。その正体を、その異常性を目にしてしまった。
カタカタと、剣を持つ手が震える。
「冗談じゃない―――」
ダリルが小さく呟くと同時に、数十体の屍がバルコニーに押し寄せた。腐敗の匂いと意思の無い暴力に飲み込まれ、ダリルは悲鳴一つ上げる事ができずに息絶えた。
"生きている者"が居なくなり、街は再び静寂に包まれる。
未だ惨劇に気づかず眠り続ける街の中、屍の列は音も無く霧の中へと消えて行った。
◇
二三分署を襲った不可解な事件の話は、瞬く間に街中を駆け巡った。
分署内に居た十七人の団員全員が、不審な圧死によって亡くなっていた事。内装は酷く荒らされ、破壊しつくされていた事。遺体と署内の至る所に、無数の足跡があった事。
物取りの可能性は無く、犯人の動機は不明。そもそも、これがどういった集団による犯行なのかを推測できる者など、誰一人としていなかった。
多くの憶測が飛び交うこの怪事件には、捜査機関によって意図的に伏せられた事実が存在する。
それは、素性不明の腐敗した死体が数体、現場から発見されたという事。そしてその全てが半獣人の腐乱死体だった事。
この二つの事実をサスティバンが知ったのは、事件が起きた十二時間後の事だった。
懇意にしている情報屋からこれらの事実を聴いた瞬間、サスティバンの脳裏にはある疑惑が湧きおこった。
スカジャハスの強硬派による、何らかの攻撃だったのではないかという疑惑だ。
仮にそうでなかったとしても、憲兵団が半獣人街とスカジャハスへ疑いの目を向ける事は、確実である。
サスティバンは事実確認の為に、すぐさまスカジャハスの事務所へと向かった。
険しい面持ちのサスティバンに気圧されて誰もが道を開ける中、サスティバンは事務所内を突き進み、会議室の前にたどり着いた。
中から聞こえる二つの声を確認し、サスティバンは中に入る。
「これはどういう事か、説明してもらおうか!」
ちょうど穏健派の代表であるバルメットが、強硬派の長であるルシャンを問い詰めているところだった。
バルメットがルシャンの前に新聞紙を叩きつける。見出しには二三分署を襲った怪事件の報道が載っていた。
「ちょうどいい。俺もそれについて聞きに来たところだ」
サスティバンは声をかけ、二人の元へ歩いて行く。
ルシャンは不機嫌な顔で、バルメットへ向けていた視線をサスティバンに移す。
「……サスティバンか」
「ルシャンの旦那。今日は正直、アンタら二人の言い争いを長々と聞いてる余裕はなさそうだ。だから、率直に事実だけを聴かせてもらいたい。これは旦那の所の連中のしわざかい?」
苛立ちの籠ったサスティバンの言に、ルシャンは眉間を目一杯によせた。
「お前、誰に向かって口きいてんだ? あァ?」
ルシャンの怒号を受けてなお、サスティバンは射るような視線を向け続ける。そんなサスティバンを、傍らに立つバルメットが庇った。
「いいや、ルシャン。俺も同意見だ。サスティバンは何も間違った事は言っちゃいない。ここ最近、主義主張の言い争いばっかで、俺たちは肝心な事をないがしろにし過ぎた。―――事件現場で出た死体は、この街の住民だ。さっきツテを頼って死体を見て来た。キロエ、カリー、ミリア、ホレイス、バシャン……覚えてんだろ? 全員ここの子供だ。あれは腐り具合から見て、一日二日じゃない。聞けば、もう二週間も前からこの街じゃ人が消えてんだ。お前はそれを感知していたかい?」
バルメットの言葉に、ルシャンは顔を曇らせ黙り込む。彼自身、自分達の行いのせいで街の治安に目が行き届いていない事は、感じていた。
「……初耳だ。この事件も、俺たちは関与していない。大体、こんな端くれの憲兵分署なぞ襲って何になるというのだ」
勢いのないルシャンの言い分に、バルメットはおもむろに頷いた。
「……そうか。まあ、アンタだってスカジャハスの一員だ。同胞の遺体を現場に残して、イカレた主張をするような男じゃないとは信じてる。だが、理由はどうあれ憲兵団を敵に回した奴が居て、そいつはどういうつもりか俺たちの同胞を殺して、見せしめみたく捨てていきやがった。まるで俺たちから連中への意思表示みたいにな。この街に憲兵共が来る。疑いの目は摘まなくちゃならねえ」
それを聞いたルシャンは眼を見開いて、再び怒りに吼えた。
「馬鹿な! 悠長な事を。分からないか、バルメット。これは連中からの宣戦布告だ。エルーシナ共が俺たちを追い出すきっかけを作りたくて、こんな手の込んだ事をしやがったんだよ。憲兵が死んだなんてのは、作り話に決まってる!」
それを受け、バルメットも怒りを含んだ地響きの様な声を出す。
「馬鹿なのはお前だ! まだ分からないか? 連中にしてみれば、俺たちはそんな手の込んだ事をしなくても追い出せる、小虫程度の認識なんだよ。やるなら真向から魔法でも何でもぶっ放してくるさ。子供だけを攫って殺してるイカレ野郎がこの街に居る。それに、憲兵団の目が向いた今、お前らが自棄を起こせば本当にエルーシナ共と戦争になりかねん。俺が言ってるのはな、そう言う単純な話なんだよ。これ以上、話をややこしくすんじゃねえ! 今俺たちのしなくちゃならねえ事は、同族殺しの犯人探しと、大人しくすることだ!」
「…………」
睨み合う両者を冷めた目で見つめながら、サスティバンは諭すようにルシャンへ言った。
「旦那。アンタが思っている様に、俺だって連中が嫌いだ。だがな、俺は連中と戦うよりも仲間を守る事を優先したい。ここは、スカジャハスは、その為の組織だったはずだろう? 今俺たちがこの街を守らなくて、誰がみんなを守るって言うんだ?」
サスティバンの真摯な言葉に、ルシャンは気を落ち着ける様に息を吐いてから頷いた。
「……そうだな。その通りだ。今事を荒立てるのは、誰にとっても特にならない」
バルメットも肩を下ろし、首肯する。
「ああ。当面は目立った行動は控えるよう、組員に徹底させよう。サスティバンは若い連中を集めて、この殺人鬼について調べてみてくれ。それでいいな、ルシャン?」
「ああ。異論はない」
ルシャンも頷いて同意し、スカジャハスの意向はさしあたり決定された。
平和的に事が運んだ事に、サスティバンは内心ほっとしていた。ここ最近の両者の対立を見ていれば、この件でいよいよ組織が二分されてしまう可能性もあったのだから。




