アルフェンの深い夜-【ネネッシュ】
国家元首の住まいたる宮殿周辺に広がる街は、国の要人たちの屋敷が集う特別な区画だ。
頓挫した都市改修計画の手が、唯一入ったこの地区は、他地区と比べて清潔感のある真新しい街並みが広がっている。
要人警護の建前と、上流階級の自尊心という本音によって、この地区には身分による立ち入り規制が敷かれており、街は壁によって外地区と仕切られ、道には検問が常時設置されていた。
その徹底ぶりは、貧民窟街の犯罪組織が行う縄張り主張とは訳が違う。
国の主導で行われる、身分と権力の誇示。この国の差別意識と驕りを象徴するような街である。
そんな中を、夜風を切って走る一台の箱犬車があった。
箱車に描かれた家紋は豪商【アンデレトワ】家の物。
百年前、海運業で財を成したこの家は、今やリアチーヌ王国の隅々にまで影響を及ぼす大財閥の一つとして君臨していた。
"王家の血筋を引くもの以外は正当な貴族にあらず"というこの国の意識の中にあって、平民からの成り上がり貴族でありながら血族至高主義の貴族と発言力で真っ当に戦える、数少ない商家でもあった。
長年培われてきた人脈と経済力の大きさは、全ての商家が問答無用でひれ伏し、アンデレトワと対立すればこの国では商売ができないと言われる程にその影響力は根強かった。
アンデレトワ商会は、リアチーヌ王国の裏の帝王と、誰もが認める存在だったのだ。
―――しかしそれも過去の話。二年前のお家騒動をきっかけに、徐々に均衡が崩れ始める。
リアチーヌ王国と隣国バスティア帝国の間で起きた、侵略戦争。
この開戦時期と重なって、アンデレトワ家では跡継ぎ問題による内紛が起こる。
後継ぎとされていた長男が何者かに毒殺された事によって、次点での候補となる姉弟の間で派閥争いが起き、商会内が二分されてしまったのである。
一年にも及ぶこの対立は、当然商会の業務そのものに支障をきたした。
この間停滞してしまったアンデレトワ商会の業務の穴を狙って、他の商会が次々と名乗りを上げていき、軍需産業における多くの"稼ぎ所"を失ってしまったのだ。
結果、現当主ミライジャ・アンデレトワが会長の椅子に着く頃には、アンデレトワ商会はその影響力の多くを失っていたという訳である。
革新的なものを求める現軍部の意向と、老舗のアンデレトワでは馬が合わず、その後も追い打ちをかけられた形で、開戦以降の二年間、業績は下がる一方であった。
それらの責任を一身に負う形となってしまった、ミライジャ・アンデレトワの苛立ちは凄まじく、そんな彼女の怒りの矛先は、時おり妹であるネネッシュ・アンデレトワへと向けられていた。
そんな事情から、ネネッシュは疾走する箱犬車の窓辺で、深いため息をついた。
命より金勘定を優先する、怒りに満ちた姉が苦手だった。
自尊心の誇示と、他者に犠牲を強いる無恥が生んだ、この美しい街並みが嫌いだった。
半獣人の怒りを知りながら、償う術を見つけられない己の無力が嫌いだった。
弱く、守られるだけの、無力な自分が嫌いだった。
ネネッシュは、自分と自分の周囲に在る世界が嫌いだった。
だからこそ、自由に生きている様に見える、クラムという少女に憧れを抱いていた。
そしてそれが、彼女の苦悩を知らない身勝手な思いと恥じ、自分自身を嫌悪する。
ネネッシュは本来、そんな内向的な性格の少女だった。
街で慈善活動に取り組むのも、明るく振る舞おうとするのも、そんな自分を嫌うが故に作り出した『アルターエゴ』とも言うべき仮面でしかない。
彼女は独りになれば、そうした自分を恥じて憂鬱に落ちる。
そんなネネッシュを、対面に座る男が心配そうに見ていた。
薄汚れたネネッシュとは対照的に、裕福な身なりの男だ。小綺麗な男ではあるが、二十代前半特有の幼さを残した青年顔は、どこか頼りない雰囲気を漂わせている。
「ネネッシュ、大丈夫かい?」
努めてそうしている様な穏やかな口調で、男はネネッシュに声をかけた。
「はい。少し、考え事をしていただけですから。心配していただき、ありがとうございます。兄上」
ネネッシュは苦悩に沈んだ表情を硬直させたまま、男へ言葉だけの強がりを吐き出す。
兄と呼ばれた男―――ネルン・アンデレトワは、そんなネネッシュをなだめる様に優しく言葉をかけた。
「……僕相手には、そう畏まらなくても良いんだよ。家族なんだからさ。姉上が特別厳しいってだけなんだ。二人の時くらい、肩の力を抜いた方が良い。身体がもたないよ」
「……はい」
なおも暗い表情をする妹の気を紛らわそうと、ネルンは適当な話題を引き出すことにした。
「今日は何か良い事があったんだろう? 迎えに行ったら、随分と嬉しそうにしていたじゃないか今日は」
ネルンの思惑通り気がまぎれたのか、ネネッシュの顔色が少し明るくなる。
「あっ、はい。そうなんです。偶然アイルフィール商会の方が教会に来られて、それで私達の活動の事をお話したら、支援してくださると言ってくれたんです」
「ほお、あのアイルフィールがか。武器商人だというから物騒な印象だったけれど、けっこう慈善家なんだな。それとも罪滅ぼしかな?」
意外だという風に、ネルンは両眉を上げた。得体の知れない商売敵の意外な一面に、商会の役員としては少し興味を持つところであった。
ネルンの感想に、ネネッシュは困り顔で微笑む。
「もう、そういう事を言ってはいけませんよ」
「はは、そうだな。失礼な話だった。―――ふぅ。それ、姉上には言わない方が良いぞ。あの人、アイルフィールに兵器案件全部持って行かれて、相当お怒りだったからな。今日の会議も荒れてたよ」
流れで出てしまった軽口に、ネルンはまずいと言う表情を作る。わざわざ誘導してまで避けた話題を、自分で掘り返してどうしようというのか。
時すでに遅く、ネネッシュは再び顔を曇らせた。
「…………そうですね。そうします。―――とはいえ、姉上はそもそも私の話なんて聞いてくれませんけれど」
「……まあ、姉上は姉上で頑張っているんだよ。責任だ何だって全部おっかぶさって、それを独りで処理してんだ。色々溜まってて、そういうのがどうしようもない所まで来てるんだと思うよ。元々、癇癪持ちだからさ」
「ええ。分かっています。……分かっていますけど、やっぱり私、姉上が怖いです」
「それは俺もだよ。仕方ないさ。こればっかりは、仕方ない」
二人の間に、重い空気がのしかかる。権力と権限を持って横暴を振るう家族への、やり様の無い感情。
二人の中にあるのは怒りや悲しみではなく、例えるなら疲れに近い。
「―――っと、悪い悪い。わざわざ暗くなる方に話題を振らなくても良かったな。……ええっと、そうだな―――」
明るい話題を必死に探そうとするネルンへ、ネネッシュは無理やりに作った微笑みを向けた。
「……ありがとう、兄上。でも、もう屋敷に着きますよ」
「ん? ありゃ、もうか」
困ったなとばかりに頭を掻くネルン。
直後、二人を乗せた箱犬車は屋敷の前に停まった。二人の住処である、アンデレトワ家の屋敷だ。
ネネッシュは暗い表情で敷地を抜け、玄関の扉に手をかける。姉の不在を祈りながら、ネネッシュはゆっくりと扉を開けた。
足早に薄暗い廊下を抜けていく。恐る恐るリビングルームの前を通ったネネッシュへ、不意に声をかける者がいた。
「あら、帰ったの」
冷たい、女の声だった。
聞き慣れたその声に、ネネッシュは震えあがる。天敵に睨まれた獲物の如く、脚は凍り付いたように動かなくなる。
ネネッシュは無気力な表情で、声のした方を振り向いた。
視界に映った実姉の姿に、ネネッシュは涙を浮かべる。
「あっ…………ただ今戻りました、姉上」
震えながら、か細い声を吐き出すネネッシュへ、彼女の姉ミライジャは突き放すように言葉を投げつけた。
「ふんっ―――まったく。いつまでも遊び歩いて。うちは今大変なんだから、いつまでもお嬢様で居られると困るんだけどね」
「………………はい、申し訳ございません」
慈善活動を、正当な働きとは認めない。それがミライジャの見解であった。ミライジャからすればネネッシュは放蕩娘と変わらず、常にそこを責めてくる。
どれだけ主張しようと意見の通る事が無いと分かっているネネッシュは、連日ぶつけられているその言葉に、もう反論する気力も無かった。
「別に謝罪なんて求めてないわよ。謝るくらいなら、私と家に負担をかけないで頂戴」
「……それは―――ですから、うちのお金には一切手をつけていません。活動はあくまで―――」
「アンタが食べる食事、入る風呂、使う魔光灯、それはタダで出てるって?」
そう言われては反論はできない。ネネッシュのしている事は、無償の労働であって、利益を得る事は決してないのだから。
だが、それに対する回答をネネッシュはとうの昔に出していた。家を出て教会に身を寄せてでも、ネネッシュは自分の活動を続けようと決心している。それを阻んでいるのもまた、ミライジャだった。
「………………だからと言って、私が家を出る事を許して下さらないじゃないですかっ!」
非のない所に非を作られて責められては、流石にたまったものではない。怒りに吼えるネネッシュへ、ミライジャは理不尽な理屈を並べ立てる。
「当然。今、アンデレトワの名はほとんど地に堕ちかけている。こんな時に外で勝手されて、家の名に傷でもつけられたら、たまったものじゃないわ」
「――――――――――――」
家の面子と商会の利益。そんなものの為に自分を縛ろうとする姉に、ネネッシュは憤りをぶつけた。彼女にできるのは、ただ睨み付ける事だけだったが。
ミライジャはそれに対して一切の反応をみせず、冷たく自身の意見を言い放つ。
「なによその眼は。文句は一人前になってから言いなさいな。ちょっとは家の仕事に貢献してみようとか思わないわけ? お父様がアンタの教育にかけた資金だって、商会から出てるのよ? 学ぶだけ学んで、無駄に時間を消費して。まったく……あんな獣臭い連中に関わってると、そのうちロクな目に遭わないわよ」
一方的な暴力に苛まれている妹を助けようと、ネルンが二人の間に割って入った。
「まあまあ、その辺にしといてやってくれよ。ネネッシュには、ネネッシュなりの考えって物が有るんだろうからさ」
「あら、アンタも帰ってきてたの」
素っ気ない態度をとる姉へ、ネルンはあくまでも平常に振る舞った。
「ええ。ここは僕の家だからね。……ネネッシュの分まで僕が働くからさ、それでいいだろう?」
姉妹の険悪な関係を間近で見ている者として、ネルンはなおさらこの妹が不憫に思えてならない。ネルンがネネッシュを庇うのは、自然な流れであった。
そんなネルンの態度も、ミライジャはどうでも良いとばかりに一蹴する。
「ふんっ―――それで何が解決するって? 私はネネッシュがいつまでも―――」
「―――――――――っ!」
これ以上は耐えられないと、ネネッシュは走り出した。力任せの足音は上階へ登り、破裂音にも似た扉の音が屋敷に轟く。
ネルンは顔をこれ以上ないというほど引きつらせ、姉に問う。
「あーあー、またしばらく降りてこないよ、あれ。どうして姉上は、ネネッシュにああもキツイんだ?」
終始しかめ面のミライジャは、ネルンに対してもきつい口調で言い放つ。
「ふんっ。アンタには関係ないでしょ。それより、レクティバス博士がこれからいらっしゃるから。話の邪魔だけはしないで頂戴ね」
「承知しましたよ、姉上」
ネルンはとうに諦めがついているのか、ミライジャの態度に反抗する事なく、素直に受け流した。
「じゃあ、お願いね」
ミライジャは淡々とした口調で告げると、足早にその場を後にした。
後に残されたネルンは、部屋の端から始終を怯えながら眺めていた侍女たちに、もう大丈夫だと合図を送ってやった。
ほっと息をついた侍女たちが、本来の仕事へ戻っていく。
「…………やれやれ、どうしたものかなぁ」
ネルンは侍女に上着と鞄を手渡しながら、疲れた風に息をついた。




