イハナ
闇夜に紛れて歩いていた。
吸血鬼と言うのはこの異世界でも、私の世界と同じく、闇に紛れる事を得意とする性質があるようだ。
不完全な吸血鬼であるイハナにもその能力は在る様子で、生体感知の助けが無ければ見失っていただろうと思う。
アリエッタがミカに仕事を命じた直後、診療所からイハナが抜け出した。
再びルーンの元へ一人で行く気なのではと危惧して追いかけて来たが、どうやら違うらしい。進んでいる方向が全く違う。
イハナの眼は回復し始めているのか、前を行くイハナの背には迷いがない。それでも完全に見えているわけではないようで、動きがどうも危なっかしい。
すぐにでも引き留めるべきなのだろうが、彼女が隠れて診療所を出た理由が気になって、私はイハナを尾行する事にした。
イハナがたどり着いたのは、住宅地の真中に在る教会の様な建物だった。この異世界にも信仰の類は有る様で、こういった建物は人の住む場所には必ず存在するみたいだ。
イハナは手探りで扉を開け、教会の中へと消えて行った。吸血鬼と教会なんて、嫌な予感しかしない。
急いで後を追うと、イハナは聖堂の最奥にそびえ立つ神像の前に立っていた。その神像の前には水を貯めた受け皿の様なものが在る。
この世界の信仰に詳しくない私にも、あれが"聖水"である事くらいは察しが付く。実際、生体感知には水が纏う高濃度の魔力が映っている。
それを今、イハナは手で救い上げようとしていた。
「……自ら命を絶つおつもりですか?」
イハナの身体が飛び上がった。振り向いた彼女の左眼は、白く濁って霞んでいた。右目は未だに潰れたままだ。
「―――ミューさん? どうしてここに?」
私の姿はまともに見えていないのか、彼女は音を頼る様にして私を探っていた。
ゆっくりと近づいて、イハナの前に立つ。
「アリエッタの命で、貴方を連れ戻しにまいりました。アリエッタは貴方を心配しておられます。当然、私も」
イハナは顔を伏せ、首を振った。
「……もう、無理なんすよ。これ以上は、耐えられない」
そう言って、イハナはその場で膝を抱えて小さくなった。怯えて身を隠すように体を抱く彼女の姿から、哀しいほどに脆い印象を受ける。
「姉様を守れなかっただけじゃなく、私は町の人達を―――あんなにも多くの人達の命を、この手で奪ってしまった。全部、私が弱いせい…………もう、こんなの嫌だ! 嫌なんすよ! 怖い、怖いよ。私は私がしてしまった事の償いを、どうすればできるんすか? こんなのもう、死ぬしかないじゃないっすか」
イハナが追い詰められているだろうという事は予想していたが、昨日ルーンへの特効が失敗した事で完全に彼女の心は折れてしまったらしい。
「死んだって、何も変わらなかった―――結局逃げ切る事はできませんでしたよ」
そんな彼女にかける言葉としては、適切でないと薄々感じてはいたものの、それでも口を突いて出てしまうのは、私も自制が利いていないという事なのか。
「……どういう意味っすか?」
泣き腫らした顔で、イハナは私を見上げた。私は膝をついて、彼女に目線を合わせる。
「貴女が死んだところで、罪滅ぼしにはならないという事です。死ぬって事は、眼を背けて逃げようとしているだけでしかない。それで貴女は、納得できるのですか?」
「っ! 貴女に何が分かるって言うんだ!」
「分かりますよ。私も似たような経験がある。―――私は人形ですが、最初からそうだった訳ではありません。前世の私は、普通の人間でした。この世界風に言うと、ノイヤになりますね」
「前世って―――つまり、ミューさんは一度……」
「ええ。死んでいます。自ら望んだ転落死という奴です。
私は生前、一人の男を殺しました。その男は私の母を殺し、そして私の―――身体を穢した。だから殺したんです、仇討ちのためにね。でも、そうして遂げた復讐の後に待っていたのは、あまり気分の良いものでは無かったんです。私はね、人を殺して喜んだ。復讐を遂げて、すがすがしい気分になった。結果として露呈したのは、私が人の倫理から外れた頭のおかしな女だったという事実だけ。それ以上、生きる意味も価値も無く、資格も失って、私は死を選んだ。自分の醜悪さに耐えきれなくなって逃げ出したんです。
―――そして結果がこれですよ。私は死にきれず生き返ってしまった。人を殺す事にためらいの無い怪物、醜悪な魂の宿った呪いの人形の完成だ。私はただ、そこに居るというだけで災禍を引き起こす。だけれど、今更どうしろっていうのです。また死んだところで、同じ事をくり返すだけかもしれない。私は死んでも事実から逃げられなかった。だから私はもう、死ぬ事は止めました」
「…………それで、貴女は救われないままなのですか?」
――――――さて、どうだろうか。最初の頃ほど、それについて苦しんではいない気がする。
今の私の悩みは全て、アリエッタのために何をすれば正解なのかという事。とっくに終わってる私自身については、もう考える事を止めている節がある。そう言う意味では、私は救われているのかもしれない。
自分の罪に対する問答は、あの夜にアリエッタの人形になった時点で決着をつけた。
「……そうでもないです。確かに私は変わらなかったけれど、受け入れる事はできる様になったかもしれない。私はこの世界へ来て、アリエッタと出会いました。彼女が私を受け入れてくれたから、私は今のままの自分でも良いと思えるようになった。人間を嫌い、人間失格と自己を嗤う私を救ったのは、皮肉でも何でもなく、やはり人と関わる事なのです。それだけは、はっきりと言えましょう」
「……ミューさんには、良い出会いがあったんすね」
「そうですね。でもそれは、貴女にだってあるはずだ」
「ミューさん……――――――っ、誰か来るっす!」
イハナに言われて、生体感知に複数の人影が映っている事に気が付いた。
ゾンビ―――いや、この動きは生者のものだ。なら、近づいているのはルーンの手先に違いない。
「イハナ、私から離れないように」
庇うようにイハナを背後に隠して、入り口を向く。聖堂に入って来たのはルーンの私兵たちだった。
「居たぞ、殺せ」
私兵の一人が、仲間に指示を出す。と同時に全員が剣を抜いた。シエルと私の闘いを間近で見ておきながら、こんな雑兵を寄こすなんて、ルーンには舐められたものである。
魔法で氷塊を撃ち込もうと構えた刹那、私兵たち全員がうめき声をあげて倒れた。崩れ落ちた男たちの背後、教会の入り口に立って居たのはアリエッタだった。
「はぁ……二人とも無事?」
男たちの死体を踏みつけながら、アリエッタはゆっくりとした歩調でこちらに近づいて来る。
アリエッタの足元で、影が動いた。
「……このっ、」
打ち所が良かったのか、私兵の一人がうめき声を上げて、アリエッタを睨みつける。アリエッタはそんな私兵には目もくれず、ただ頭蓋に氷塊を撃ち込んで止めを刺した。
「どうして貴女は、そんなにも簡単に人を殺してしまえるんですか?」
背後のイハナが、震える声でアリエッタに問う。
対するアリエッタは、私達の無事を確認して安心したのか、口元を緩ませながら答えた。
「彼らが悪人だからよ」
「ならっ、私も殺して―――私だってそうだ。町の皆を……大勢を殺してしまった」
悲痛に叫ぶイハナに、アリエッタは首を振った。こんな事をアリエッタに口走るなんて、イハナはまともじゃ無くなってきている。
「それはできないわ。貴方は悪人じゃないもの」
「っ! ……なら、貴女はいったい何なんすか? どんな権利があって良いとか悪いとかそんな物を区別するんすか? そんな権利誰にもない。神さまにだって、有るはずない!」
取り乱した様子で叫ぶイハナに、アリエッタは冷たく答えた。
「そうね。だから、私は何者でもないわ。私はアリエッタという一人の人間の判断で人を分類する。大事な人は守りたいし、気に入らない物は排除する。故に私は確かに"悪"なのでしょう。
―――この世界は人の悪意に満ちている。そこで奪われない生を送るには、正しさに救いは求められない。正義や倫理じゃ、大衆の心理は変えられない。悪意を許容し、見て見ぬふりをするこの世界を変えられるわけがない。人は自分さえ不幸にならなきゃそれでいい。痛みを感じなきゃ、それが悪い事だって認識できない。こんな世界、より深い悪辣を持って自己を守らなければ、何一つ守れない。……残念だけど、今はそういう時代なの。私が父を奪われたように、貴女がルーンにされた事の様に、誰にも正す事の出来ない悪意が、この世界には蔓延している。弱いものは生き残れない。だから私は、私自身の守りたいものを守るために、同じ場所に身を堕とすのよ。悪辣を司る者こそが強者なら、私は強者になる。それが間違っていると言うのなら、いくらでも蔑みなさい。私はそれを、間違った事だなんて思わないから」
弱ければ守れないから強くなる。そこに善悪が絡んでも関係ない。強者になるという言葉通り、それは強者の意見だ。失うものが無い程に奪われ尽くされた果てにたどり着いた、省みない強さ。
それをここで説かれて、イハナがどう受け止めるのか、私は不穏な心持ちで様子を見守っていた。
アリエッタは自己完結しているから純粋で居られ、イハナは全て素直に受け入れるから純粋なのだ。そんなもの、水と油でしかない。ここに来てようやくその事に、私は気が付いた。この二人の相性は、そういう意味じゃ最悪だ。アリエッタの人格は、イハナを人間的に壊しかねない。
「…………本当は分かってるっすよ、自分にも。ただ―――いや、きっとこんな状況じゃそんな議論は意味が無いんだ。何もかもが間違っている。ルーンの存在も、鉱山の奪い合いも。人の命よりも尊い財産なんて、あるはずないんだ。姉様はいつも言っていた。自分の宝物は、この町とここに暮らす人達からの信頼なんだって。それをルーンは、一番卑劣で野蛮な方法を使って踏みにじった。もう、どうやったって正常には戻らない。ルーンを殺してこの町を取り戻したって、もうここには何も無い。何も戻ってこない。
私が死んでも、ルーンを殺しても、何も解決なんてしない。なら、私はどうしたら良いんすか? 私はどうしたら、私がしてしまった事の償いができるんすか? なにをすれば、姉様や街の人達は私を許してくれるの? 私の罪はどうしたら許されるの?」
イハナの叫びが聖堂に響き渡る。徳の無い私にも、その懺悔には答えられる。だって、罪なんて彼女は犯していないのだから。
「……誰も、貴女を恨んではいないと思いますよ。みんな、ルーンが悪いって分かっています。貴女は利用されてしまっただけ。いや、貴女だって被害者なんだ。
貴女が眠っている間に、生き残った人々が街を出て行きました。けど、誰一人貴女を責めた人はいませんでしたよ。みんな貴女が目を覚ますのを待っていました。一緒に連れて行けないのが残念だと」
「…………」
アリエッタは屈んで、イハナの手を握った。虚ろな目で、イハナの瞳を真っ直ぐに見据えて、彼女は言う。
「貴女が罪を感じて、何かをするべきだと思うのなら、貴女自身の手で決着をつければ良いじゃない。貴女の手で、あの男に責任を取らせてこの町を取り戻せばいい。何も解決はしないかもしれない。元には戻らないかもしれない。けど、決着はつけられるわ」
「……できる事ならそうしたいっすよ。けど、私は貴女達みたいに強くない」
「ええ。そうね。だから、私達が手を貸してあげる。貴女がしたい事をできる様に、私達が手を貸すわ。戦うのなら、一緒に戦ってあげる。この町を捨てて逃げたいのであれば、手を貸す。貴女はどうしたい?」
「どうして、そこまでしてくれるんすか? 私なんかのために、何の関係も無いのに」
「貴女は私の友達だから。私にとって大切な事は、私が尊ぶモノを守る事だけ。だから貴女を助けるの―――ちょっと重いかしら?」
イハナは強く首を振って、それからまた泣き出した。
「ううん。そんな事ないっす。…………ありがとう……ありがとう」
膝に顔をうずめてイハナは何度も何度も呟いた。
二人の手は強く、固く握られていた。




