夜話
窓の外は雨が降っていた。日が沈んでから降り出した雨は、もう七時間以上もその勢いを弱めることなく続いている。
嫌な予感。いや、これは経験から来るただの無意味な妄想か。雨が降る日は、良くない事が起こるという妄想。
アリエッタは入浴中に、町からの帰りに不審者に脅しをかけられた事を私に告げた。思惑や狙いはどうあれ、襲撃してくるのは間違いないから警戒しておけというのが、アリエッタからの命令だった。
幸いにも生体感知の範囲は、この城に居る三人の寝室を余裕をもって監視できるだけはあるので助かった。
人のプライバシーを侵すみたいで気は進まないが、誰が敵の狙いか分からない以上は、やむを得ない。セレイアさんとイハナにも一応了解は貰っているし、問題はない。
生体感知に意識を割いているため、今日は裁縫ができなかった。アリエッタに着せたい服の構想がまだまだあるだけに、少し残念だ。こういうのは、一時の我慢と思いたいけれど、賊が襲ってこない事にはどうしようもない。
いや、襲撃を望んでいるみたいで、これじゃあ不謹慎だな。
退屈のあまりおかしな方向にいきそうな思考をいったん放棄して、私は暖炉の様子を見に動いた。
私は感じないので平気だが、アリエッタは生身なうえに身体が悪い。ちょっとした寒さで具合を悪くしてしまっては、可哀想だ。
炎の中に、枝を何本か投入する。こっちの世界へ来て、はじめて暖炉なんてものを触ったが、意外と丸太を突っ込むだけでは燃えてくれないので、暖炉は奥が深い。
ガスや石油はこっちの世界には無いのだろうか? あればアリエッタに発明してもらって、それでぼろ儲けというのも結構夢のある話ではある。
やる事が無くて暇を持て余していると、アリエッタがベットの方から声をかけてきた。
「……暇そうね。ごめんなさい、貴女にばかりこんな事をさせてしまって」
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん。勝手に目が覚めただけ」
アリエッタはベットで横になったまま、そう答えた。私はベットの脇にある椅子に座る。眠そうに眼をたらしたアリエッタと、目が合った。
「私がしっかり見張っておきますから、安心して眠ってください」
「いつもありがとう。……ミューは私にさ、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
また、変わった質問をする。いきなりどうしたと言うのだろう。
私はとりあえず、素直に答える事にした。
「恩ですかね」
私の答えに、アリエッタは双眸を細めた。
「恩?」
「ええ。私は貴女に助けられましたから。死んだ私と壊れた私、両方を受け入れてくれたのは貴女です。だから私は、貴女に仕えたいと思ったんです」
私は生まれ変わったわけじゃない。死んだまま、何の因果か召喚されて、この人形に定着しているだけの魂だ。
そんな私を生かしてくれたのは、アリエッタとオルコットだった。二人が私を受け入れて、愛してくれたから、私はこの世界で生きている。生きていける。それこそ、私が最も尊ぶ恩義なのだ。
「それは知っているわ。貴女を通して、夢で見たもの」
アリエッタは静かにそう言った。
以前、私達は不思議な現象に遇って、お互いの記憶を夢に見たのだ。私がアリエッタの心の奥底に眠っていた狂気を見たように、アリエッタも私の汚らわしい過去を見た様だった。
「でもね、私が訊きたいのは、たぶんそういう事じゃないんだと思う。今日、あの姉妹と過ごしている間、私はあの子たちの保護者だった。愛おしくて、守ってあげたくて……変な話でごめんなさい。でもね、分からないの。貴女が言う、その"友達"っていうのは、そういうものなの? 何の関係もない他人なのに、大切に思うモノなの?」
アリエッタは本気でそんな事を悩んでいる様だった。誰も思考しない事、する必要もなく感覚で理解している事を、アリエッタは知らないのだ。
彼女は人に興味を持たなかった時間が長すぎて、その感覚を獲得できないままにここまで育ったというのか。
「なんて、こと……」
思わず、そんな風に呟いていた。
これなら、殺意や怒りを快楽や悦楽とはき違えてしまうのも分かる。彼女は怒りを誤認しているんじゃない、感情を理解していない。知識や理屈で理解していても、心ってやつでそれを感じていないんだ。
だから無関心で、無感情になったりする。喜びや恐怖にだけ、やたら機敏になる。それは彼女が正しく獲得した、数少ない感情なのだから。
「……逆に訊かせてください。アリエッタは、私と初めて出会った時のことを覚えていますか? 貴女は私を、得体の知れない生きている人形を、大事にしてくれましたよね。言葉を熱心に教えてくださったのも貴女だ。それはどうしてですか?」
今でもはっきりと覚えている。あの時は言葉が理解できなかったけれど、それでも最初に私の所有権をオルコットにねだったのは彼女だったと分かる。オルコットから私の世話をしろと言われた訳じゃない。
「…………新しい家族ができたって、そう思ったから。お父さんは仕事で忙しくて、独りの時間も多かったから、暇……いや寂しいって言うんだよね。うん。正直に言うと寂しかった。だから貴女が来てくれて、独りにならなくていいんだって分かって、嬉しかったんだ」
それだ。人間の感情なんて、突き詰めればすべてそこに起因している。
「それですよ、アリエッタ。人は寂しいのが嫌いだから、人と関わるのです。人に求められたいから、人に優しくする。求めてくれるから、人を愛する事ができる。そういうものなんです。そこに血のつながりとか、性別とか人種とかそんなのは関係ない。そういうものを、友達って呼ぶんですよ」
よくもまあ、私なんかがこんな事を饒舌に……でも良い。これがアリエッタの為になるのなら、私はいくらでも自分を曲げて人間を語ろう。
「じゃあ、レマとロミ、それからイハナさんやセレイアさんは友達になるのね?」
「アリエッタが大切だと思うのなら、そうです」
アリエッタは言葉を呑み込むように、そっと瞼を閉じた。
「……そう。そうね、きっとそう。……分かっていたはずなのに」
「分かっていた?」
「感覚をズラしていただけ。本当は、ずっと昔に分かっていたんだと思う。裏切られて、それが全部勘違いみたいに感じられて、きっと、分からないふりをしていたんだ」
アリエッタは泣いていた。
「私は、人が好きよ。やっぱり、独りよりはずっといい。だけど、私は『私に優しい人』しか好きになれない。それって、悪い事かな?」
そうだろうか? 私には、全人類を本気で愛している人や、全てに無関心である人間の方が、よっぽどどうかしていると思う。
「それが普通ですよ。みんなそうです」
「そうなのね」
アリエッタは微笑んだ。
「ねえ、ミュー。それなら、友達に優劣はつけるもの? 劣はないとしても、優はあっていいの?」
どんな質問なんだそれは。という感じだが、アリエッタはそういう子なのだとそろそろ理解しなくてはなるまい。感情での理解が乏しい分、友達の概念すら知識でカバーしようとするのが、アリエッタという少女なのだ。
「そういうのを、親友って呼ぶんじゃないですかね」
「そう。なら、ミューは私の親友ね」
アリエッタは柔らかい笑顔を私に向けた。それは出会ったばかりの頃の、正常なアリエッタがしていた笑顔だった。
「そうですね。親友です」
そんな風に笑って返した途端、生体感知に何かが映った。複数人の反応だ。
ああ、もう。どうしていつも良い所で、こうして邪魔が入るのだろう。もっと平和に静かに暮らしたい。
「アリエッタ、襲撃です。やはり、セレイアさんの方でしたね」
私がそう報告すると、アリエッタはもういつもの調子に戻っていた。
「良いわ。皆殺しにしましょうか」
アリエッタは嬉しそうに笑って、そう言った。
人らしい心の芽生えと、悪辣な感情の両立は、はたして正しい在り方なのだろうか?
今はまだ、私自身にもその答えは分かっていない。そもそも私は、アリエッタを正しい状態に戻したいのか。正しいなんて、そんな基準はどこにある?
――今は、いい。
私は立ち上がって、戦闘状態に感情を切り替える。
「承知しました」
いつも通りにそう言って、私はセレイアさんの寝室に向かった。