目覚めた話
そこは何も無い場所だった。
暗くもなく、明るくもない。暖かくなく、寒くもない。有無という概念すら存在しない場所。ここは「 」だった。
「 」の中にただ私だけが唯一存在していた。それに対して、思うような事はなにも無い。私の心は虚無で在りたがっていたから。人間である事を自ら否定した私は、消えて無くなってしまいたかったから。
それなのに思考だけは放棄しきれないのが、苦痛というなら苦痛だろうか。私はもっと完全に、「 」と一つになりたかった。溶け合って、「 」に沈んで消えていく事を望んでいた。
終わってしまったはずの私が未だにこうして存在し続けていることが、許せない。
人を殺したことで醜く穢れてしまった魂が、ただ消滅する事を望んでいるのに、私はどうしても終われないらしい。
これは、罪に対する罰なのだろうか。望まぬ形で永久に夢想し続ける事が、私に課せられた罰だというのか。
罪に対して思う事は無い。私はそれを罪とは思わない、私自身を恐れているのだから。だとすれば、この罰は、私にとって何よりも耐え難い。自分の存在を許せない私は、すでに終わってしまったが故に終わる事の出来ない世界で、自己を認識し続けるのだから。
ああ、なんて無様な。
ならば思考を放棄するしかない。考えることを止めて、自分を停止させるしかない。眠るように、夢を見るよりも深く、意識を落とす。
「――――――」
誰かが呼んでいる気がした。意識を引き戻された私は苛立ちながら、その声を辿る。
この「 」の中にあって、何が私を呼ぶというのだろうか。ただ、純粋な好奇心だった。
「――――――」
声を辿ると光が見えた。ふわふわと揺れる弱い光。水の底から天上の光を見たような、そんな感覚。私は手を伸ばした。その光が何なのかを知りたかったから。その先に何があるのか見てみたかった。
光は近づくほどに大きくなっていく。目が潰れてしまいそうな強い強い白。身を焼くような熱さにさらされて、それでも私は光へと近づいていく。
熱に溶かされ、私は光と一つになっていくのを感じた。白と一つになる。これでようやく終われるような気がして――
――そして私は目を覚ました。
目を開けて最初に見たのは、男の顔だった。丸眼鏡をかけた、優しそうな顔立ちの外国人だった。着ている服はくたびれていて、全体的に薄汚い。浮浪者というよりは、働いた者らしい堅実な汚れ方で、私はなんとなくこの男を職人だと思った。
その隣には少女が居た。おそらくこの男の娘なのだろう。金色の髪に青い瞳。整った顔立ちは人形の様に可愛らしかった。
男は私を見て、歓喜する様に異国の言葉を口にする。対して少女は不思議そうに私を見つめていた。
ここは作業場の様だった。部屋の壁には設計図の様なものが隙間なく貼り付けられ、手前の台には工具のようなものが見られた。
はて、よくよく考えると変な視点だ。まるで、テーブルの上に私の頭だけが乗っているような、そんな角度と位置。
「ここは、何?」
私の第一声が、口から発せられる事は無かった。動くのは瞳だけで、他の部位は全く動かせない。なのに、どういうわけか声は確かに体の外部へと発せられたのだ。
体に起こった異変に戸惑っている私に、目の前の親子は一瞬驚いたような表情を向け、そして嬉しそうにはしゃぎ始めた。何を話しているのか理解できなかったが、私が声を発した事について話しているように思えた。
それから少女は何かをねだる様に父親と話し出した。父親は少し考える様な素振りをみせてから、頷いて少女に何かを言った。
少女は嬉しそうに父親に抱き着くと、こちらに近づいて私の頭を持ち上げた。触れられた感覚は無い。少女の顔が近づく。奇妙な状況に戸惑っている私へ、少女は何かを言って微笑みかけた。その柔らかな温かい笑顔に、私は警戒を解いた。何が起きたのかは分からないが、少なくとも身の危険を感じる様な雰囲気はないみたいだ。
元々どうなっても構わない身だけれど、やはり理解の出来ない事に遭遇するのは怖いと思う。分からない事は、それだけで恐怖だ。
少女は私を抱えて部屋を出た。この親子の自宅らしいこの建物は、それなりに立派だった。目覚めた作業場こそ散らかっていてみすぼらしかったが、お屋敷と表現して十分に相応しい広さがあり、所々に凝った意匠の施された物件だ。
ただ、広さのわりに人の気配がしないのが気になった。私は運ばれているだけなので全てを見た訳ではないが、どうやらこの親子二人しか屋敷の中に居ないらしい。灯りの点いていない廊下なんかは昼間なのに薄暗くて、幽霊でも出そうな雰囲気だ。
少女は階段を上がって行き、一番手前にある部屋の扉を開けた。部屋には、ベットの他に机や本棚が置かれていて、それらの上にはぬいぐるみが置かれていた。ここがこの少女の部屋だという事は、それを見てすぐに理解できた。
少女はそっと私をベットの上に乗せると、本棚の方へと向かっていった。私はその様子をぼんやりと眺めていた。
ふと、部屋の隅に置かれた姿見鏡が目に入った。
部屋全体が映し出された鏡には、ベットの上に転がる私の姿も当然在る。
そこでようやく、自分の状態を認識できた。
「――っ!」
その姿に、言葉を失った。
それは、人の頭部を模したモノだった。白くのっぺりとした顔は人の輪郭をなぞっただけの人形で、唯一動く瞼の中にはガラス玉の瞳が入っている。頭髪は無く、店に陳列されたマヌカンの様なシンプルな造りの頭部だった。
理由は分からないけれど、私は人形になっていた。
神と呼ばれるモノは、人である事を放棄したがった私に、ヒトガタとしての新たな生命を与えたらしい。
冗談。なんて皮肉だろうか。
私は、ただただ可笑しくて笑ってしまった。
本を抱えて私の元に戻ってきた少女は、不思議そうな顔でそんな私を見つめていた。